04:風邪っぴき


 その日、オースティン伯爵家とウィルキンス侯爵家は、長らく交友関係にあるウェールズ公爵家に晩餐会に招待されていた。その娘息子も例外に漏れず、招待されている。家柄が上であることに加え、王宮にも絶大な権力を誇っている侯爵家。そんな家からの招待を断るわけにいかず、否断る理由もなく、両家は晩餐会に向け、朝から支度をしていた。
 クレアも初めての晩餐会であることに加え、初めてお偉方に顔見せする時でもある。それはもう緊張していた。挨拶はきちんとできるか、マナーは申し分ないかと心配の種は尽きない。と言っても、クレアは人生二度目だ。久しぶりとはいえ、それなりにこなせるだろう。そう思ってひとまず自分を落ち着かせた。
 しかし、クレアの方が大丈夫でも、ライルの方はそうではなかったようだ。
 その知らせが届いたのは、昼食の後クレアが侍女たちとあれやこれや、今夜の装いに関して議論し合っていた時だった。

「ライルが風邪を引いた!?」

 父からその情報を聞いた時、クレアは大袈裟なほどに驚いた。父はそんな娘の姿に目を丸くしたが、すぐに目元を和らげた。

「そうなんだよ。私もびっくりした。ライル君は昔から体が丈夫だったのに、今日に限って病気になるもんだから」

 その言葉にクレアは再び驚いた。記憶では、ライルは母親に似て身体が弱かったはずだ。それが――いや、確かに今思い返してみても、ライルがこのところ寝込んではいない。というか、そんな様子など微塵も見せずに、毎日上機嫌で遊びに来ていたのに。
 昨日の今日で風邪をひいたという知らせに、クレアが驚いたのも無理はなかった。

「じゃあ、今日の晩餐会は?」
「ああ、辞退するそうだよ」
「そう……」

 頷き、そして顔を俯ける。
 ライルが、風邪。
 普通ならそれほど心配するほどのことでもない。しかし、昔よくライルが苦しそうにベッドで寝込んでいた姿を見ていたからこそ、クレアは心配だった。

「お父様、私も晩餐会は辞退してもいい?」

 気づけば、そう口にしていた。

「それは……またどうして」
「ライルが心配なの。今まで元気だったのに、急に風邪になるなんて」

 私が看病したからと言って、ライルの風邪が治るわけでもない。しかし、それでも今の彼女には、昔のライルが重なって思えた。
 おそらく彼の父親もきっと今夜は晩餐会に出席する筈だ。ライルも心細いに違いない。父親の代わりに私が傍に居てもいいんじゃないか。

「まあいいだろう。二人とも風邪をひいたということにして、顔見せはまた今度にしよう」
「ありがとう、お父様」

 急遽ドレスの選定は無くなり、その代わり急いでクレアはライルの家へ行く準備を始めた。


*****


 彼の家につくと、まずは当主のウォルフに挨拶をした後に、ライルの部屋に窺った。ウォルフは晩餐会の準備に忙しく、なかなか息子の様子をみられなかったため、クレアの申し出を喜んだ。
 ライルの部屋に辿り着くと、失礼を承知で、クレアはノックもせずにそっと扉を開けた。部屋の中はしんとしていて、ライルはベッドに身を横たえていた。まだ寝ているらしく、彼の額には汗が浮かんでいる。
 世話をしていたメイドは、クレアが来たことに気付くと、にっこり笑ってベッド傍の椅子を勧めた。頷いて腰を下ろすと、彼女はそのまま静かに部屋を出て行った。桶を持っていたから、水を変えてくるのかもしれない。
 ライルは目を閉じたまま、苦しそうに息をしている。何か自分にできることを、とクレアは彼の汗を手巾で拭ったり手を握ったりして見たが、それだけではどうも落ち着かない。
 何か彼のためにできることは無いのだろうか。
 先ほどのメイドが帰って来たのを皮切りに、クレアはいそいそと部屋を出た。彼女には不思議そうな顔をされたが、笑みを返すだけに留める。
 クレアが向かったのは厨房だ。煙をもくもくと炊きながら昼餉の準備をしている。料理人たちはクレアの姿を目に入れると気さくに挨拶を交わしてきた。クレアもそれに応えながら、彼らの邪魔にならないように隅っこに身を寄せる。

「クレア様? 何かご入り用で?」

 料理長がのんびりとした声で聞く。曖昧に頷きながら、彼の傍に寄った。

「あの、忙しい所ごめんなさい。蜂蜜ってありますか?」
「蜂蜜? ああ、それならジェーンのとこだよ」

 彼が指さす方にはメイド長がいた。険しい表情で何かとにらめっこしている。またもや料理人たちの間を縫って歩き、彼女の元へとたどり着く。

「ジェーンさん」
「あら、クレア様?」
「何をしてらっしゃるんですか?」
「ああ、これですか」

 彼女の目の前に置いてあるのは、蜂蜜や生姜、紅茶の葉にティーカップだ。

「ライル様にレモンティーを作って差し上げようと思いまして」
「レモンティー? もしかして蜂蜜の?」
「はい。ご存じなんですか?」
「え、あ……はい。よく家で作ってもらってて」

 厳密にいえば、ライルの家で、だ。昔――前世ではよく風邪をひいていた彼に、クレアが作っていたのだ。

「蜂蜜のレモンティー、実は作るのは初めてなんです。ですからライル様のお母上の味を再現できるかどうか……」

 メイド長は不安気な様子で項垂れた。そんな彼女にクレアは意気込む。

「なら、私が作ってもいいかな?」

 意気込んで聞いてみた。

「クレア様が、ですか?」
「はい。私もライルのために何かしたいんです」

 ……という殊勝な気持ちももちろんあるが、ほとんどはただ単に懐かしかっただけだ。昔はライルが寝込むたびにお節介なクレアは押しかけて、彼の好きな蜂蜜レモンティーを作っていたものだ。ライルが大人になるにつれ体も丈夫になり、しかもすっかりひねくれていた彼は、いつの間にかクレアのレモンティーを拒むどころか、家に押しかけることすら嫌な顔をするようになったのだが。
 要するに、病気のライルの家に押しかけることも、蜂蜜レモンティーを作ることもただ単に懐かしいだけ。少しそのことに罪悪感を持ってはいるが、しかし己のライルを心配する気持ちは嘘ではない。そう納得すると、再びクレアはメイド長に詰め寄る。

「私ににやらせてください」

 そのキラキラとした瞳を拒むことはできずに。

「は、はあ……。ではお願いします」

 メイド長は曖昧に頷いた。


*****


「ライル……入るよ」

 両手で盆を持っていたのでノックするのが面倒で、そのまま声だけをかけた。片手でドアを開け身をすべり込ませ、行儀が悪いのを承知で足でドアを閉める。どうせ起きていないだろうと、高をくくっての醜態だったが、運悪くライルは起きていたらしい。顔を正面に向けたクレアとばっちり目が合った。彼は目を丸くしていた。それはクレアが来ていることへの驚きなのか、それとも行儀の悪さに呆気にとられたのか。
 判断ができなかったクレアは唐突に話し出す。

「あ、あはは……。どう? 体調は」

 目で見なかったことにして、と訴えながらの台詞。どうやらライルも見なかった振りをしてくれるらしい、そのまま寝台の上に倒れこんだ。

「驚いた……。まさかクレアが来てくれてるなんて。晩餐会はどうしたの?」
「今回は見送ることにしたの。そんなに行きたかったわけじゃないし」
「ごめん……。でもやっぱり嬉しいな」

 熱でうるんだ瞳がクレアを見上げる。何だか気恥ずかしくなってきて、クレアはすぐに彼から目を逸らし、ティーカップを差し出す。

「ほら、蜂蜜レモンティー。ライル好きなんでしょう?」

 身を起こしかけていたライルの身体が、ピタッと止まった。そのまま動かなくなる。クレアは不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。

「ライル? 大丈夫?」
「ああ……うん。大丈夫」

 額に汗を光らせながらライルは頷いた。背もたれに寄り掛かり、クレアを見るライルは、もういつもの彼だった。

「よく知ってたね。僕が好きなこと」
「うん。メイド長に聞いたの」

 本当はただ記憶を引き継いでいただけだけど。

「昔、母上がよく作ってくれたんだ。僕が風邪ひいた時に」
「そうなんだ」
「だから嬉しいよ。また飲めるなんて」
「でもお母様と同じ味だって保証はないよ? 私だって初めて作ったんだから」

 もう何度も作ったことがあるけど。

「ありがとう」

 そう言って、ライルは右手を差し出したが、クレアはその手を制止する。

「待って、まだ熱いから飲んじゃ駄目だよ」

 風邪で弱っているライルに熱々のレモンティーは駄目だ。絶対にやけどする。
 クレアは湯気がたっているカップに向かって息を吹きかけた。きょとんとこちらを眺めているライルの間でこの行動は些か恥ずかしかったが、仕方がない。羞恥を隠して熱さが通り過ぎるのを待った。

「はい、どうぞ」
「ありがとう」

 穏やかな笑みでライルは受け取り、カップに口を付ける。
 一口。二口。
 こくこくっと動くライルの喉をクレアはじっと見ていた。

「……懐かしい」

 ライルが小さく呟く。でしょ? とクレアは自慢げに視線を上げた。――刹那、ぎょっとする。ライルの瞳に涙が浮かんでいたから。

「ら……ライル!? どうしたの、美味しくなかった!?」
「いや、違う……」
「ごめんね! 何か変だった?」
「そうじゃないんだ……」

 頑なに首を振り続ける彼に、次第にクレアは何も言えなくなってしまった。
 もしかしたら、亡くなったお母様の味を懐かしんでいるのかもしれない。
 ふっと笑うと、クレアは再び黙り込んだ。性格がすっかり変わってしまったライルだが、今の彼は、以前と何も変わらないような気がした。