01:生受 −1−
ミリアムは、とある貴族の長女として生を受けた。長い間不妊に悩んでいたミリアムの両親にとっては待望の子。男児でなかったことが僅かに悔やまれたが、それでも嬉しいことに変わりはない。ミリアム誕生のその夜、使用人たちまで同じ席に着き、盛大に彼女の誕生は祝われた。
ミリアムは父親譲りの翡翠色の瞳に、母親譲りの滑らかな金髪を授り、その後もすくすくと順調に育った。普通、貴族の女は赤子に授乳しない。そのため、ミリアムも乳母によって育てられた。始めは若い婦人を雇い、授乳させていたのだが、ミリアムが離乳期に差し掛かると、今度は違う乳母に世話係が交代された。彼女は、ミリアムの母親をも自らの手で育てた、それこそベテランの乳母だった。そのため非常に高齢だったが、しかし年齢を感じさせないほど彼女はしっかり働いた。
逞しい父、穏やかな母、厳しいが優しくもある乳母、そして温かく見守ってくれる使用人たち。
ミリアムは、そんな穏やかな家庭で幼少期を過ごした。そんな幸せな環境が、いつまでも続くと思っていた。しかし、暗雲は着実に貴族家に立ち込めていた。誰一人、気づくことなく。
始めに異変を感じたのは、ミリアムの世話を務める乳母だった。ミリアムが健やかに成長する傍ら、彼女は物覚えが悪くなってきたのである。
「婆や、婆や! わたしが言っていたお菓子、持ってきてくれた?」
「はて、お嬢様……? そのようなこと言ってましたか?」
「もう、何言ってるの! わたし少し前にそう言ったよ!」
「はあ……申し訳ありません。すぐに持ってまいります」
それは、日常における些細な変化だった。始めは、乳母も自分が歳を食ったせいだと考えていた。しかし、確実に事態は悪化していった。
「婆や、この栞、少し汚れちゃったの。どうやったら汚れが取れるかなあ」
「はいはい、では少し洗ってみましょうか。――でも、このようなよれよれの栞をいつまでも使わずとも、奥方様に新しく買ってもらったらどうですか?」
「……何言ってるの、婆や。これ、婆やがわたしにくれたものじゃない……」
「え……?」
乳母自身、混乱した。あげた覚えのない栞を、ミリアムは自分からもらったという。しかし、どんなに頭をひっくり返してみても、そんな覚えは自分にはなかった。新たに乳母の中で疑問が生まれた。
しかし、彼女が事態を把握する前に、ついにその時は来てしまった。時は、残酷だった。
ミリアムが午前の学びの時間を終え、邸の中を歩いていた時だった。前方からのんびりと歩いてくる乳母が見えたので、元気よく彼女に飛びついた。
「婆や、こんにちは! ねえ、今日はお外に行きたいな!」
しかし乳母は、いつもの様に呆れた顔で笑わなかった。困ったような表情で、ミリアムを見上げたのだ。
「……どなた、ですか?」
「……婆や……?」
彼女は、ミリアムのことが分からなくなっていた。
*****
乳母は、認知症ではないかと言われた。高齢になると、彼女の様に物忘れが激しくなる病があるらしい。ミリアムはそう教えられた。
しかし、事実は少々違っていた。乳母は、ミリアムに関すること以外は、何も忘れていないのだ。その後も順調に仕事をこなし、そしていつも通りはきはきと受け答えをする。
局所的な記憶喪失だろうか、と医者は首をかしげた。しかし、乳母に話を聞いてみても、それらしい怪我やショックを受けるようなことはなかったという。
結局原因は分からぬまま、乳母はミリアムから遠く離れた田舎で養生するようにと言われた。時折寂しそうに乳母のことを眺めているミリアムのことが見ていられなくなった母親の勧めだった。
ミリアムの両親は、新しく乳母を雇うことも考えたが、もう彼女も十歳になる。それほど過保護になることもない。彼らは乳母はもう大丈夫だろうと判断した。
しかし、そうするとミリアムが寂しがる。第二の母親のような存在の乳母が居なくなってしまったのだから、それも当然だ。これを機に、行儀見習いのために、ミリアムを修道院や王室勤めにすることも考えたが、何より子供ができにくい両親にとって、ミリアムの存在は癒しだった。双方の同意の下、ミリアムはそのまま家の中で穏やかに過ごさせようということになった。
その代わり、今度は母親が足しげく娘の元へ通うようになった。今まで乳母に任せっきりだったが、今の娘の境遇を不憫に思い、傍に寄り添おうと考えてのことだった。
そうして母親がミリアムの元に通うようになった数か月後、今度はその母親にも奇妙な兆候が表れた。
「お母様、お母様!」
「…………」
「――お母様?」
「――え? ええ、何かしら……ミリアム?」
反応が遅れた。一瞬、ミリアムの名前が浮かばなかったのだ。
いやね、こんなに私にそっくりな娘のことを忘れるなんて……。
母親は、自分の頭の悪さを笑った。そして、なおも心配そうに見上げるミリアムを優しく抱き締めた。
「ごめんなさいね、ミリアム。ちょっと考え事をしていたの」
「お母様……大丈夫? 婆やみたいに、私のこと、忘れない?」
「ええ、大丈夫よ。こんなにかわいい娘のこと、誰が忘れるものですか」
その一週間後、母親は、ミリアムのことが分からなくなっていた。
それからは早かった。
マナーの講師が、ミリアムの授業を忘れた。家庭教師が、ミリアムの名前を忘れた。侍女が、ミリアムの食事を持ってこなくなった。
そうしてその奇妙な記憶喪失はいつの間にか使用人全てに伝播していった。彼らは皆、ミリアムの存在を丸ごと忘れてしまったのだ。ゆえに勉学を教える者も、着替えを手伝いに行く者も、食事を持っていく者も皆、その責務を忘れた。ミリアムは、暗い部屋に独りぼっちになった。
ミリアムの父親に、この不可思議で恐ろしい事態が伝わったのはそれからだった。
彼は、今まで仕事が忙しく、碌に邸に帰れていなかった。だからこそ、この事態に気付くのが遅れた。そうしてあの時、報告のために邸から執事がやってきたのである。
「どうしたんだ、一体」
「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません。ですが、急いで報告しなければならないことがありましたので……」
「何だ? 今はちょっと手が離せなくてな。手短に頼む」
「……あのですね、邸に、見知らぬ幼子がいるんです」
「幼子?」
父親は眉を不思議そうに顰め、書類から顔を上げた。
「はい。いつからか、邸に入り込んだようで……。そのまま居ついてしまっているんです」
「追い出せばいいじゃないか」
「いや、しかしですね……。どうも話を聞く限り、孤児の様でして……。追い出しにくいんです」
多少、執事の言っていることは事実とは違っていた。彼女は、孤児ではないようなのである。現に、自分の父と母は生きていると言っている。しかし、その相手が悪かった。あろうことか、彼女は奥方様のことを母と呼び、旦那様のことを父と呼ぶのだ。まだ幼子とはいえ、言っていることは邸を根底から覆すほどのもの。安易に見過ごすわけにはいかなかった。
「そうか、それは可哀想に。……そうだな、ではミリアム付きの侍女にしてみてはどうだ?」
「……は?」
「幼い子供なのだろう? ならば無理に追い出すことは無い。ミリアムの遊び相手にさせよう」
「あ、あの……旦那様」
困惑したような表情の執事。父親は不思議そうに見上げた。
「何だ?」
「あの、先ほどから何を仰っているのかよく分かりませんが……。その、ミリアム……様とはどなたのことでしょうか」
「は……?」
今度は父親の方が困惑の表情を浮かべる番だった。
*****
父親が急いで戻った時、邸はまるで通夜の様に静まり返っていた。いつもと雰囲気が違う。何故だろうか。普段は陽だまりの様な我が邸が、今日は冷たい雰囲気を醸し出しているような気がした。
「あなた……お帰りなさい」
寝間着にガウンを羽織っただけの妻が出迎えた。
「起こしてしまったか、すまないな」
「いいえ、大丈夫です」
「ミリアムはまだ起きているか……? 寝顔だけでも見たい」
妻の顔を見た瞬間、すっかり安心して娘の話題を口にした。執事の奇妙な発言を綺麗に忘れ、ただ純粋に父親として娘の姿を眺めたいという想いからだった。
しかし、妻からの返事は期待していたものではなかった。
「はい……? 一体何のことを仰ってるんです? ミリアムさんとはどなたのことですか?」
「な……何言ってるんだ。俺たちの娘……じゃないか」
震える声で妻の肩に手を置く。眉根を寄せる彼女の表情は、からかっているようには見えなかった。
「あなたこそ……何を仰ってるんですか?」
「いや、しかし――」
「奥様、旦那様は少々お疲れの様です」
二人の会話に執事が割って入った。口論に発展しそうな気配を感じ取り、瞬時に行動したためだった。
妻は一旦心を鎮め、深呼吸をする。そうしてにっこりと微笑みかけた。
「そうね。お仕事で忙しかったんでしょう。ゆっくり休んでくださいな」
「あ、ああ……」
納得のいかない表情を浮かべながらも、父親は頷いた。そのまま寝室へと向かう妻を見送る。
彼女の姿が完全に見えなくなったころを見計らって、執事は父親の方へ向き直った。いつも冷静沈着な彼が、この時は眉根を寄せ、静かな怒りを秘めていた。
「旦那様。いくら何でも先ほどの発言はいただけません。奥様がお傷つきになります。お子様が欲しいのは分かりますが、どうか奥様のこともお忘れになりませんよう」
「どういう……どういうことだ」
「お疲れの様ですね。今日はゆっくりとお休みください」
そう言って執事は父親を寝室まで送ろうとした。しかし彼は頭を振ってそれを拒否する。その前に確かめねばならなかった。
「俺が……おかしいのだろうか?」
震える声で、そう呟く。
子供が欲しい余り、このような妄想に捕らわれているのか――?
階段を上ってすぐ右に曲がった、その突き当りの部屋。そこは、ミリアムが生まれてから何度も父親が通った部屋だった。乳母に授乳の邪魔だと追い出されても、小さいミリアムに顔を覚えてもらおうと必死に通った部屋。家庭教師に勉学の邪魔だと追い出されても、なおも菓子を持ち込み、ミリアムに好かれようと通った部屋。
ミリアムは、縮こまるようにしてその部屋にいた。小さな足が、ベッドの下から見え隠れしている。
「ミリアム……」
思わず安堵の域を漏らし、父親はベッドに近づいた。同時に力も抜けたのか、床に膝をつく。
「ミリアム、そんなところにいないで、お父様にお顔を見せてくれないか」
「……っ」
返事はない。しかし、堪え切れない嗚咽が漏れていた。
「ミリアム……お願いだ、出てきておくれ」
「でも……でも、お母様が」
「お母様?」
「お母様が……わたしのこと分からないって。あなたは誰って聞くの」
「ミリアム……」
「わたし……わたし、お母様に嫌われちゃった……」
「――っ、そんなわけないだろ!」
父親は、思わず自らベッドの下に潜り込み、その痩せ細った体を抱き締めた。震えがこちらにまで伝わる。彼女の涙で服が濡れた。
「お父様……わたし、怖い」
「大丈夫だ。俺はミリアムのこと、絶対に忘れない」
「でもみんな……みんなわたしのこと忘れていっちゃう……。みんなわたしのことが分からないの」
「そんなことない。そんなことないさ。お母様も皆も、今ちょっと具合が悪いだけなんだ。きっとすぐに元に戻る」
「お父様……」
「ミリアム、今日は久しぶりにお父様と一緒に寝ようか」
「……いいの?」
「ああ、今日は特別だ。お母様には内緒だぞ」
「うん!」
ミリアムは久しぶりに元気な笑みを見せた。ふっくらとした頬に、涙の跡があるのが痛ましい。
「でも何でこんなところに隠れたんだ?」
父親は素知らぬ顔で涙を拭いた。くすぐったそうにミリアムは笑みを浮かべる。
「お誕生日の時の隠れん坊、わたしここに隠れてたんだよ! だから誰にも絶対見つからないと思って!」
「そうかそうか……」
父親は、懐かしい思い出に思わず顔を緩めた。
隠れん坊とは、ミリアムの八歳の誕生日に行われた催しである。昼食の時、彼女が皆で隠れん坊をやりたいと突然言い始めたのである。始めは仕方なさそうに父親も母親も隠れていたのだが、だんだん熱中し始め、終いには乳母や使用人、果ては家庭教師や郵便配達の少年なども巻き込んでの大騒動だった。
「全然皆が見つけてくれないから、わたし、寂しくなって自分から出てきたんだよ?」
「そうだったな……」
父親は少々気まずくて言葉を濁した。――本当は、娘が出てくる前、もうずっと前から見つけていたのだ、邸の皆で。しかし、ベッドの下から覗く小さな足が可愛くていじらしくて……。
見つけたと声をかけるのはもう少し後にしよう。
そう皆で頷き合い、ついつい先延ばしにしていたら、結局ミリアムが寂しくなったと泣きながら出てきたのである。
「懐かしいな……」
また、あの頃に戻れるだろうか。
一抹の不安が胸を過った。母親だけでなく、使用人の皆まで同じくミリアムのことを忘れたのだ。何かの病気なのかもしれない。それならば、もしかしたら、いつか自分も――。
「お父様?」
「んっ? な、何だ?」
不安げなミリアムの声に、父親は慌てて笑顔を見せた。そして勢いで立ち上がろうとする。しかし、彼は失念していた。自分が今いる場所は、子供用のベッドの下だということを。
案の定頭を腰を強かぶつけ、地面に蹲って唸ることとなった。
「もうお父様、何やってるの」
「いてて……。こりゃ結構痛いな」
「お父様、かっこ悪い」
ついにはミリアムは笑い出した。その顔に、先ほどまでの暗い影は全くない。思わず自分の痛みなど忘れて、彼も笑みを浮かべた。
「は……ははっ、参ったな……」
「もう寝るんでしょう? ぶつけたところ、さすってあげるよ」
ミリアムは言いながら、ベッドに倒れこんだ。その瞳は、安心したせいか、もうとろんとしている。
「そんなことされたら、痛みも一瞬で吹っ飛びそうだが……その前に、ミリアムが眠りにつく方が早いかな?」
「そんなことないよ! わたし、お父様が寝るまで先に寝ないもん!」
「どうだかなー。子供は眠るのが早いから」
「もう子供じゃないもん!」
不貞腐れた様にそっぽを向くミリアムの隣に、父親は体を横えた。小さな子供用のベッドが軋む。
「ほら、そんなこと言ってないで、もう寝なさい。お父様が隣にずっといてあげるから」
「……うん。ずっと、いてね……?」
「もちろんだ」
へにゃ……とミリアムは嬉しそうに笑った。それを機に、彼女は穏やかで深い眠りについた。静かな寝息が部屋に響く。それが何とも父親の心を穏やかにさせ、邸で起こっている今の事態も、明日の朝には何とかなる、そう思わせてくれたような気がする。
父親も、娘に誘われるように目を閉じた。願わくば、明日も早く起きて、娘の健やかな寝顔を目に焼き付けたいと思いながら――。