第八話 恋は花屋

159:思い巡らせ


 ドシドシと足取りも荒く、アイリーンは往来を歩いていた。つい先ほどのファウストの言動が頭から離れない。

 ――あいつがお前を好きってことか?

 ――みなまで言うな。お前の気持ちは分かる。

 ――で、どうなんだ。返事はしたのか?

 ――思わせぶりな態度をして、あんまり焦らしてやるなよ。

「そんなことするわけないじゃない!」

 思わずアイリーンは叫ぶ。さすがに最後の文章は、怒りのあまりアイリーンが記憶を改ざんしたに過ぎないが、しかし、ファウストもファウストなので、多少彼女の記憶に脚色が入ったとしても、文句は言えまい。

 全く、何て失礼な人なのかしら! こっちの気も知らないで!

 アイリーンはしばらくプスプスと怒っていた。しかし、いくら記憶の中のファウストに言い訳していても仕方がないことはよく理解していた。詰まるところ、この怒りの矛先は、アイリーン自身にも向けられたものだったからだ。

 早く返事を考えなければ。彼に誠実な対応をしなければ。

 そうは思うのに、一体どうすれば良いか分からない。オズウェルとの関係は――正直認めたくはないが――居心地が良い。辛いときや危険な目に遭ったとき、彼はいつでも助けてくれた。一人でリーヴィス家を背負ってきたアイリーンとしては、誰かに頼るということが盲点で、アマリスのような精神的な支えではなく、大人の男性として力になってくれる彼の存在は青天の霹靂で、同時に頼もしくもあったのだ。

 だからこそ、いい加減なことはできない。それは分かっている。でも、どう返事をすれば?

 思い悩んだアイリーンは、ふと顔を上げた。今の今まで地面ばかり見て歩き、よくもまあ人とぶつからなかったと感心するほどの雑踏。蓋を開ければ、ただ前からやってくる人たちが百面相するアイリーンを避けて歩いていただけなのだが。

 覚醒したことで、逆に歩みが遅くなったアイリーン。彼女の視線は、真っ直ぐ前を捕らえた。前からやってくる、見慣れた制服の二人組に。

 目立つ騎士団の制服に、人々はわざわざ場所を空けて歩いていた。彼らに気づかなかったのは自分の世界に入り込んでいたアイリーンくらいなものだろう。ぽっかりと空いた空間に、二人の視線は交錯する。

 まるで、そこだけ時間が止まったようだった。何もかもが全てゆっくりに見えて、他の通行人など目にも入らなかった。音もなく、静かな空間に、オズウェルの息をのむ音が聞こえるような気がした。

 だが、実際にアイリーンの耳に飛び込んできた音は、誰かがケラケラと笑う声だ。その音に弾かれたように正気を取り戻し、アイリーンは回れ右をした。一種の防衛反応だろうか。身の危険……とまではいかないが、本能が逃げるという判断を下した。

 自分のしでかしたことに気づいたときには、もう遅かった。アイリーンはとっくの昔に家に着いていたし、ゼイゼイと肩で息をしていた。振り返ってもオズウェルの姿があるわけがなかった。

 ――逃げ出してしまった。

 そこにあるのは、敗北感ではなく、ただただ深い後悔。

 逃げたが最後、次に会ったとき、どんな顔をして会えば良いというのだろう。

 アイリーンは深々とため息をついたが、結局良い案が浮かぶことはなかった。


*****


 それからというものの、運が悪いというか、間が悪いというか、とにかくアイリーンは不運だった。仕事に出掛ければオズウェルを見かけ、買い物に行けばオズウェルと出会い、しまいには、誰も好んで歩きたがらないだろう裏通りを歩いたときですら、曲がり角でばったりオズウェルと遭遇した。その時のアイリーンは、暗がりから突然現れた、今一番会いたくない人物に、まるで不審者でも見かけたかのような強烈な叫び声を浴びせ、そのまま家まですっ飛んで帰ってきてしまった。後に残されたオズウェルは、近隣の者たちに不審者扱いされたのは言うまでもない。

 だが、アイリーンとて疲弊していた。常にビクビクと怯えたように周りを気にするのは性分ではなかったし、慣れない考え事に精神をすり減らしてもいた。

 誰かに相談できるような内容ではないし、そもそも誰に相談しろというのだろう。

 はあ、と長いため息をつき、今日も今日とてアイリーンは憂鬱な気分で街へ繰り出した。どんなに腰が重かろうが、働かざる者食うべからず。働かなくては生きていけないし、ダラダラしていては弟妹達に示しがつかない。

 今にも雨が降り出しそうな天気に、アイリーンは早速嫌な予感を覚えていた。足取りを速め、何事もなく目的地につけるよう、できる限りの速度で街を移動する。

 不意に誰かから己の名を呼ばれたような気がしたが、アイリーンは空耳だと思うことにした。――そう、気のせいだ。あまりにも思い悩んでいたせいで、幻聴を聞いてしまっただけ――。

 だが、そんなアイリーンを現実に引き戻したのは、逞しい男の腕だ。オズウェルの腕が、アイリーンの細腕を掴んでいた。

 もう逃げ場はなかった。

「おい」

 ついに捕まってしまった、とアイリーンは思った。ただ、同時に肩の荷が下りたような気もした。ようやくこの逃げ回る生活とおさらばできるのか、と。

 とはいえ、気まずいことに変わりはない。なんと言えば良いのか決まっているわけでもない。

 無言のまま、アイリーンはパッと扇子を開いた。そのまま顔を隠すような位置まで持ち上げ、振り向く。もの言いたげな視線はひしひしと感じていたが、アイリーンは決して彼と目を合わせなかった。何故だか妙に気恥ずかしかったし、そんな不抜けた顔を見られるのも嫌だった。

「ごきげんよう」
「……どうしたんだ?」

 短い言葉だったが、彼の言わんとしていることが、扇子に対してであることは充分分かりきっていた。アイリーンは一層扇子で顔を隠す。

「徹夜明けで顔が酷いのよ。……お気になさらずに」
「大丈夫か?」

 アイリーンの言うことを疑いもせず、オズウェルは心配そうに顔を覗き込んでくる。アイリーンはきゅうっと縮こまった。見られたくないって言ってるのに、どうして近づいてくるのよ!

「あ、の……」

 居心地が悪い。非常に。

 今までこの人とどんな話をしていたか、全くもって思い出せない。どんな顔をしていたか、どんな感情を抱いていたか。正常にその時のことが思い出せるまでは、オズウェルと対峙してはいけないような気がした。

「あの、私急いでるから」

 これ以上待つと、返事を急かされるかも知れない。

 まだ頭がぐちゃぐちゃの彼女には、冷静になる時間が必要だった。今の状態では、何を口走ってしまうか分かったものではない――。

「悪かったな」

 じりっと後ずさるアイリーンに対し、オズウェルは顔を伏せ、謝罪の言葉を口にした。

「そんなに困らせるとは思っていなかった。ただ我慢できなかっただけなんだ」

 アイリーンは困惑の表情を浮かべたが、微動だにしない。

「俺のことは気にするな。避ける必要も無い。俺の方から声はかけないようにする」

 淡々とオズウェルは続ける。変な方向に話が進んでいることは分かっていたが、アイリーンにはどうすることもできなかった。

「悪かった」

 最後にもう一度だけそう言うと、オズウェルは背を向けて歩き出した。

「っ――」

 咄嗟にアイリーンの口が開くが、何を言えば良いのか分からず、結局そこから声が飛び出すことはない。

 口をパクパクさせたまま、アイリーンはオズウェルを見送った。その後ろ姿は、あっという間に人混みの中に消えてしまった。

「まだ、何も言ってないのに――」

 ようやくポツリと出てきた言葉は、深い後悔と、悲しみを湛えていた。