03:引きこもりの魔術師
日も差さない暗く豪奢な一室。そこで、一人の少年が読書をしていた。といっても、その体勢はひどくだらしがない。寝台の上に寝っ転がり、寝癖や寝間着をそのままに、ただ一心不乱にページをめくっていた。
昨夜は寝ていないのか、時折こぼれるあくびに、くっきりと出ている目の下のクマ。そんなにも読書が好きなのか、と思えば、少年の目はそれほど楽しそうには見えない。ただ仕方なく読んでいるような、どこか悲しそうな、そんな瞳。
そのとき、コンコンとノックの音が響いた。少年の返事と共に、扉はゆっくり開いた。
「坊ちゃま、朝食ですぞ」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
振り返りもせずに応えることから、このやりとりはもう随分と繰り返されてきたことがうかがえる。
年老いた侍従は、しばらくカチャカチャと朝食の準備をしていたが、やがてそれも終わると、神妙な面持ちで寝台の側に立った。
「坊ちゃま……またそのような格好で。お父上がご覧になったらひどく嘆かれますぞ」
「父上がここに来たことなんてあるか? ……安心しろ。僕だって外に出るときはもうちょっとマシな格好をするさ」
ぺらりとまたページがめくられる。侍従はため息をつきたいのを堪え、顔を上げた。
「明後日、また夜会が開かれるそうです。坊ちゃまも出席なさるよう、お父上がおっしゃっておりました」
「いやあ、今回は遠慮しておくよ」
軽い調子で少年は返事をする。侍従は厳しい顔つきになった。
「その返事、爺は聞き飽きましたぞ。前回もそう言って欠席なさったじゃありませんか」
「そうだっけ? じゃあ今回もそんな感じで」
手をひらひらと振り、少年は口を閉ざした。
もう話す気はないのか。
十数年彼を世話してきた侍従は、そんな気配を察し、ついにため息を零した。
彼は、いつもこんな感じだった。外に出ず、ずっと部屋にこもりきり。こんな風になったのは、一体いつ頃だっただろうか。
「…………」
思い返してもきりがない。
侍従は諦めると、朝食はそのままに、静かに部屋を出た。少年が外出しないからと言って、まだまだやることはたくさんあるのだ。
扉を閉めたところで、侍従は廊下の奥から足音がするのに気がついた。顔を上げ、何者かに気がつくと、またすぐに頭を下げる。
「――おはようございます。坊ちゃまにご用で?」
「ああ」
短く返された返事に、侍従はまたすぐに後ろの扉に向き直り、ノックをした。
「坊ちゃま、当主様がいらっしゃいました」
「……ちっ、父上!?」
呑気にあくびをしていた少年は、驚きと困惑に飛び上がった。あたふたと辺りを見渡すが、部屋は散らかっていて、今更どうこうできるものではない。そのことに呆然とした後、次いで、自身がくたくたになった寝間着に、あちこちに跳ねた寝癖をつけたままなことにも絶望する。
少年が待ったをかける時間も勇気もない中、スーッと扉は開いた。
「…………」
「…………」
当主とその息子。二人はそれぞれ無言のまま対峙した。その傍らで、侍従があちゃーと額に手を当てていることが、まさにこの事態をたやすく物語っていた。
「ど、どうしてこちらに」
少年は、もう何度も繰り返してきた愛想笑いを顔に貼り付けて、口火を切った。自身の様相のことには全く触れない体でいくつもりであった。
「お前に話があってきた」
当主の方も、難しい顔をして、ようやく少年の方に近寄る。呆れて触れないだけか、面倒なだけか。とにかく彼は、息子のだらしなさには目をつむってくれたようだ。
寝台の側の椅子には座らず、当主は立ったまま少年を見下ろした。
「先日、聖女様がこの地に現れなさった」
「せ、聖女様……?」
勉学は好きだが、別に信心深いわけではない少年は、思わず吹き出しそうになった。『聖女様』なんてものが、この世に存在するとは思ってもいなかったのだ。どうせ、神殿が自身の権威を高めるために、どこかその辺の女を聖女に祭り上げたに違いない、と彼は当たりをつけていた。
そんな息子の心境などいざ知らず、当主は続ける。
「修行の旅に出ていた勇者様も、昨日戻られた。一月後には、魔王を討つための討伐隊が構成され、そして出国することになるだろう。ここまでくればお前も察しがつくだろうが……その討伐隊の一員として、クレメンツ家の名が挙げられた」
「は、あ……」
少年は困惑しながらも頷く。魔王討伐という名誉ある旅に随行できるというのは、大変名誉あることだろう。そしてその役目がクレメンツ家に回ってきたというのもそう珍しいことではない。クレメンツ家は、歴代国家大魔術師を排出してきた由緒正しい家柄であるし、その名に恥じない実力と成果を出してきた。そう、ここまではクレメンツ家が描いていたとおり。
だが、嫌な予感がするのはなぜだろうか。
少年は乾いた唇をなめた。
「父上、それで本題は?」
「ああ、そうだな。……大変不本意なのだが、お前にその討伐隊の一員になってもらいたい」
「――はあっ!?」
恥をかなぐり捨て、少年は思わず間抜けな声を上げた。しかしそれも仕方がないことだ。なぜなら――。
「ち、父上。ご自分が何をおっしゃってるのかお分かりで?」
「お前に言われなくとも分かっている。お前の魔力は一般人並の量でしかない。クレメンツ家の血を受け継いでいるとは思えない程にな。そんなはした魔力量で魔王討伐などと馬鹿げている」
「だったら――」
「だが、こうするしかないのだ。クレイグは遊学に出ていて足取りがつかめない。すぐに連絡が取れたとしても、たった一月でこちらに戻ってこられるとも思えない。だが、この役目を断るなどという選択肢はもとよりないのだ。討伐隊という大変名誉な役目を、他家に盗られるわけにはいくまい」
「し、しかし僕は、魔法高等学園も卒業できずじまいで……」
情けなさに、少年は顔をうつむけた。
彼は、座学は得意だった。例年の主席以上の成績だとも褒められた。が、肝心の実技はてんで駄目だった。いつも、周囲の目を誤魔化しながらやり過ごすだけで精一杯だったのだ。
「何を言う。お前は学園を卒業したのだ。証書とてちゃんとこの家にある。――例え、それがお前の実力ではなくとも」
「…………」
「学園時代、お前に持たせていた魔力増大装置だが、今回は二倍の量を持って行け。もちろん、討伐隊に気づかれぬようにようにな」
少年の表情は浮かない。当主は苛立たしく息を吸い込む。
「学園を卒業してからというもの、長らく高等遊民でいることを看過してきたのを仇で返すのか。お前の魔力量はクレメンツ家の恥だ。だが、魔力増大装置さえあれば、お前もまだマシな存在にはなれるのだから、この事態に恩を返してほしいものだ」
「はい……それはもちろん、父上には感謝しています。僕にできることであれば、精一杯頑張ります」
「そうだ、その言葉が聞きたかったのだ」
当主は満足そうに頷いた。
「お前の本当の実力を知る者はほとんどいない。なに、魔力増大装置とお前の知識があれば、なんとかやっていけるだろう。それに、クレイグと連絡が取れたら、すぐに討伐隊を追うよう指示するつもりだ。クレイグと合流できたら、そこで晴れてお前の役目は終わりだ。お前は、クレイグが来るまで、あいつの代わりをするだけで良いのだ」
「はい……」
「クレメンツ家を挙げて、お前を補佐する。くれぐれも家名に泥を塗るなよ」
「……はい」
少年の肩を叩くと、当主は立ち上がり、部屋を出て行った。少年は唇を噛みしめ、鬱々とした瞳で、己の情けなさ、そして運命を嘆くばかりである。