04:ならず者
港町イグナには、二日後の早朝に着いた。一斉に地上へと織り出す旅人の波に揉まれながら、オリヴィアとエドウィンはようやくと地面に足をつけた。
ここは、アドランテとは似ても似つかない、西のイグナ。あんなに苦労したのに、むしろアドランテから遠ざかっているという事実に、湿度の高い港町の空気と相まって、二人はジメジメとした空気を醸し出す。二日経ってもなお自己嫌悪が拭いきれなかった。決して素直になれはしないが、罪悪感がないわけではないのだ。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
互いが互いの失敗に目を瞑り、暗黙の了解のうちに、思考を切り替えることにした。目先のことに囚われるより、今はまず、今後のことを考えるのだ。
オリヴィアとエドウィンは、港にいる男達に、アドランテ行きの船がいつ出航するのか訊ねた。イグナとアドランテはかなり離れているので、本数は少ないはずだ。その少ない船を見逃すわけにはいかず、それを見越した上で、今後の売却計画を立てなければならないのだ。だが、彼らの返答は、二人の予想の遙か上をいっていた。
「アドランテ? ああ、駄目駄目。あそこ行きの船は今全部止められてんだ」
「止められてるって……それはまたどうして?」
「あの辺りの海域に、どうも海賊が出たらしくてな。今は出航見合わせ中だ」
「海賊!?」
思いも寄らない返答に、オリヴィアは顔色を悪くする。
「皆は大丈夫かしら」
頭に浮かんでくるのは、先に船でアドランテに行った学友達。いくら護衛の騎士を連れているとしても、海の上では、海賊達の方が一枚上手ではないだろうか。
しかし、そんな彼女の心配を余所に、エドウィンは楽観的だった。
「商船でもないし、大丈夫だろう。襲ったとしても、金目のものはない。狙う理由がない」
「だからって、遠目じゃ商船かどうかなんて分からないわ。もしかしたら間違って攻撃されるかも」
「ここでこんなことを言っていてもきりがないだろう。それよりも、問題は俺たちだ。しばらくはイグナに足止めだろうな」
「そうさな」
辺り一帯を行き来していた船乗りが足を止めた。
「イグナの領主は心配性で、安全だと分かっても、なかなか首を縦に振られないお方だ。二週間は足止めを食らうだろうな」
「二週間……? それなら、もしかしたら睦を行った方が早いんじゃないかしら」
オリヴィアはポツリと言った。エドウィンはますます顔を顰めた。何も言わずとも彼の言いたいことが分かった。言い訳のように、オリヴィアは早口で続ける。
「だって、考えてもみてよ。アドランテには船で一週間以上かかるわ。それに加えて、二週間の足止めでしょう? それなら、睦で行った方が、きっと二週間もかからない」
言いながら、オリヴィアは次第に自分の言葉に自信を持った。
「そうよ、睦で行きましょう。三週間も待ってられないわ」
「そんなに焦る必要もないだろう」
浮かれるオリヴィアに、エドウィンは即座に水を差した。オリヴィアはしばしジッと彼を見つめた。
まるで何かを訴えかけるような、問いかけるような視線だったが、エドウィンには彼女の意図が分からない。無言で見つめ返すと、やがて彼女は視線を逸らした。
「おい、あんたら」
突然の声に、オリヴィアとエドウィンは身構える間もなく振り返った。つい先ほどの船乗りが、荷物を抱えながら二人を見ていた。
「そんなにアドランテに行きたいのなら、海沿いの港町を経由して行ったらどうだ? ちょっと遠回りにはなるが、ここで待つよりは、よっぽど早いぜ」
「海路? でも、お金が高くつくんじゃ……」
「旅船じゃな。商船だったら案外安いぜ。まあ、その代わり寝心地は保証できないが」
しばらく考えた後、オリヴィアは答えを出した。
「行きましょう」
「本気で言ってるのか?」
決意を固めた表情で、オリヴィアは強く頷く。
「一刻も早く帰りたいの」
「…………」
エドウィンには、オリヴィアの強い思いに反対する理由を見いだせなかった。確かに、呑気に待つよりは自分たちで帰郷した方が、よっぽど格好がつくというもの。
だが、それでも一抹の不安が頭をよぎる。自分たちは、物事を甘く見すぎではないか、と。つい数日前も危険な目に遭ったばかりだというのに、それでも自分たちで何とかしようとするのか。
とはいえ、結局はエドウィンが折れるほかなかった。オリヴィアがここまで意見を通そうとするのは珍しいことだったし、彼女の表情に、何か切実なものを感じたからだ。
それから、オリヴィアの行動は早かった。次の船が出るのは夕方だというので、その時間まで、できる限り換金してお金を稼いだのだ。中でも、オリヴィアのドレスはまとまったお金になった。公爵家一人娘のドレスなのだから、それも当然のことだが。ただ、その代わりにオリヴィアは、普段とは比べものにならないほど簡素なドレスを身に纏うことになった。
装飾品もなければ、着ているドレスも中古のみすぼらしい格好。
彼女を見ていて、エドウィンは何故だかひどく胸が痛んだ。こんな格好でいるのは一時のことだし、自分だってベルトを奪われたのだ、これでおあいことも言える。それでも、彼女のこの格好は全て自分が悪いような気がして、己の甲斐性のなさが悔やまれた。
だが、どんな格好をしていても、オリヴィアの外から内から滲み出る育ちの良さは覆い隠せない。潮風に揉まれていても長い髪の毛の手入れは欠かしたことがなく、着古したようなドレスでも長い手足は臆することなく楚々と動き、品良く閉じられた唇から時折飛び出す言葉は幼い頃から教育を受けた子女のそれ。
オリヴィア一人でもこの港町では目立つというのに、そこに更にエドウィンを加えたらどうだ。相乗効果もあって、二人はすぐに人々の噂になった。好意的なものもあれば、面白おかしく尾ひれのついたものもある。そしてそれは、裏通りを根城にするならず者達が良いカモだと目をつけるくらいには、広がっていた。
「お前らの噂は聞いてるぜ?」
土地勘のないオリヴィア達は、いつの間にか人気のない路地裏に迷い込んでいた。人の波に従って歩いていた二人は、さりげなく周りを固められ、ならず者達の思うように誘導されていることに気づかなかったのだ。
前後を数人の男達が囲んでいる。彼らに油断なく目を向けながら、二人はジリジリとすぐ側の壁に向かって後ずさる。
「良いとこの坊ちゃんと嬢ちゃんが駆け落ちしてこのイグナに紛れ込んだって」
「かっ、駆け落ち!?」
オリヴィアの声は思わず裏返った。そういう噂を立てられたくないから、早々と帰路につこうとしているのに、一体全体これはどういうことか。
「運がわりいなあ。俺たちに絡まれるなんざ。だが、お前達もお前達だぜ。大人しく家で茶でも飲んでればこんな目には遭わなかったのに」
「――ここを走り抜けるぞ。俺から離れるな」
剣の柄に手を添えたまま、エドウィンは振り返らずに言う。
周囲を囲まれた状態で、オリヴィアを守り切ることは難しい。ならば、一点突破した方が、怪我をさせずにこの場を切り抜けられる可能性が高まる。
まさしく、一瞬の出来事だった。オリヴィアは、エドウィンが動くその瞬間が分かった。肌で感じたのだ、彼の呼吸を。
エドウィンの方も、まるでオリヴィアがついてこられることを確信していたかのように、何のかけ声もしなかった。
息はピッタリだった。男達は、向かってくる一つの塊に度肝を抜かれる。気がついたときには、間合いまで詰め寄られていたのだ。剣を振るうには離れなければならず、力尽くで掴むにしては、まず剣を納めねばならず。咄嗟の出来事に、男達の頭は即座に選択肢を絞ることができなかった。
包囲を抜けた。後は、人通りの多いところまで駆け抜けるだけ――。
イグナに降り立った後、オリヴィアのハイヒールも換金していた。そのことに、オリヴィアは今更ながら感謝していた。もしあの高いヒールのまま走っていたら、きっとこれほどまでの速さは出なかっただろうし、数メートルも走らないうちに転んでいたはずだ。
そんなことを考えながら必死に走っていたオリヴィアは、ふと隣にいたはずのエドウィンが、いつの間にか姿を消していることに気づいた。
まさか、捕まったの?
彼に限ってそんなことあるはずないと思いながら、焦って彼女は振り返る。視界に、エドウィンはいなかった。代わりにそこにいたのは、驚いたように立ち尽くす男達。彼らの視線は、一様に下を向いていた。
自然、オリヴィアも釣られて下を見る。そこに、エドウィンはいた。彼の手から吹っ飛んだ剣と、膝までずり落ちたスラックス、そして、下履きと共に。
無情にもオリヴィアにベルトを取り上げられたエドウィンは、日々スラックスを気にしていた。歩いている時も、オリヴィアを馬鹿にしている時も、怒っている時も、いつスラックスがずり落ちないかと内心冷や冷やしていたのだ。
そしてつい先ほど、事件が起こった。咄嗟の緊急事態に、エドウィンの頭からベルトのことは抜け落ち、全力で走った。右手は剣を手にし、いつもは腰回りを支えている左手は、全力を出すために大きく振りかぶり。今や、エドウィンの腰を守る物はどこにもなかった。そして起こる悲劇。
激しい動作に、徐々にずり落ちるスラックス。足下に纏わり付く裾に足を引っかけるエドウィン。うつ伏せに転びながら、最後の抵抗とばかり大きく下にずれるスラックス――。
「…………」
下履きを見せつけながら、エドウィンはその場から動くことができなかった。否、彼だけではない。その周囲にいる男達もである。
エドウィンも、そして男達も、次に取るべき行動は分かっていた。
今すぐ起き上がって逃げるべき。
今すぐ二人とも捕まえて連れて行くべき。
だが、結局その考えが行動に移ることはなかった。分かってはいても、動けないのだ。一方は羞恥で、一方はあまりにも哀れで。
誰もが微動だにしなかったその状況で、唯一動きを見せたのは、オリヴィアだった。
「ふっ……」
思わず口元がほころぶ。
「あははははっ!」
オリヴィアは腹を抱えて盛大に笑い出した。駄目だと分かっていても、緩む口元は堪えきれない。
「おっ、おかしい! あはっ、お尻丸出しっ! エドが!」
彼女にしてみれば、笑うなという方が無理だった。あの格好付けのエドが、冷静を気取っているエドが、下穿き姿のまま転ぶなんて!
「ああ……おかしい」
目尻に堪った涙を拭きはするが、オリヴィアは未だ含み笑いを続けていた。笑ってはいけない――笑うような場面でないことは百も承知。だが、笑うしかないだろう、この状況は。
オリヴィアの笑い声によって金縛りが解けた男は、エドウィンの手から離れた剣を取り上げた。そしてジリジリエドウィンに近づき、もはや今となっては無抵抗の彼の腕を拘束する。
「せ、せめてズボンをあげさせてあげて……っ」
その光景に、オリヴィアはまたも笑いがこみ上げてきた。無言でされるがままのエドウィンの、未だスラックスが落ちたままの格好が哀れに思われたのだ。
「晒し者は可哀想でしょう」
と思えば、急に笑みを引っ込め、真面目な顔になるオリヴィア。もっともだと思い、男達は彼女の言うとおりスラックスを上げさせてやった。だが、当の本人エドウィンはというと、どうも納得がいかない。味方をしてくれるのは有り難い。有り難いのだが、しかしどうもさっきの今で、礼を言うことなどできない。こっちの気も知らないで、大口開けてあんなに大笑いしていた奴が何を言うか、と。
男達に拘束されながら、彼らの根城へと連れて行かれるオリヴィアとエドウィン。本来なら、悲壮感を漂わせていそうなものだが、先ほどの出来事が未だ頭から離れない二人は、一方は笑いを堪え、一方は悲しみにうちひしがれたまま、くらい建物の中へと消えていった。