02:置き去りな二人


 船の姿が見えなくなるまで、二人はしばらくそこから動けなかった。内心は期待していたのだ。もしかして、自分たちがいないことに気づいて、船が引き返してくれるのでは、と。
 だが、無情にも船は地平線に消えていった。

「仮にも俺は王子だぞ……」

 エドウィンはポツリと呟く。

「王子を置いて行く奴があるか!」
「それが、あったみたいですね」

 無力と空しさ、羞恥、怒り――様々な感情がこみ上げた結果、爆発する先は、自分以外に、一人しかいなかった。

「王子殿下ともあろうお方が、まさか護衛の方に忘れ去られるなんて」

 力ない軽口だったが、エドウィンはそれを買った。怒りの矛先が、自ら彼の前に飛び出してきたのだ。

「お前だって、友人に忘れられてるだろ。いつも一緒にいたのに、悲しいことだな?」
「船で待ち合わせということにしたので、それも仕方ありません。私がいないことにだって、すぐ気づいてくれるはず。心配はご無用です」

 ツンとしてオリヴィアは返す。だが、内心ちょっとショックだったのは事実である。確かに船で待ち合わせはしていたが、まさか、自分の不在に気づかずに出航してしまうとは。
 己の傷を慰めるため、オリヴィアはせめてもと悲しんでない振りをし、代わりにエドウィンを哀れむ。

「お可哀想に。自分には護衛がついているからと、さっきはあれほど自慢げだったのに」
「くっ」

 エドウィンの頬に朱が差す。間が悪かった。まさかさっきの今で、こんな仕打ちが待ち受けていようとは、誰が想定しただろうか?
「いや」

 だが、いくら何でも護衛を置いていくか? そもそも、護衛とは、離れて対象を守るもの。ならば、先回りして一足先に船に乗り込む、なんて本来はあり得ない。ならば、きっと今この瞬間にも、彼らはエドウィンのことを見守っているはず。

「コホン」

 自分の中でそう結論づけると、エドウィンはわざとらしく咳払いをし、数歩前に出た。周りをゆっくり見回し、そして鷹揚な仕草で頷く。

「もう出てきて良いぞ。緊急事態だ。ヘクター? ケヴィン? 出てきて良いぞ。いや、出てこい」

 人の出入りが少ない今の時間帯、エドウィンの声はよく響いた。にもかかわらず、人っ子一人動く気配がない。

「…………」

 エドウィンの必死の声も空しく、護衛は現れなかった。姿を現したら護衛の意味がなくなるから、出てこないわけではない。単純に、この場にいないのだ。エドウィンは絶望する。恥ずかしかった。自分が呑気に出歩いている時、きっとその瞬間も護衛はついてきているのだと、そう思い込んでいたのに、まさかそれが全て自分の思い違いだったとは。
 エドウィンはがっくり項垂れた。

「いやいやいや。確かに以前から任務に不真面目なところのある護衛達だとは思っていたが……いや、そんなのあり得るか? 護衛対象を放って、自分たちだけ船に乗るなんて、そんなことあり得るか?」
「あり得たようですね」

 間髪を入れず、オリヴィアは冷静に言ってのける。エドウィンはもはやもう何も言い返せなかった。ただただその場にがっくり項垂れるのみ。

「おい、退いた退いた」

 そんな彼を、大きな荷物をこさえた船乗りがグイッと押しのける。

「ここにゃすぐに次の船が来るんだよ。積み荷の嵐に巻き込まれたくなかったら、さっさとおうちに帰んな」

 気がつけば、つい先ほどまで閑散としていた港は、たくさんの船乗りや商人で溢れかえっていた。邪魔にならないようにと、オリヴィアたちはさっさとその場から退散する。否、いつまでも自分たちを置いて行った船を名残惜しく眺めていても、現実は変わらないと気づいたからである。
 とぼとぼとあてもなく歩きながら、オリヴィアは仕方なくエドウィンに目を向ける。

「殿下、金銭はいくら持ってらっしゃいますか」
「この俺が金なんて持ってるわけがないだろ。王子だぞ王子」

 何故だか偉そうにふんぞり返るエドウィン。オリヴィアはシラーッとした目を向けた。

「今となっては役に立たない肩書きですが」

 そう一笑に付しながらも、オリヴィアは諦めない。

「さっき買い物をしてらしたじゃありませんか。お金は持ち歩いてらっしゃったのでしょう?」
「土産を買うためだけにな。かさばるのが面倒で、主人に全部渡した」
「はあ……」

 万が一にも期待した自分が馬鹿だったと、オリヴィアは頭を抱えた。そうだった、昔からこの人はこういう人だった、と。
 オリヴィアの失望にはちっとも気づかずに、エドウィンは呑気に腕を組んだ。

「そういうお前はどうなんだ? お金はあるのか?」
「一応持ってはいますが、そんなに多くは……。あまり想像したくありませんが」

 オリヴィアは苦い顔でため息をついた。

「私たちのことに気づくのが遅れる場合も想定しておかなければ。気づくのが遅れれば遅れるほど私たちはここに滞在しなければなりませんし、ただ、私たちはお金がない。部屋を借りるお金も、食べるためのお金もないんです」

 気難しい顔でつらつらと述べるオリヴィアに、エドウィンは呆れて空を仰いだ。どうしてそんなに小難しく考えるのか、と。もっと楽観的に物事を考えれば良いのに、と。

「とりあえず、昨日宿泊した施設へ行こう」

 エドウィンは軽い調子で言ってのけた。だが、オリヴィアはもちろんそんなに容易には賛同できない。

「お金がないんですから、行っても無駄では?」
「事情を話せばいいだろう。向こうも、学園の名前と宿泊代金の請求先は知ってるんだ。俺たちが手ぶらでも、もらい損ねることはない。むしろ、恩を売れるんだから、嬉しいだろう」
「そんなに簡単にいきます……?」

 オリヴィアは浮かない顔だったが、しかし、彼以上に良い案が浮かぶわけでもなかったので、渋々エドウィンの後をついていった。
 だが、拍子抜けなことに、事情を話すと、宿の主人は快く受け入れてくれた。かえって不自然なほどに。
 金欠のオリヴィアとエドウィンにしてみれば、思ってもみない幸運だったので、二人はお言葉に甘え、もう何泊か泊まることになった。
 二人は、思わぬ僥倖に浮かれていた。泊まるところがあるのなら、路頭に迷う心配もないのだから。だが、後に後悔することとなる。二人が案内されたのは、二人部屋――個室ではない。その上、ベッドは中央に鎮座する大きなベッド一つのみ。
 あり得ない。普通に考えて、あり得ない。恋人じゃあるまいし、どうして同じ部屋の、同じベッドで寝なければならないのか。
 まさか、枕を共にするような間柄だと勘違いされたわけではないだろうに。
 二人は無言で宿の主人を見る。決して文句を言える立場ではないので、あくまで無言で。――何もしないままではいられなかったのだ。お願いする立場とはいえ、断じて、今のこの状況に妥協してはいけない。
 しかし、申し訳なさそうに、ここしかないのだと言われてしまえば、二人は無理矢理笑って頷くしかなかった。常日頃愛想の仮面をつけている悲しい性が幕を下ろした。
 主人が階下に降りていって、部屋にオリヴィアとエドウィンだけが取り残される。窓から差し込む光は充分に明るい。まだ時間はあったが、時間があるからと解決できるような問題ではない。

「俺は気にしない」

 ベッドに腰掛けながら、エドウィンはポツリと言った。

「別に何もしないし」

 彼らしいことだ、とオリヴィアは思った。エドウィンが本当に何もしないだろう事はよく分かっている。そこは信頼している。だが、そういう問題ではない。
 オリヴィアは小さく嘆息する。

「あなたは気にされなくとも、私は気にします。周りの人だって気にされるでしょう。事はそんなに単純ではありません。それに、殿下もご自身の立場を考えないと。私のことで何か噂が立ってもお困りでしょう」

 一呼吸置き、オリヴィアはパッと顔を上げた。そこまで言って、ようやく思い至った。同時に決心がついた。

「やはり、後を追いましょう」
「は?」
「呑気に一泊、二泊としていられません。こうしている間にも、どんな噂が立っているか分かりません。まだ婚前なんですよ? 結婚前の経歴に傷がつくのは嫌です」
「誰がそこまで考えるんだ。こんな非常事態に」
「だからこそです。付け入る隙を与えてはいけません」

 婚前なのに、とオリヴィアは再度付け足す。エドウィンはもはや言い返す元気もなく、ただ促されるまま頷いた。

「それでは殿下」

 そんな彼を置いてけぼりに、オリヴィアはエドウィンに向き直った。

「服をお脱ぎください」
「なっ――」

 思いも寄らない言葉を投げかけられ、エドウィンは目を剥いた。遅れてオリヴィアの言葉を頭が理解すると、徐々に彼の顔は赤くなる。

「何言って……は!? 服を、脱ぐ……?」
「何を勘違いなさってるんです?」

 エドウィンのあまりの狼狽ぶりに、自分の言葉はいささか語弊を生むものだったかも知れないと、オリヴィアはようやく思い至った。だが、時既に遅し。言ってしまったものはもう仕方がない。冷静に訂正するよりほかなかった。

「殿下の上着がお金になりそうなので、脱いでください。あと、確か懐中時計も持ってらっしゃいましたよね? 大切なものでなければ、換金しましょう」

 あまりに豪快に言い切るオリヴィアに、エドウィンはごくりと唾を飲み込んで心を落ち着かせた。一瞬の間をおき、ようやく彼は冷静になった。

「上着は売ってもいい。だが、懐中時計は駄目だ。王家の紋章が入ってるから売れない。悪用されても困るからな」
「役に立たないわね」

 片眉をピンと跳ね上げ、オリヴィアはやれやれとため息をついた。一番お金になりそうな代物だけに、とんだ宝の持ち腐れである。

「何か言ったか?」

 ジロリとエドウィンは横目で睨む。

「そういうお前は何か売れそうな物を持ってないのか?」
「ネックレスと髪留めくらいでしょうか。小物類は全部船に置いてきてしまいました」
「扇子持ってただろ? あれは?」
「あれは駄目です」

 大した理由もなく、オリヴィアは首を振る。エドウィンは疑り深い目になった。

「なぜ? 誰かからもらったものなのか?」
「いいえ、自分で買った物です。ただ、年代物というわけでもありませんし、売ったとしてもたかが知れてます」
「でも、全く金にならないわけじゃない」
「それをおっしゃるのでしたら、私はベルトが気になります」

 攻守一転、オリヴィアの瞳が怪しく光る。

「高そうな宝石がついてらっしゃいますね? きっと高く売れますよ」
「本当に身ぐるみ剥ぐつもりか?」

 身も蓋もない物言いに、エドウィンの口はひくつく。強かなオリヴィアに完全に引いていた。

「仕方ないでしょう。こうするしかお金を得る方法はありません。まさか、殿下が汗水垂らしてお金を稼いでくれるとおっしゃるんですか?」
「…………」

 オリヴィアの言葉に、エドウィンはうんともすんとも言い返すことができず、渋々彼女に従うほかなかった。徐に立ち上がり、腰のベルトを引き抜く光景からは、第一王子たる威厳など形無しである。そのことについて、エドウィンは必死に考えないようにしながら、嫌々ながらオリヴィアに上着と共にベルトを献上する。その光景は、さながらへそくりを没収される夫のようにも見えなくはない。尻に敷かれた彼は、泣く泣く強情な妻の言う通りにするしかないのである。
 すっかり身ぐるみ剥がれたエドウィンとオリヴィアは、再度街に繰り出した。土地勘がないながら、なんとか買取屋を見つけ出すと、不安な面持ちで店の中に入る。

「これを……売りたいんですけど」

 まずは様子見と、オリヴィアはエドウィンの上着をカウンターに置いた。店内に客はおらず、いるのは彼女たち二人と店主のみである。店主は、値踏みをするかのように、上着とオリヴィア達とをジロジロ見比べた。

「上着……一着のみで?」
「はい」
「見たところ、その兄ちゃんの物みたいだけど……上下揃えると、それなりの値段は出せるが、本当に上着だけで?」

 オリヴィアの目が、ツーッとエドウィンに向けられる。エドウィンの背筋に寒気が走った。まさか、まさかとは思うが、オリヴィアはここで俺のスラックスまで奪う気じゃないだろうな? 王子ともあろうこの俺を、下穿き姿にするわけじゃないだろうな?
 ゆうに一分は生暖かい沈黙が流れた。エドウィンが己の終わりを予感したその時、ようやくオリヴィアが動いた。

「はい。上着だけでお願いします」

 ――助かった!
 人生で一番安堵した瞬間だった。エドウィンは心から胸をなで下ろし、可愛がるようにスラックスを一撫でした。

「じゃあ、三十スランだな」
「三十スラン!?」

 オリヴィアは思わず大きい声で聞き返した。己の耳が信じられなかった。

「聞き間違いでしょうか。まさか、この上着が三十スランですって?」
「ああ、間違いじゃねえ、三十スランだ。確かに元の値段は張ったんだろうが、ここいらでこんな大層な上着を買っていくような輩はいねえよ。需要がないんだ。なら、この値段でも仕方ねえだろ。それに、ここにソースか何かの染みがついてる。これも減点項目だ」
「――っ」

 シラッとした冷たい視線がエドウィンに注げられる。顔を上げなくとも、オリヴィアのものだとエドウィンには分かった。
 ――仕方ないじゃないか。
 声に出す勇気はなく、エドウィンは一人心の中でごちる。昨日、船の中で食事をしていたら、急に船が揺れたのだ。驚いてソースを上着に飛ばしてしまっても、不可抗力だと言えよう。
 文句の一つでも言いたくなるのを堪え、オリヴィアは店主に向き直った。足下を見られている、と感じていた。だが、この状況で、一体どうやって巻き返せば良いというのか。オリヴィアには、何より場数が足りなかった。この状況をひっくり返すだけの知識と口上、それに経験である。

「じゃあ、それでお願いします」

 半ばやけっぱちになりながら、オリヴィアは渋々承諾した。そうするしかなかった。ここで一旦検討すると言って再度来店したとしても、日が経ったからと、うまいこと言いくるめられて、また値段を吊り下げられることなど分かりきっている。一度見られてしまった足下は、どうあがいてもそこから視線を逸らせることなど不可能なのだ。

「私たち、なめられたのよ」

 店を出た後、オリヴィアは悔しそうにそう言った。
 完全に交渉の仕方を間違えた。店に入店した時から、オリヴィア達の負けは決まっていたのだ。圧倒的に踏んでいる場数が違った。何て情けない。
 オリヴィアはぶつぶつ文句を言いながらあてもなく歩き続けた。その文句の中には、『誰かさんがソースの染みを零していなければ』というようなものも含まれていたが、エドウィンは気にしないことにした。今回の件にしては、分が悪いのは自分の方なのだ。
 それにしても、とエドウィンはオリヴィアの後ろ姿を見やる。
 オリヴィアは非常に悔しい思いをしたようだ。店主にうまいことやり込められたことはエドウィンも分かってはいたが、あの状況では仕方がないと思っていた。至急お金が欲しいのは事実だったし、あの店主もそれを見越して値切ってきたのだろう。だから、あれは仕方がないのだ。
 だが、それでも納得しないのがオリヴィアである。彼女は、昔から負けん気が強かった。どんな些細な勝負でも、負け越しは矜恃が許さないのだ。

「最終手段よ」

 オリヴィアはついに足を止めた。彼女の決意が固まるまで、随分無駄に歩かされたエドウィンは、生暖かい視線を送る。

「私に考えがあるわ。目にもの見せてやる」

 オリヴィアは目はギラギラ輝いていた。エドウィンは、子供を見守る母親のような気持ちと共に、何故だか懐かしい気持ちになった。