05:小さな我儘


 ライルがそんなことを言うのは、初めてだったかもしれない。というより、我儘を言う所自体、クレアは初めて見た。いつもだいたい父親の言うことには従っていたし、クレアにも嫌がることは無理強いしない。にもかかわらず、子供のように――いや、実際子供なのだけど――駄々を捏ねている姿は、非常に珍しかった。

「行きたくない」
「ライル……。そんなことを言わずに」

 前回ライルの風邪により、ウェールズ公爵家の晩餐会にクレアとライルは行けなかった。その仕切り直しという形で今夜晩餐会が行われるのだが、しかし、ライルが突然行きたくないと言い始めたのである。挙げ句の果てには、黙って家を飛び出してクレア達の家にやってきて。後に焦ってやって来た彼の父は必死に宥めたが、頑としてライルは聞こうとしない。そうして、先のやり取りがクレアと父、二人の目の前で繰り広げられることとなった。

「一体どうしたんだ……。急にそんなことを言いだすなんて」

 父親もお手上げのようだった。まあそれもそうだろう。いつも聞き分けの良かった息子が、急に我儘を言いだしたのだから。実際、幼馴染のクレアだって、どう対処すれば良いのかわからない。
 ――だから、ウォルフ様。困ったようにこっちを見ないでください。

「クレアちゃん……。君からも何か言ってくれないか?」
「……はあ」

 困った様子の彼の手助けをしたいのは山々だが、何しろクレアだってどうすればいいのか分からない状態だ。とりあえず話を聞いてみることにした。

「ライル……どうしてそんなこと言うの? 行きたくない訳を教えてよ」
「別に……理由なんてないよ。ちょっと、その、体調が悪くて……」
「何を言うんだ。朝測ってもらったら熱なんてなかったじゃないか」

 目を逸らすライル。その様子に、ついに困り果てたようにウォルフさんは天を仰いだ。

「よーし分かった。今日だけは許す。また風邪をひいたということにしておこう」
「仕方ないね。じゃあ今夜は私たちだけで行くことにしよう」

 父に言われ、クレアも頷いた。しかしすぐに服の袖を引っ張られた。

「――クレアにも、行って欲しくない」

 ライルは小さく呟いた。珍しく声に元気がない。

「ライル?」
「いい加減我儘を言わないでくれ。今夜も欠席するのはさすがに外聞が悪いんだ。クレアちゃんだけでも連れて行かなくては」
「でも……」
「ライル」

 決して咎めているわけではない。しかし、その声は低く、力があった。ライルは厳しく怒られたかのようにしゅんとなった。

「あ……」

 なぜだろう。気づいた時には、クレアは棒読みで叫んでいた。

「あいたた……。お、お腹が痛い……。お父様、お腹が痛いです」
「え……っと、どうしたんだ?」
「お腹が痛いんです……これまでにない痛み。少し、自室で休ませてもらってもいいでしょうか」
「あ……ああ、別にいいが……」
「し、失礼します」

 去り際、心配そうなライルと目が合った。はたしてクレアの大根役者っぷりを信じているのだろうか。彼の目は純粋な心配で満ちているように見えた。

「クレア……大丈夫?」

 やはり、その声にも心配の色がある。少しだけ申し訳なさが浮かぶ。

「うん、ちょっとね」
「ついて行くよ」
「ありがとう」

 彼に支えられながら、クレアはのろのろと扉の前まで移動する。

「じゃあ、すみません。少し失礼します」
「ゆっくりしていなさい」
「はい」

 軽く頭を下げ、クレアは退出した。目指すは二階の自室ではなく、一階の空き部屋。ライルはそのことに不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
 空き部屋とはいえ、綺麗に掃除もされ、椅子やテーブルも置いてある。しかしクレアはその椅子に座ることなく、ライルに向き直った。

「抜け出そっか」
「……え?」

 突然の提案に、彼は呆気にとられたような表情になる。

「きっと大人になったら我儘も言えない。我儘を言えるのは子供だけだよ。だから抜け出そう?」
「でも……きっとオースティン様から怒られるよ。いいの?」
「大丈夫! 怒られる時はライルも一緒だし!」

 すっかりライルも巻き込むつもりだった。大人しくクレアも今夜は行きたくないと言えば、少し苦い顔をされるだけで、案外許してもらえるかもしれない。のだが、どうも素直にそんなことはしたくないと思った。なぜか、今日ばかりは大人を困らせてもいいんじゃないか、と思ってしまった。

「ありがとう」

 ライルは何も言わず、ただそれだけを口にした。それはこっちの台詞なのに。

「じゃあ書置きだけでもしておこうか。心配させないように」
「書置きかあ……。じゃあ羽ペンと羊皮紙が必要だね。ここにはないけど」

 一度、自室に戻る必要があるのかもしれない。思い立ったらすぐ行動するクレアは、すぐに抜け出す気満々で一階のこの部屋に忍び込んだ。しかしやはり準備するには自室へ行った方が良かったようだ。

「クレア、ちょっと行って取ってくるよ」
「あ……じゃあついでに外套も取ってきなよ。外は寒いから」
「分かった!」

 そう言ってクレアは元気よく部屋を飛び出そう……としたが、思い至ってライルの方を振り返った。思わずふふふ、と笑い声が漏れる。

「どうしたの?」
「ん……ちょっと。何だか冒険みたいだなって」

 思い返せば、保護者のいないお出かけなど、あまりしたことがなかった。唯一挙げるならば、ライルと一緒に図書館へ通うことくらいか。数時間のお出かけだろうが、それでもきっと楽しい。

「ねえ! 厨房から何か食べ物盗んで持っていかない?」

 一度そう思ってしまうと、ただちょっとした保護者への反抗が、途端に楽しいものに思えてきてしまった。
 クレアは元気よく提案した。

「遠足みたいにさ! きっと楽しいよ!」
「いいね、楽しそうだ」

 ライルも嬉しそうな顔になる。本日初めての笑顔だ。クレアも嬉しくなった。

「行き先は……別にどこでもいいよね。気の向くまま歩こう!」
「道に迷わないよう、クレアは僕について行った方がいいかもね」
「ひどい。私のこと何歳だと思ってるの?」

 しれっとした顔で失礼なことをのたまうライルに、クレアは憤慨する。
 何と言っても、クレアは前世から経験してきた年月がある。きっと今のライルの三倍くらいの歳を経ているはずだ。

「さあ……何歳なんだろうね」

 しかしなぜかライルは嬉しそうだった。

「僕にしてみればクレアは可愛いものだ。迷子にならないよう、しっかり手を繋いでおかないとね」
「こっちの台詞だよ!」

 クレアはもちろん怒る。しかし、どうにも楽しみになってきて、思わずといった笑い声が漏れた。ライルも、嬉しそうにそれを眺めていた。