03:令嬢と付き人


 その二人が入ってきた時、店内は確かにざわめいた。別段何かが目立っていたわけではない。明らかに身分違いを感じさせる格好だったわけではなく、こちらを萎縮させる威圧感があったわけでもなく、ただ――場違いだった。自分たちと世界が違うなと感じさせられる何かが、この二人にはあったのだ。
 それは、入店して、まず始めに店内を見回す視線、立ち姿、目が合って微笑むその表情さえも、品があると言えるがためであった。実際、店主は上流階級と顔を合わせて話をしたことなどない。それでも、彼らがその立場に当たる人なのだろう事は、直感が教えてくれた。
 店内の空気を一瞬で変えた客は、二人組だった。若い男女。どちらも背が高く、女性の方は豪奢な扇子で顔を隠すようにしていた。
 あまりに無作法に見過ぎただろうか。その不躾な視線から彼女を隠すようにして、青年がサッと前に身を乗り出した。

「換金したいのだが」

 そう言って彼が差し出したのは、一本のネックレス。チェーンは金で、その先にある台座には眩しく光る石が鎮座している。店主は、一目でその石の価値が分かった。小さな港町の買取屋を営んではいるが、腐っても鑑定士である。本物の宝石は、まず輝きが違う。

「失礼します」

 ごくりと唾を飲み込み、店主は手袋を嵌めた手でネックレスを手に取った。拡大鏡を右手に、隅々まで細部を見る。
 宝石を見極めるには、重量、色、透明度、形など、様々な項目を見る必要がある。故に、時間がかかる。鑑定中、あまりに静かに、時間がかかっているので、焦れたのだろう、まだなお入り口近くに立ったままの女性が口を開いた。

「まだかかるの?」
「申し訳ございません」

 応えたのは、店主ではなく青年の方だ。
 恋人かと思われたその二人組は、どうやら令嬢とその付き人だったらしい。青年があまりに堂々としているので、てっきり貴族だと思ったが、そうではないようだ。確かに、改めて見ると、彼は上着を羽織っていないし、そのせいで雰囲気と相まってどこかちぐはぐにも見える。とはいっても、使用人を見れば、その家の格が分かると言うが、まさにこの付き人はそれを体現していた。上質なシャツは、折り目がしっかりしていて、アイロンも欠かさず行っているらしい。髪も整えられていて、清潔だ。所作も綺麗で、物腰も柔らか。見目も良い。良い人材を雇った……というよりは、雇い主がここまで教育したと言うべきか。
 付き人がこのような人材ならば、それを雇う家は、さぞ立派な貴族家なのだろう。
 店主は、一層拡大鏡を持つ手に力が入った。だが、そんな緊張など何のその、令嬢は深々とため息をつく。

「どうしてこんなことになってしまったのかしら。そこのポンコツが財布を忘れなければねえ」

 令嬢はニコニコ微笑むが、彼女の言うポンコツが付き人を指しているというのは容易に想像がつく。青年はぴしりと固まり、何かもの言いたげに令嬢を見やるが、結局その口から文句が出てくることはなかった。それもそうだろう。一介の使用人が、主である人物にもの申せるわけがない。

「……面目次第もございません」

 青年が項垂れ、顔を俯かせる。彼の表情は分からなかったが、声の調子から、さぞ落ち込んでいるのだろうことが窺える。声が震えていた。

「そういうことだから、私たちは至急お金が入り用なのよ。いくらで買ってくれるのかしら?」

 青年を通すことは止めたのか、令嬢は店主と目線を合わせた。

「分かってはいると思うけれど、足下は見ないことね。私のそのネックレス、お父様に買ってもらったものなの。はした額で買い取れると思わないでくださる?」

 言外に、彼女は脅していた。はした金で買い取れば、父の名に傷がつき、しいてはあなたの店のためにも良くないわよ、と。

「ち、ちなみに……」

 店主の声は震えていた。ごくりと生唾を飲み込み、勇気を奮い立たせる。

「お嬢様の……その、家はどちらで……?」

 令嬢の口元が、ゆっくり弧を描く。まるで、その質問が出てくることがあらかじめ分かっていたような笑みだった。令嬢は焦った様子もなく、彼女は店主を焦らすようにして言葉を紡ぐ。

「――この私に、家名を出せというの?」

 それは、目の前の人物の名前を知らないと言うこと。
 それは、相手の家を侮辱することに他ならない。
 店主には、それ以上聞き返す勇気などなかった。

「め、滅相もございません。失礼いたしました。買い取り価格なのですが」

 冷や汗を流しながら、店主はネックレスに視線を落とす。
 確かに、文句なしの一級品だ。だが、本来ならば、これは買うに値しない。買い取ったとして、この先これほどの値打ちの物を買うような客層ではないからだ。そして、きっとこれからもやってこない。
 だが、そうは分かっていても、店主は己の口が動くのを止められなかった。
 店主が提示した金額に、令嬢は軽く頷き、承諾した。あまりに早い返事だった。将来彼女は大物になるだろうと店主は予感せずにはいられなかった。続けて令嬢は言う。

「私にお金を持ち歩く趣味はないの。エドウィン、早く受け取って」
「かしこまりました」

 恭しく返事をし、青年はお金を受け取る。その行動は、別にもたついてなどおらず、至って迅速だ。だが、令嬢の方はそうは思わなかったらしく、扇子を開いたり閉じたりする。

「早くしてくれない、エドウィン? 約束に遅れるでしょう」
「申し訳ありません。少々お待ちいただけますか、お嬢様」

 我が儘な主を持つと大変だな、と店主の視線は次第に哀れみを帯びてきた。家格は大物のようだが、性格に難のある主の世話は大変だ。

「本当に仕方ないわね、エドウィンは。昔から壺を割ったり、絵画に傷をつけたり……。何か粗相をするたびにお父様に言い訳してあげたのはどこの誰だったかしら?」

 ……話の内容とは裏腹に、令嬢は心の底から嬉しそうだった。まるで覚えの悪い犬を溺愛する飼い主のように、瞳をキラキラさせている。
 衆目の場でこんな話をされるのはさすがに屈辱なのだろう。青年の口元はひくひく動いている。いつ彼が怒り出すかと店主は冷や冷やしていたのだが、やはりそこは使用人。彼女の奔放な言動には慣れたものなのか、怒りを、羞恥を押さえ、彼女に向き直る。

「お待たせいたしました」
「ようやくね。行くわよ」
「はい」

 スカートの裾を翻し、令嬢は出て行った。その後ろには、もちろん青年を従えて。
 店を出てしばらく、令嬢とその付き人は、しばらく無言で歩いた。本来ならば、使用人は主の半歩後ろを歩かねばならない。だが、その気遣いはこの青年にはなかった。
 店が見えなくなった初めて、この奇妙な主従の関係が崩れる。青年――エドウィンは、ピクピク痙攣を起こす口角を無理矢理上げた。

「やけに高飛車なお嬢様だな。まあ、その方がお前らしいはお前らしいが」
「まあ、人聞きの悪いことを言わないでくださる? 私はわざと我が儘なお嬢様を演じたのよ。その方が相手も怯えてくれるでしょう?」
「それにしてはやり過ぎのような気がしたが」
「そうかしら?」

 あっけらかんと言い返すと、オリヴィアは扇子をパタンと閉じる。
 エドウィンの苦言など全く耳に入ってこず、むしろ今は此度の計画がうまくいったことによる歓喜が勝った。

「さすが私!」

 腰に手を当て、オリヴィアは悦に入る。

「我が儘なお嬢様の演技もさることながら、交渉術も相手の上をいったわ。なんて素晴らしいのかしら」
「あー、はいはい。そうだな」
「感謝してくださいね、殿下?」

 そう微笑むオリヴィアは、今までで見た中で一番生き生きとしていた。

「さ、この調子で次の店に行くわよ」
「もう? 金は貯まっただろ?」

 さっきの店で、想定していた以上の価格で買い取ってもらえたので、エドウィンは今の状況を楽観視していた。だが、オリヴィアはそうはいかない。

「世間知らずにも程があるわね。このくらいの金額で乗船券二枚が買えるとでも? まだ足りないわ。ほら、行くわよ」

 まるで、首に見えないリードでも繋げられているかのように、エドウィンは彼女の言葉に足を動かさないわけにはいかなかった。
 とはいえ、エドウィンはこの時彼女に大人しくついていったことを後悔することになる。この初回の成功を機に、オリヴィアは徐々に図に乗り始めたのだ。

「エドウィンが財布を落とさなければねえ。この子、いっつもそうなのよ。学習能力がないのかしら?」
「ちょっとエドウィン? シャツにソースがついてるわよ。上着だけでなく、シャツにまで飛ばしてたなんて……」
「エドウィン、待ってる間、肩でも揉んでくれない?」

 ここまでくると、もはや鑑定など関係無しである。ただの演技である主従関係を、オリヴィアは過度にやり過ぎている。否、楽しんでいるのだ。普段は王子であるエドウィンの方が一応は格が上で、敬語を使わねばならないし、立場を弁える必要がある。それが今はどうだ。公然とエドウィンよりも優位に立つことができる。馬鹿にすることができる。今までにない優越感に、オリヴィアは酔いしれていた。
 あまりあるオリヴィアの悪行に、エドウィンの堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題だった。

「交代だ、交代!」

 さすがのエドウィンも我慢の限界である。恥も外聞もかなぐり捨て、オリヴィアに指を突きつけた。

「あまりにも傍若無人過ぎる! 演技だからって調子に乗りすぎだ!」
「あら、使用人様は交代をご所望で?」

 だが、オリヴィアはというと、顔色一つ変えなかった。

「よく考えてください。私の格好は、どう見ても使用人には見えないでしょう? その点、殿下はどうです」

 オリヴィアはわざとらしくエドウィンを上から下までじっくり眺めた。

「上着も着ていないし、ベルトもない。シャツはよれてきているし、ズボンはくたくた」
「こんな姿にしたのは誰だよ」

 エドウィンはボソッと言い返すが、オリヴィアは聞く耳を持たない。

「上着にソースの染みを飛ばした殿下には、使用人がお似合いですよ」

 フッと小馬鹿にした笑みを浮かべた後、もうこれ以上言うことはないとでもいうように、オリヴィアは颯爽と身を翻した。続いて向かうは、次のカモ店主。

「…………」

 上着の件がすっかり弱点となってしまったエドウィンは、もう何も言い返すことなどできず、ただただ黙って――それこそまるで使用人のように――オリヴィアの後をついていくしかなかった。


*****


 数店渡り歩いているうちに、目標の額は貯まった。すぐに二人は乗船券二枚を買ったが、まだまだ夕方の出航には時間がある。しばらく街をうろついて時間を潰すにしても、二人仲良く連れ立つ理由はない。もともと、オリヴィアとエドウィンは仲が良いわけではないのだ。
 そういう訳で、二人は出航まで別行動をしていた。オリヴィアは街を見て歩き、エドウィンは図書館で本を読み。
 各々思い思いの時間を過ごした。とはいえ、もちろん夕方には出航というのを忘れてはいない。ちゃんと時間通りに――むしろ、乗り遅れを危惧して、かなりの余裕を持ってエドウィンは港まで戻ってきた。

「もう乗ってるのか?」

 港にオリヴィアの姿はない。彼女は、連れのエドウィンを待つという可愛い性格をしていないことなど重々承知済みなので、エドウィンはさっさと船に乗った。
 割り当てられた船室に荷物を置くと、エドウィンはさっさと甲板に向かった。潮風に当たりながら、物思いに耽る。
 船なんて今までで何度と乗ったことはあるが、今は新鮮な心地だった。自分たちで苦労して金を集め、乗船券を買ったためだろうか。不思議な気持ちだった。
 太陽が地平線に沈み行くのを眺めながら、ふとエドウィンはオリヴィアのことに思い至った。
 そう言えば、彼女はどこだろう。甲板にはいないし、他にいるとすれば船室だが、彼女は狭いところが嫌いなので、きっと荷物を置いたらここに出てくる、はずなのに。
 嫌な予感がする。思い出せ、オリヴィアはどんな奴だった。しっかりしているようで、どこか抜けている。そして一番たちが悪いのが、そのことを彼女自身が自覚していないこと――。
 瞬間、エドウィンは駆けだした。
 直感――いや、長年の経験故だった。オリヴィアはこの船にいない。いや、それどころか――。
 エドウィンは、船を飛び降り、船員の呼び止める声も振り切って、隣の埠頭まで急いだ。

「人を探してる!」

 そして、乗船券を確認する船員に開口一番尋ねる。

「ここに若い女が来なかったか!? アプリコット色のドレスを着た、背の高い女だ!」
「ああ、そう言えば貴族のお嬢さんみたいな格好した女がいたっけなあ」

 人の良さそうな船員は、エドウィンの失礼な態度を気にした風もなく、軽く応える。

「確かか!? この船はどこ行きだ?」
「イグナだよ」

 悪態をつきたくなったのをグッと堪え、エドウィンはタラップに足をかけた。

「その女が間違えて船に乗ったんだ。悪いが、連れを探すまで、ちょっと待っててくれないか?」
「うーん、そりゃできない相談だな。ただでさえ遅れてんだ。悪いが、これ以上出航を伸ばすわけにはいかないよ」
「――っ」

 ここで言い合っていても埒が明かないと、エドウィンは駆けだした。ひとまず今は、何が何でもオリヴィアを探さなければ。
 ――一体、あいつはどこにいる。
 エドウィンが一番に向かったのは、もちろん甲板だった。彼女がいるとすれば、ここしかあり得ない。右に、左にと辺りを見回すが、荷物を運び入れる男達があまりに多すぎて、見つけ出せない。
 出航の汽笛が鳴る。いつの間にか船首まで来ていた。かき分けた人の波間に、チラリとアプリコットが見えた。

「――リヴィ!」

 思わず叫べば、この人だかりの中、彼女だけが振り返った。驚いたような、困惑したような表情を浮かべた後、彼女にしては珍しく、何の意図もない笑みを浮かべる。

「あら、遅かったのね。てっきり乗り遅れたのかと思ったわ」

 オリヴィアはあっけらかんとしていた。そのきょとんとした無垢な視線が、今は何よりも腹立たしい。

「駄目よ、こういうときは早め早めの行動が大切なんだから。乗り遅れたらどうするつもり? 私たちの今日の苦労が水の泡になっちゃうわ」

 船は、既に動いていた。間に合わなかったのだ。水の泡になったのだ。

「…………」

 片手で顔を覆い、エドウィンは深々とため息をついた。その行動の意味が分からず、オリヴィアはますます首を傾げる。

「どうしたのよ。何か心配事? もう後は船に乗ってるだけなんだから、大したことないわよ。明後日には港に着くんですって。良かったわ。一時はどうなることかと思ったけど」
「……まだ終わってない」

 エドウィンはボソッと呟く。

「これからが始まりだ」
「何を意味の分からないことを言ってるの?」

 未だ理解できないオリヴィアにため息をつきたくなるのを堪え、エドウィンは辛抱強く訊ねた。

「今乗ってるこの船、どこ行きだと思う」
「どこって……」

 オリヴィアは目を丸くした。

「アドランテでしょう?」
「イグナだ」
「……イグナ?」

 かなりの間をおいて、オリヴィアはようやく返答した。

「どこそこ?」
「こっちが聞きたい!」

 エドウィンの頭の中でプチッと何かが切れた。

「どこだよイグナって! 折角集めた金がパアになっただろ! 方向音痴にも程がある……。いや、そんな言葉では片付けられない。馬鹿だろ、お前馬鹿だろ」
「なっ、何て言い草……!? ちょっと間違えただけじゃない! ちょっと見間違えただけじゃない!」
「それを馬鹿だって言うんだ! どこをどう間違えたら乗る船を間違えるんだよ! そもそも、行きは一週間船に乗ってたのに、帰りは二日なんてあり得るわけないだろうが!」
「し、仕方ないわ」

 オリヴィアの声は震えていた。謝りこそしなかったが、一応は申し訳なさを感じているらしい。

「また……同じ手でお金を稼ぎましょう。幸いなことに、最後のお店でかなりの値段で買い取ってもらえたから、まだちょっと余裕はあるはずよ」
「…………」
「いくらあるのか確認しましょう。あとどのくらいお金が必要なのか、計算するべきよ」
「…………」
「エド?」

 返事が返ってこない。オリヴィアはもじもし手を擦り合わせた。

「ご、ごめんなさい」

 もごもごと謝罪を口にするオリヴィア。すっかりしょげかえったこの姿を見て、まだまだ言い足りなかったが、ひとまずエドウィンは溜飲を下げることにした。オリヴィアにいくら文句を言ったとして、この状況が何とかなるわけではない。それよりも、今は将来のことを考えるべきだ。

「……あれ」

 そう考え、オリヴィアの言うとおり、手荷物を確認しようとしたところ。

「あー……」

 荷物、忘れてきた。
 やけに清々しい気持ちで、エドウィンは燃え尽きた。天を仰ぎ、空笑いをする。

「あはは、俺も俺だな……」

 そして徐々にこみ上げる、脱力感。

「なんで俺たち、こんなにポンコツなんだよ……」

 エドウィンの絶望しきった声は、夜に染まった海に溶けて消えた。