01:兄の苦悩


 ブランドン家の家の造りは、そんじょそこらの家よりもしっかりしている。そもそもの家の建造にもお金をかけたし、修繕だって一年ごとに行っているのだ、壁一枚隔てた隣室の話し声が聞こえてくるなんて、そんな致命的な事態が起こるわけがない。

 ――王宮での舞踏会で、第一王子フェリクスによって、シンディとデリックのことを大々的に紹介されてからしばらく。
 今日も今日とて、アーヴィン=マレットの隣室からは、話し声が聞こえてきていた。
 貴族の家にとってはあるまじき事態――隣室の声が聞こえてくる。本来は起こりえないこの事態が起こっているのは、おそらくシンディが窓を開けているからだろう。彼女が話しているのは窓のすぐ外の人物であり、当然薄いガラス窓一枚を隔てただけであれば、静かな夜に響く話し声など、耳を澄まさなくても聞こえてくる。
 マレット家当主としての仕事を片付けるため、日夜夜遅くまで起きているアーヴィンは、いつもいつもシンディとデリックの話し声を耳にしていた。とはいえ、内容まで聞こえてくるわけではない。ただ、薄らと話す声や、笑い声が聞こえてくるまでだ。

 アーヴィンは、毎夜微笑ましい気分で笑い二人の声を聞いていた。ファビウスとのことがあり、極度に男性が苦手になり、その後逃げるようにヘレンの家に住むようになったシンディ。彼女のその過去を知っているだけに、アーヴィンは、今の状況が嬉しくてならなかった。二人の楽しげな声からは、年相応にはしゃぐす妹の顔が、様子が、仕草が容易に頭に浮かぶのだ。

 毎夜毎夜、一体何をそんなに話すことがあるのかと不思議に思うくらい、デリックはシンディの部屋に通っているようだった。たまには若者らしく出かけてもいいんじゃないかと思う一方で、初々しい二人のことが愛しくも思う。
 外出せずとも、二人でいるだけで楽しい。
 そんな空気がふつふつと感じられ、若干照れくさくも嬉しい。
 さて、今宵も二人の声を背景音楽に、溜まった仕事を片付けるかとアーヴィンが腕まくりをしたとき、不意に話し声が途絶えた。ついで、そのすぐ後に大きな物音が響く。まるで、何かが部屋に降り立ったような音だ。

「…………」

 アーヴィンは無言で立ち上がると、そっと窓を開けた。そしてそこから少しだけ顔を覗かせる。――そこにいるはずの、デリックの姿がなかった。

「〜〜っ!?」

 デリック! 一体何をしているんだ!?
 いつもの定位置にデリックがいないという事実が示すはすなわち、シンディの部屋にいるということ! 未婚の若い男女二人が、一つ屋根の下で二人きり! 加えて誰もいない暗い寝室に、シンディはおそらく寝間着姿という無防備さ!
 ――何も起こらないと考える方がおかしいというもの。
 アーヴィンは、血相を変えて私室を歩き回った。
 ここは、兄として様子を見に行くべきだろうか。
 いや、しかし、仮にシンディも貴族の娘。そうそうおかしなことはしないだろう……と思いたいのだが、相手はああ見えて思春期真っ盛りの少年。たぶらかすように耳元で甘い言葉を吐けば、純なシンディはそれに絆されてしまう……かもしれない。

 アーヴィンの心境は嵐のごとく荒れ狂うばかりである。
 今すぐにでも部屋に突撃したいが、もしも何もなかったら妹に嫌われるだろうし、でも何かあってからでは遅いし、と、彼の苦悩はどこまでもつきない。
 ――しかし、肝心の隣の部屋では、静かに寝ているシロの様子を、シンディとデリック、二人して微笑ましく眺めているだけである。そんなこととはつゆ知らず、アーヴィンは、その後、一睡も出来ずに夜を明かしてしまったという。