01:好きなもの
なし崩し的にデリックもテレーゼに認められ始めた今日ではあるが、デリックは、夜中にシンディの窓を訪れる習慣を止められずにいた。
もともと届け人は夜に活動することが多く、デリック自身も夜型なので、仕事の合間にシンディの窓を訪れた方が、効率がいいのだ。
夜、未婚の若い女性の下に男が訪れるなんて、外聞が悪いに決まっている。もしこのことがテレーゼやウィリアムに気づかれたのなら、カンカンになって怒られるだろうが、しかし、この習慣をなくしてしまえば、忙しいデリックがシンディに会いに来られる日は極端に少なくなってしまう。
加えて、シンディの隣の部屋に私室を構えるアーヴィンが、ようやくマレット家に戻ったことも、習慣をなくせずにいる要因の一つである。
以前までは、夜中デリックがシンディの部屋を訪れれば、窓を開けたり、わざとらしい咳払いをしたり、物を落としたりと、やたらと隣人の存在感を強調するのだ。いや、もしかしたらデリックに警告しているつもりなのかもしれない。妹に手を出したら承知しないぞ、と。
だが、ああ見えて彼もマレット家当主である。いつまでも実家に入り浸っているわけにも行かず、アーヴィンは先日、妻に首根っこ捕まれてマレット家に連行された。妻に尻を敷かれているのだろうことが容易に想像ついたが、彼の威厳を思って、それ以上の想像は自重しておく。
――とにかく、隣室のうるさい存在がいなくなったので、シンディとデリックは、年相応の、初々しさをちょっと越えた関係にまで発展していた。
デリックが窓を叩けば、シンディが窓を開け、彼を部屋の中に引き入れるのはごく自然な成り行きだったし、帰り際、触れあうだけのキスをしてから別れるのもまた自然なこと。
二人がけのソファに腰掛け、手を繋ぎながらいろんなことについて話すのも、いつものことだった。
「――シンディって、手が好きだよね」
届け人の仕事についてずっと話していたデリックは、話が途切れたときにそう切り出した。相づちを打ちながら、ずっとシンディがデリックの左手を弄っているので、内心おかしくて堪らなかったのだ。
笑いながら指摘されたシンディは、頬を赤くして動きを止めた。
「そ、そうですか……?」
平静を装ってそう聞き返すシンディだが、言われてみればと思い返してみれば、思い当たる節はいくつかあった。デリックのことを初めて好きだと自覚したときも、彼の手に触れているときだったし、彼の目が見れないときも、手であれば握ることができた。
――ファビウスとのことがあってから、シンディは、異性を思わせるものが怖くてならなかった。今のデリックならばそんな風には思わないが、あの時は違った。大きな背丈や怒鳴り声、がっしりとした体格など男を象徴とするものは、シンディは非常に苦手としていた。しかし、デリックの手は――こんなことを言ったら、彼に怒られそうだが――あまり異性の手だとは思えなかった。女性よりは大きいが、滑らかな手のひらに、スラッとした指先。触っていて心地いいくらいだ。
男なのに、男じゃない。怖いはずなのに、怖くない。そして何より、知り合いでも、ギリギリ触れてもいいところ。
そんな数々の理由も相まって、ふとしたときにデリックの手に触れているのかもしれない。
そこまで考えたとき、デリックが動いた。シンディの右手と自身の左手とを絡めると、シンディを更に抱き寄せる。そして彼女の頤に手を当てると、触れるだけのキスをする。
「俺はキスの方が好きだな」
そう耳元で囁けば、シンディは可哀想なくらい顔を真っ赤にした。
「わ、私にはまだ難易度が高いです……」
「そう?」
「そうですよ。やっぱり手が一番好きです。安心しますし」
シンディは咳払いをしてデリックから距離を取った。
今だって、ここまで距離が近くなれば、シンディは反射的に赤面してしまう。手を握るくらいであれば、そんなことはないのに。
「キスは何番目に好き?」
唐突にデリックがそんなことを言う。思わず目を剥くシンディだが、元来素直な彼女は、真面目な顔でしばらく黙り込む。
「よ、四番目……?」
「結構下なんだね」
思いもしなかった順位に、デリックは、呆れるよりおかしくなってしまった。
遠慮無しにケラケラ笑うデリックに気を悪くしたのか、シンディは唇を尖らせてそっぽを向く。
「悪いですか? 真剣に考えたのに……」
「ごめんごめん、からかったつもりはないんだけど」
機嫌を直してと言わんばかり、デリックはシンディの頭に手を乗せる。
「じゃあ二番目は?」
「二番目?」
まだ続くのか、と思いつつも、シンディはまたもしばらく悩んだ。
「声が好きです」
「俺の声?」
「はい。落ち着いていて、それほど低くないので、とても聞きやすいです」
「そっか。そう言ってもらえて嬉しい」
まるでからかうように、デリックはシンディの耳元で囁いた。ブルリと身を震わせ、シンディは彼を睨むが、デリックは悪びれた様子もない。
「三番目は?」
「抱き締めてもらうこと……?」
首を傾げながらシンディが答えれば、デリックは嬉しそうにシンディを正面から抱き締めた。ここ最近ですっかり嗅ぎ慣れた匂いに包まれ、シンディの瞼は次第にとろんとしてくる。
「四番目は?」
「……え?」
「四番目」
「…………」
次第に覚醒してくる頭。
シンディは、デリックの胸から顔を上げた。
「さ、さっき言ったじゃないですか!」
「四番目は?」
「……ずるい」
思わずデリックを睨んでも、彼はシラッとしている。シンディはやけくそになって叫んだ。
「き、キスっ!」
「……可愛い」
再度ぎゅっと抱き寄せられると、次に来たのは、キスの嵐だった。息つく暇もなくなすがままだったシンディは、やがて、精一杯の力を出し切ってデリックを押しとどめると、声の限り叫ぶ。
「もっ、もう今日は無理です! これで失礼します!」
「えっ」
戸惑うデリックを余所に、火事場の馬鹿力で彼を窓まで引っ張っていく。
「おやすみなさい!」
そして早く帰れといわんばかり、ぎゅうぎゅうとデリックの背を押す。
「え、あの……もう? まだそんなに時間経ってないんだけど」
「今日はもう終わりです! さようなら!」
「おやすみのキスは?」
「無しです! 今後一週間無しです!」
「ええ……」
どことなく哀愁を漂わせるデリックを外へ追い出すと、シンディはきっちり窓を閉め、カーテンまで閉め切った。そして一言。
「おやすみなさい!」
「……おやすみ」
こんなときでも挨拶はするのかと、呆れ半分、嬉しさ半分。
やっばりシンディは可愛いなあと、デリックは悠々と帰り道を歩いた。