第七話 愛は一日にしてならず

158:動き出した日


 アマリスの助言に従って、オズウェルはドレッサムに向かうことにした。リーヴィス家に行くことも考えたが、入れ違いになっても困る。それに、昨夜のように、遅い時間で外を一人で歩くつもりかもしれない。
 花屋で大分時間を食ってしまったので、ドレッサムに着いたのは夕方だった。相変わらず閑散とした通りを歩き、古ぼけた扉を押し開ける。

「いらっしゃいませ! って、カールトンさん?」

 明るい声でオズウェルを出迎えたのはデニスだった。珍しい来客に、彼女は目を白黒させた。

「何か――あっ、もしかして、アイリーンさんにご用ですか?」

 オズウェルが頷けば、デニスはパアッと笑みを広げた。そして店の奥に向かって声を張り上げる。

「アイリーンさーん! お客様ですよー!」
「…………」

 しばらく、奥からは何の応答もなかった。バタバタと忙しない音が聞こえるばかりで、その音がようやく止んだと思ったら、唐突に扉が開き、アイリーンが姿を見せた。

「お客ってあなただったの? どうしたの? 私に何か用事?」

 あまりにも珍しい来客に、アイリーンは矢継ぎ早に尋ねた。その様から容易に彼女の困惑が見て取れたので、オズウェルの方も決まりが悪かった。

「ああ、仕事中悪い。あとどれくらいで仕事は終わるんだ? 邪魔にならないよう待たせてもらってもいいだろうか」
「えっ、ええ……」

 アイリーンは困惑気味に視線を彷徨わせた。が、すぐに落ち着きを取り戻す。

「仕事はもうすぐ終わるけど。じゃあ中で待っててもらえる?」
「悪いな」

 あまりにも唐突すぎたか、とオズウェルはこの時になってようやく思い至った。が、もう後の祭りである。なるようになれとオズウェルは店内に入った。
 ドレッサムに、相変わらず客の影はない。が、店自体は繁盛しているのか、三人だけの店員は皆忙しそうだった。オズウェルは店の隅の椅子に腰掛け、皆の働く姿を眺めていた。アイリーンは大きい布地を一生懸命縫い、デニスは刺繍をし、ドロシアはというと、マネキンに着せた服の調整をしていた。
 店内を一周すれば、オズウェルの視線はアイリーンに戻ってきた。一心不乱に手を動かす彼女を、頬杖をつきながら眺める。

「手慣れたものだな」

 そしてついそんな言葉が口から飛び出す。アイリーンは顔を動かさずに聞き返した。

「なにが?」
「裁縫だ。そういえば、以前制服を縫い合わせてくれたことがあったな。おかげで今も現役だ」
「それは良かったわ」

 再び沈黙が訪れる。オズウェルも、今度はもう話しかけたりせず、その穏やかな時間を楽しんで過ごした。
 椅子から動かず、ただ黙々と縫っている様は、正直傍から見れば退屈そのものだったが、オズウェルにしてみれば新鮮だった。何せ、あのアイリーンが、静かに何かに取り組んでいる姿など、ほとんど見たことがなかったのだから。その上、彼女の顔をマジマジと見たのもこれが初めてかもしれない。
 白い滑らかな肌に、赤く色づく頬と唇。いつも楽しげに瞬く青い瞳は、伏せた長い睫に隠れ、今はあまり見えない。全体的には健康的な若い女性そのものだが、ちょっとだけその顔に疲れが見えるのは、仕事が忙しい証か。
 不意にアイリーンの睫が上がった。間をおかず、目が合う。

「そんなに見られると気になるんだけど。何か言いたいことでもあるの?」
「いや」
「だったら向こう向いてて」

 言いながら、アイリーンはわざとらしくオズウェルに背を向けた。じっと見られるのはお気に召さないらしい。
 オズウェルはその後、仕方なしに店の中をぼんやり見渡していた。時々針子達の業務用の会話を耳にしながら、アイリーンの作業が終わるのをひたすら待つ。
 アイリーンが顔を上げ、疲れたように肩を回したとき、ようやくその時がきたのだとオズウェルは悟った。そのまま彼女を見つめれば、何やらドロシアと会話をしながら、できあがったドレスをテーブルに広げた。そうしてドロシア達に向き直る。

「ドロシアさん、デニスさん、私はもうこれで上がらせてもらいますね」
「ああ、ご苦労さん」
「お疲れ様です!」
「お先に失礼します」

 アイリーンは手早く身支度を終え、オズウェルと共にドレッサムを出て行った。カラン、とドアベルの音が鳴り止んだ瞬間、デニスは作業の手を止め、子ネズミのようにサササッとドロシアの元に駆け寄った。

「ねえねえ、おばーちゃん」

 店内には、彼女とドロシアの二人きりだというのに、デニスは最大限声を潜める。

「あの二人、結局どういう仲だと思う?」
「はあ?」
「私は結構良い雰囲気だと思うんだけどなー。おばーちゃんはどう思う?」
「…………」

 ドロシアはしばし難しい顔で黙り込んだ。己の何気ない質問に、彼女がここまで真剣になってくれたことは今までになく、デニスは少しばかり感激した。そして徐にドロシアが口を開く。

「わしの理想じゃな」

 一瞬、デニスは呼吸をするのを忘れた。
 理想。――誰の? おばーちゃんの。誰が? あの二人が。

「ほ、本当にそう思っ――」
「どっちも背が高いから周りの目を引きつける。それに、アイリーンは惜しみない身体をしとるし、対するカールトンさんは逞しい体つき。二人が並ぶと、性の対比が誇張されて一層服飾が映えるしの」
「…………」

 デニスにはもう、返す言葉もない。
 そうだった、確かにおばーちゃんはこういう人だったなあとがっくり項垂れるしかなかった。


*****


 ドレッサムを出ると、アイリーンとオズウェルは隣同士、しばらく静かに歩いた。
 用は何だろうと思いながらも、アイリーンはチラチラとオズウェルを横目で見つめるばかり。何せ、彼が個人的に己に用があることなど、今までに一回だってなかったのだから、それも仕方がない。先にしびれを切らしたのはアイリーンの方だった。

「体調はどう?」
「好調だ」

 オズウェルは素知らぬ顔で答える。正直なところ、ドレッサムまでの道のりでは、まだ身体の節々が痛んでいたのだが、彼女の顔を見た途端、痛みは引っ込んだ。我ながら単純な身体だと思った。

「あれだけ酔ってたのに? さすがは団長さん、お酒には強いのね」

 嫌味なのか、それとも本気で言っているのか。

「夕食はもう食べたのか?」
「いいえ、今から買い物に行って、その後で食べるつもり。私、最近ちゃんと自分で作るようになったのよ? 街で一人寂しく食事しても良かったんだけど、それだと食費も嵩むし。仕方なしに自炊を始めたの。エミリアに馬鹿にされてばかりじゃいられないものね」
「腕はあがったのか?」
「……まあ、多少は?」

 明らかな間に、オズウェルはこっそり笑いをかみ殺した。彼女にしては珍しく、自信を持てきれないのか。

「それなら、今日は外で食べないか? 奢る」
「え?」
「昨日の詫びだ」

 オズウェルは情けなくそう付け足した。口実がなければ、食事にすら誘えないのである。

「――いいけど」

 固唾をのんでアイリーンの返事を待てば、彼女はやがて戸惑ったように頷いた。昨日の詫びだとは言え、なぜ未だに自分が誘われる理由に納得がいかないのだ。

「飲み過ぎないでよ」

 つい昨日オズウェルの口から同じ言葉を聞いたばかりのアイリーンは、途端に疑り深い目つきになった。オズウェルは薄く笑って前を向く。

「今日は飲まない。お前も飲むなよ」
「ええ、そのつもりだけど。お酒はもう懲り懲りだから」
「どこか行きたいところでもあるか?」
「あまり外食はしたことがないから……」

 アイリーンは難しい顔で辺りを見渡した。折角なので、どこかおいしいところで食べたいものだが、これまでの経験の乏しさによって、実体験というものが皆無に等しかった。ここにアマリスがいたならば、この街一番のおいしい料理店の名を喜々として挙げてくれるのだろうが、しかし残念ながら、彼女は今一人寂しく店番中である。

「あっ、ここはどう?」

 頭を悩ませる中、アイリーンはパッと目についたカフェを指さした。かつて、ひったくりを捕まえたお礼と称して、オズウェルに奢ってもらったカフェである。アイリーンにしてみれば、おいしそうな料理店よりも、かつての懐かしい記憶の方が勝り、ついついそちらへ足が向かう。

「懐かしいわね」

 思い返してみれば、あれから家族揃って外食をすることは一度もなかった。いろんな騒動でゴタゴタしたり、それらが片付いたと思ったら、ステファンやウィルドの試験が始まって、それどころではなかったのだ。

「ここにするか」
「ええ」

 二人は揃って店の中へ入った。まだ夕食には早いせいか、まだ満席ではない。

「テラスが開いているらしいが、どうする?」
「今日は中で食べましょう。ゆっくりしたい気分だもの」

 二人は、店の奥まった席に案内された。メニュー表を開けば、かつて皆で食べた懐かしい料理やらデザートやらが並んでいた。

「前はタルトを食べたんだったかしら」
「もうデザートを食べるつもりか?」
「思い出してただけでしょ」

 意地悪な問いに、アイリーンはツンと澄まして返した。
 食事が始まってからは、アイリーンの独擅場だった。オズウェルが弟たちのことを一言二言尋ねれば、その予想以上の量の答えが返ってくる。聞いていないことまで嬉しそうに話すので、オズウェルの食事が進み、一方でアイリーンの手が全く動かないのは半ば当然のことだった。オズウェルが呆れた顔で食事を促すと、アイリーンは慌てたようにすっかり冷えてしまった食事を進めた。
 食事を終えると、二人はメニュー表と睨めっこをし、デザートを選び始めた。悩んだ末、アイリーンが頼んだのはカボチャのタルトである。

「また同じのを食べるのか?」
「おいしかったから」

 アイリーンは冒険はしない質なのである。
 デザートが来るまで、二人は茶を飲んで時間を潰した。

「弟たちから手紙は来てるのか?」
「そうね。エミリアはこまめに送ってきてくれるわよ。ウィルドは……まあ、前よりはマシかしら」

 あの面倒くさがりなウィルドのことを思えば、まだ二、三ヶ月に一度、手紙を送ってくるだけ良い方なのだろう。便りのないのはよい便りとも言うし、向こうでも元気にやっているはずだ。
 アイリーンはカップをテーブルに置き、ふっと息を吐いた。

「私、幸せ者よね。本当なら、私のことなんかすっかり忘れて、新天地でそれぞれのめり込んでいても当然なのに。フィリップは時々帰ってきてくれるし、ウィルドやエミリアは手紙を書いてくれるし、ステファンは……まあいいわ」

 姉の見合いをお膳立てしてくれる、なんてのは口が裂けても言えず、アイリーンは軽く誤魔化した。
 その後も、二人はデザートを食べながら穏やかに会話を続け、夕食はつつがなく終わった。初対面のことを思えば、大した進歩である。
 店を出れば、辺りはもう暗くなっていた。とはいえ、まだ遅い時間と言うほどではなく、帰り路を急ぐ子供もいるくらいだ。にもかかわらず、オズウェルは例によってその文句を口にした。

「家まで送ろう」
「――お願いするわ」

 一瞬の間をおいて、アイリーンは彼の言葉に甘えることにした。どうせここで断っても、なんだかんだ言って送ってくれるに違いない。最近の彼は妙に紳士というか、優しいというか……。
 それは、帰り道でも同じことだった。アイリーンの荷物を持ってくれたし、くだらない話でも真摯に聞いてくれるし――。
 この違和感を、家まで持ち越すわけにはいかないと、アイリーンは歩きながらオズウェルを見上げた。

「あなた、本当に今日はおかしいわね。変に親切というか……ご機嫌?」
「ご機嫌? 俺がか?」
「ええ。何か良いことでもあったの?」
「いや、特には」

 言葉を濁しながら、オズウェルは黙り込んで考えてみる。 自分の機嫌が良いなどと、自覚はなかった。が、どうやら、見るからに鈍そうな彼女に気づかれるほど、自分はご機嫌ならしい。
 オズウェルは無意識のうちに口元を緩めた。
 羞恥を通り越して、いっそ清々しかった。自分が自分でないような、新しい自分に出会ったような、そんな不思議な感覚。
 オズウェルはついには笑い声を立てた。
 突然ひとりでに笑い出したオズウェルを、アイリーンは不審な目で眺める。

「本当に変な人……」

 そんな会話を続けているうちに、やがて森の奥の屋敷に到着した。森の中は薄暗いが、アイリーンからしてみれば慣れたものなので、どうということはない。

「ありがとう。今日はごちそうさまでした」

 家の前で、二人はは向き直った。そうしてアイリーンは、オズウェルに持っていてもらった荷物を受け取る。

「帰り道、気をつけてね」
「ああ」

 オズウェルが動こうとしなかったので、アイリーンはそのまま扉に手をかけた。だが、そんな彼女の手を、オズウェルが掴む。

「えっ、なに?」
「話がある」

 真剣な声色に、アイリーンはおずおずと振り返った。オズウェルは彼女から手を離し、深く息を吐くと、紙袋から目的のものを取り出した。

「アイリーン=リーヴィス嬢」

 いつもとは違う雰囲気に、彼女もまた気づいたようだ。何か言いたげな表情で、窺うように小さく首を傾げる。

「俺との交際を考えてくれないか?」
「え……?」

 静かな夜の森だった。聞こえてくるのは、僅かにそよぐ風と擦れる木の葉、そして互いの呼吸だけだ。オズウェルが動けば、花束もまたカサリと音を立てた。

「返事はいつでもいい。考えてみてくれると嬉しい」

 受け取ってくれと腕を更に上げれば、アイリーンはおずおずと花束に手を伸ばした。彼女の腕に収まったのを見届けると、オズウェルはようやく腕を下げた。

「じゃあ……まあ、それだけだ。返事はまた今度で。おやすみ」

 ぽっかり口を開け、自分を見つめてくるアイリーンに微笑を返すと、オズウェルはきびすを返した。己の背に彼女の視線が刺さっているのは重々承知していたので、いつも以上にピンと背筋を伸ばした。彼がようやく人心地ついたのは、森の中に入って、アイリーンにはもう自分の姿は見えないだろうと確信が持てたときだ。そして同じく、アイリーンもまた、我に返るのにはかなりの時間を要した。

「……え?」

 その証拠に、オズウェルの姿が見えなくなってしばらくたった後も、彼女は未だ、玄関の前で立ち尽くしたままだった。