01:間の悪い鉢合わせ
まさかこんな所で鉢合わせするなんて、よっぽど運が悪いに違いない。それとも、最近何かとうるさい周りが仕組んだ計画か。どちらにしても、一番腹立たしいのは、きっと相手も同じことを思っているであろうその事実である。
潮風になびく髪をそのままに、オリヴィアは至って冷静な顔で懐に手をやる。そして愛用の扇子を取り出すと、優雅な手つきでパッと広げ、顔の前に構えた。相手を不快にさせないためのせめてもの考慮だが、しかし、結局皺のできる眉間は隠せそうもないので、大した効果はないかも知れない。
「王子殿下ともあろうお方が、こんな所に何のご用で?」
何か言わねばと口を開けば、そんな険のある言葉が飛び出す。オリヴィアが純粋に感じた疑問が、何故だか彼相手には棘を持って放たれるのだから、不思議と言えば不思議。とはいえ、罪悪感はない。向こうだって似たようなものなのだから、お互い様だ。
「愚問だな」
予想通り、エドウィンはそう鼻で笑って見せた。腕を組み、胸を反らす。
「土産屋にいる奴に向かってそんなことを聞くとは。まさか、ご令嬢はここでダンスでもするつもりなのか?」
向かっ腹の立つ物言いに、一層オリヴィアの顔が引きつる。ついでに声も刺々しくなる。
「面白いことを仰いますね。ただ、私は殿下が土産屋にいること自体が珍しいと思ってお声がけしたんです。まさか、殿下がどなたかに土産をお買いになるほどのお気配りができるとは夢にも思わず」
「ははは。ご令嬢の目は節穴だな。この私ほど心配りができる奴はそうそうおるまい」
「ご冗談を」
軽口なのか、本気なのか。とにかく癪に障ったオリヴィアは、笑って軽く受け流した。
「ですが、殿下にもそのような懇意にされる方がいらっしゃって驚きです。もしかして、イライザ様でしょうか? 最近よく一緒におられるとお噂を耳に挟みました。喜んでいただけるといいですね」
「…………」
一瞬、エドウィンは変な顔になった。その顔は、図星を疲れて瞬時に対応できなかった時のものと、見当違いのことを言われて何を言えば良いのか分からなくなった時のもの、相反する二つのどちらかに思えた。ようやく立ち直って、エドウィンが返事をしようとしたその時、カランと軽快なドアベルが鳴り響いた。丁度店内から客が出てきたのだ。彼女は、店の前に立つオリヴィアとエドウィンに、驚いたような、戸惑ったような視線を向けた。入り口を塞ぐようにして――そのくせ、入ってくるでもなく――立っている二人に困惑したのだ。
その視線に耐えきれず、オリヴィアはサッと身を退ける。女性は、大いに不審な空気を醸し出しながら、歩いて行った。後に残されるは、一層気まずい思いに苛まれている二人。何を言うでもなく、彼らは顔を見合わせる。
「入らないのか?」
先に口を開いたのはエドウィンだ。オリヴィアは首を振って後退する。
「どうぞ、先にお入りください」
「では、失礼する」
まるで何かの儀式のように、エドウィンは厳かな足取りで店内へ入っていった。とはいえ、その動きは非常にぎこちない。オリヴィアもその後に続き、ぎこちなく入店した。
店の中は、思っていたほど混んではいなかった。いや、むしろほとんどいない。いるのは壮年の店主と、外のテラスで景色を楽しむ恋人くらいのものだろう。丁度お昼時という時間のせいだろうか。
いつもなら、人が少ないことを喜ぶべきだろうが、しかし、今は生憎ながらその逆。狭い店内でエドウィンと実質二人きりという事実が気まずくて仕方がない。
オリヴィアは、入店して早々、彼とは全くの正反対に向かった。何が嬉しくて、彼と肩を並べて土産物を物色しなければならないのか。
だが、このお店、オリヴィアが想定していた規模よりも小さく、すぐに一周してしまった。その上、男のくせに、エドウィンの歩みはかなり遅かった。気づけばすぐに追いついてしまうので、オリヴィアの方で調整して店内を見て歩かねばならなかった。幸い、彼は店内に並べられている棚よりも頭一つ分背が高かったので、居場所はすぐに把握することができた。とはいえ、彼ばかりに気を取られるわけにはいかない。本来の目的は、お土産なのだ。オリヴィアは、一番に目についた商品を手に取った。このお店の目玉商品、海ガラスである。この港町に来る前から、オリヴィアはずっと海ガラスが気になっていた。巷の少女の間で有名なその商品は、色ごとに込められている意味や効果が違う。一つ一つちゃんと見ていくつもりでオリヴィアはじっとガラスに見入る。
「何を買うつもりなんだ?」
すぐ隣で声がして、オリヴィアは内心かなり驚いた。いつの間にこんなに接近していたのか。追いついてしまうことを危惧してはいたが、まさか向こうの方から追いつかれるとは想像もしていなかったのだ。
声をかけてくるなんて、一体どういう風の吹き回しだろうかとオリヴィアは警戒した。と同時に、動揺していることを悟られないよう、極力平静を装う。
「そんな、恐れ多い。殿下が気にされるような大したものではありませんよ」
「大したものじゃないとは、ここの主人に失礼じゃないか?」
「……っ」
思わぬ所で揚げ足を取られ、オリヴィアの頬はカッと赤くなる。そのことに感づかれないよう、オリヴィアは顔を背けた。
「言葉の綾です。そんなこともお分かりではないのですか?」
「私の方も冗談のつもりだったが。そう目くじらを立てるな」
駄々をこねる子をあやすように、エドウィンは肩をすくめた。してやられたような気になって、オリヴィアは彼とは反対方向に歩き出された。エドウィンの考えていることが全く分からなかった。何をもって急に難癖をつけに来たのか。
「ご令嬢も、誰かに渡すためにここに?」
暗に話しかけるなという意味を込めて離れたのに、エドウィンはなおも声をかけてきた。本当にこういう鈍感な所は変わらない。むしろ、分かっていてやっているのだろうかと、こちらが疑り深くなってしまうほど、エドウィンは機微に疎いのだ。
まさか無視するわけにもいかず、オリヴィアは渋々口を開いた。
「私は……自分用に、です」
彼女の口から出てきたのは、咄嗟の嘘だった。自分でも分かりやすく動揺してしまったと思ったが、しかし、エドウィンは聡い方ではないので、おそらく気にもしなかったはずだ。言葉通りに受け取ったはず。
「いつも一緒にいる友人は?」
エドウィンはなおも質問を続けた。
「友人? シャロンのことですか? 彼女は別に行くところがあって、私とは別行動です」
「珍しいな。こういう所は女性がよく好むとは思っていたが」
「…………」
その通りだ。だからこそ、エドウィンが今ここにいることが不思議でならない。オリヴィアが自分で放った言葉――イライザに渡すためのものを買いに来ているのだろう。別にそのことによってもう心を動かされることはないが、それでも素直に受け止めきれない自分がいることにため息が出る。
ここへ来るまでの膨らんだ期待が一気に萎んでしまったような気がした。どうしていつもこう間が悪いのだろう。昔はそうでもなかったのに。
つい思考が暗い方向へと落ちていきそうだったので、オリヴィアは首を振ってそれを阻止する。ついで、こんなことになったのは全てエドウィンのせいだと思い直す。そもそも、こんなに話しかけてきて、彼はどういうつもりだろう。
――それに。
オリヴィアは苛立たしげにエドウィンに背を向け、窓の方に陳列されている商品を見ている振りをした。
――現に、オリヴィアはエドウィンからの視線を強く感じていた。まるで観察するように、彼はオリヴィアの一挙一動を見つめているのだ。
単に、女性の好みを知りたいのだろうか? いや、それならば、直接聞けば良いだけのこと。純粋に訊ねにくいのか、矜恃が邪魔をしているのか。あるいは両方なのか。
とにかく、エドウィンに無言で見つめられているという状況が我慢ならず、オリヴィアは一番初めに目についた海ガラスを手に取って、さっさと店主の方へと持って行った。目の端に慌てたように再度物色し出すエドウィンが映って、オリヴィアは若干の優越感を抱く。
会計を済ませた後でも、エドウィンはまだ決めかねているようだった。だが、会計が終わったことには気づいたようで、視線を上げた彼と目が合う。
「…………」
声をかけるべきか、会釈をすべきか。
しかし、そのどちらも今の二人の関係には適さないような気がして、オリヴィアは結局無言で扉を開けた。
外に出ると、重たい空気から解放されたような気がして、オリヴィアは長々と息を吐き出した。どっと一気に疲れが来てしまったようだ。脱力した顔で空を見上げれば、思いのほか時間が経っていたようで、店に入る前は真上にあった太陽が、今は斜めに傾いている。慌てて時計を確認する。――一応まだ集合時間には間に合うが、しかし、少し足を早めなければ遅刻してしまいそうな、そんな時間帯だった。
遅れるわけにはいかないと、歩き始めたオリヴィアだったが、エドウィンのことに思い至り、その足は止まる。彼に一声かけるべきか否か、逡巡したのだ。だが、すぐに彼女は思い直す。声をかけたとして、一緒に仲良く港まで行くのは嫌だし、それに、彼はああ見えて生真面目なところがある。時間の管理はしているだろうし、遅れることはまずないだろう。
そう自分を納得させると、オリヴィアは躊躇いに蓋をして歩き出した。迷うことなく、左へ。人の波に順行するように。そこには一切の疑問もなかった。頭の中にあるのは、集合時間に遅れないかどうかと、さっき買ったばかりの土産について――。
平和な思考が、突然破られる。何者かに腕を掴まれ、つんのめってしまったのだ。
「な……」
驚いて振り返ると、そこにはエドウィンが立っていた。髪を額に張り付かせ、目を合わせて早々、彼は大きくため息をついた。
「な、何ですか、急に……」
何が何だか分からなくて、ついオリヴィアの声は弱々しくなる。エドウィンは呆れたように首を振った。
「帰る方向が真逆だぞ。優等生ともあろうお前が、まさか今から別の土産屋に行くつもりじゃないだろう?」
「えっ?」
ポカンと口を開けたまま、オリヴィアは頼りなく前と後ろを見比べた。集合場所である港は、間違いなく今己が向かっている方向だと思っていたのだ。現に、確か来る時はこの道を通ったような……。
「お前は相変わらずだな」
オリヴィアが何も言わないので、エドウィンは笑った。見慣れていた、オリヴィアを小馬鹿にするようなそれではなく、思わずといった笑みだった。だが、それもわずか一瞬の出来事で、すぐに彼は真面目な顔へと戻る。
「一人で出歩くな。ボケッとしていたら誰かに連れ去られるぞ」
「それはあなたも一緒でしょう?」
エドウィンの物言いが気に食わず、オリヴィアは彼に向き直った。
「王子ともあろうお方が、一人で出歩くなんて。護衛はどうしたの? 旅行先だから安全だって見くびってるの? 何か事件に巻き込まれたらどうするつもり?」
「お前は俺の保護者のつもりか?」
エドウィンは、唐突に冷たい怒気を纏った。
オリヴィアは思わず怯む。言い過ぎたという自覚はあったが、売り言葉に買い言葉、同じように返しただけのはず。どうして急に怒りだしたのか、全く分からなかった。
「護衛ならいる。見えないところにちゃんとな。心配は無用。それに」
短くきって、エドウィンはオリヴィアを見た。まるで睨まれているような熱い瞳に、オリヴィアはたじろいだ。
「俺だって剣術は嗜んでる。昔とは違う」
真剣な瞳で見つめられ、オリヴィアはもうそれ以上何も言えなくなる。先に目を逸らしたのは彼女の方だった。
「ならいいです」
そして、未だ掴まれていた腕に気づくと、離してと言わんばかり、腕を動かした。エドウィンもすぐにその動作には気づいて、オリヴィアの腕を放す。薄らと赤い跡がついていたが、双方どちらもそのことには気づかない。
「……ありがとうございます」
「いや」
オリヴィアがようやく絞り出した声に、エドウィンも同じく小さな声で返す。やがて歩き出した二人は、同じ歩幅だった。だが、それは肩を並べて歩いているというわけではなく、ただエドウィンがオリヴィアの足並みに揃えて数歩後ろを歩いているだけのことだった。
普通逆じゃないのかしら、とオリヴィアは歩きながらそんなどうでも良いことを考えていた。普通、男性の半歩後ろを、女性が歩くものではないのか、と。
とはいえ、そのおかげで道中話題に神経を尖らせる必要はなかった。前と後ろとでは会話がしにくいし、それ以上に、人の波とは逆行して歩くことになったので、前から歩いてくる人を避けるだけで精一杯だったのだ。
――ほら、やっぱり男性の後ろを女性が歩くべきじゃない。
再度オリヴィアはそう思った。だが、そんなことは絶対に口にしない。エドウィンから女性扱いされるのは矜恃が許さないからだ。むしろ、長く歩くにつれ、王子殿下を私が守ってあげてるのよ、という気持ちにすらなっていた。護衛も連れずに――一応遠くにはいるようだが――呑気に歩いている殿下を、私が、守ってあげる立場なのだと。
一度そう思い至ると、今のこの状況も居心地良く思えてきた。むしろ誇り高くすらある。港に到着する頃には、オリヴィアはすっかり自信を取り戻していた。己が迷子になりかけていたことなど頭の隅に追いやり、恭しくエドウィンを振り返る。
「さあ、到着いたしました、王子殿下」
「ん? ああ……」
どういう風の吹き回しか、突然丁重になったオリヴィアを見て、エドウィンは疑り深い目つきになるのを止めることができなかった。
「私のせいで遅れてしまって申し訳ありませんでした」
「いや」
唐突に素直になったのには、何か罠でもあるのか。
エドウィンは不審を隠そうともせずジロジロオリヴィアを見たが、彼女は何も言わず、微笑み返すばかり。エドウィンは降参して歩き始めた。こんな所で無駄に時間を消費するわけにはいかないのだ。もう既に大分遅れてしまっているのだから。
船の出入りが一番多い時間帯が終わったせいか、港に人の影は少ない。おかげで、自然とオリヴィアとエドウィンの肩は並んだ。とはいえ、会話は弾まない。双方の頭の中は、もう既に船に乗ることだけを考えているのだから、それも仕方がない。
潮風が、髪を、スカートを、心を揺らす。
オリヴィアは、いつしか昔のことを想起していた。遠い昔、訪れた小さな海辺のことを。この人で賑わった港町とは、似ても似つかない場所の筈なのに。
「船がどこに停泊していたか覚えているか?」
不意に尋ねられ、オリヴィアは思考を戻した。髪をなでつけ、エドウィンへ顔を向ける。
「確か、第三埠頭だったと……」
言いながら、オリヴィアの視線は固まる。エドウィンが立ち止まっているのは、丁度第三埠頭その場所だったのだ。しかし、辺りを見回してみても、船がない。記憶違いだったかと第二、第四と視線を向けてみても、見覚えのある船ではない。じゃあ、私たちの船はどこに――と、彼女は自然に大海原へ視線を滑らせた。そして、動かなくなる。視界に映ったあるものが、オリヴィアの思考を停止させていた。
「はっ……え?」
隣で戸惑ったような声が聞こえた。一瞬遅れて、エドウィンのものだと気づく。
「……あの船、見覚えがあるのは気のせいですか?」
ようやく回り始めた頭でやっとのことオリヴィアは口を開く。
「間違いない。俺たちの船だ」
茫然としたようにエドウィンは頷く。二人は、前方を食い入るように見つめながら、同時に口を開いた。
「もしかして――置いて行かれた?」
潮風が互いの声を拾って、互いの耳に届けた。だが、遙か彼方、もはやすっかり小さくなってしまった船には届かず。代わりに、まるであざ笑うかのように、ボーッと間延びした汽笛を鳴らし返した。