第七話 愛は一日にしてならず
157:酔いどれの僥倖
ゴンッと鈍い音が辺りに響き渡った。ついで、ゆっくりと、だが激しい痛みが押し寄せてくる。
あまりの痛みに、オズウェルは声も上げられなかった。その場に蹲り、強かにぶつけた頭に手をやる。
「あれー? オズウェル、どこに行った?」
彼のすぐ傍らでは、酔っ払って千鳥足のマリウスが、キョロキョロと辺りを見回していた。
「俺を置いてもう家に帰ったのか? 冷たい奴だなー。ここまで支えてきてやったのはどこの誰だと思って」
お前が落としたんだ、お前が!
オズウェルはそう叫びたい気持ちで一杯だった。確かに、いつもよりも大量に酒を飲み、歩くことすらままならなかったオズウェルを支え、ここまで連れてきたことには感謝している。しかし、だからといって地面に落とすことはないだろう! その上、彼は己が犯した罪に気づいていない。
「もう知らん! 俺だって帰る! 明日覚えとけよー」
マリウスはうだうだ叫びながら、フラフラと闇夜に消えていった。オズウェルは声をかけることはしなかった。彼に見つかったが最後、どうせまた同じような目に遭うこと請け合いだ。
明日覚えていろよ、とオズウェルも同じ言葉を胸に落とす。この鈍い痛みは、一言もの申さなければなるまい。
マリウスがいなくなった後も、オズウェルはしばらくその場に座り込んだままだった。酒のせいで気持ち悪いし、マリウスのせいで頭がクラクラしていた。どこかベンチで休みたいものだが、一人では歩けなさそうだった。その上、少しでも身体を動かせば、胃の中のものが新鮮な空気に触れてしまう、そんな予感がした。
警備騎士団団長の威厳形無しだが、仕方なしにしばらくここで休むか、と往来で本格的に腰を落ち着かせるオズウェル。幸か不幸か、彼は不審そうな目つきで、己に恐る恐る近づくものがあることに気づかなかった。
「どうしたの? こんな所で」
そんな声が後ろから聞こえてきて、オズウェルは内心飛び上がった。こんな夜に、あからさまな飲んだくれに声をかけてくる強者がいるとは。
だが、振り返って早々、オズウェルは変な顔になった。ある意味一番会いたい人物であり、今この瞬間には絶対会いたくなかった人物――。
「……それはこっちの台詞だ。こんな時間に何をしている」
「私は仕事の帰りだけど」
アイリーンは困惑した表情で手提げを持ち上げた。そこからは、入りきらなかった布筒やレースが飛び出していた。
「いつもこんなに遅いのか」
「最近は……そうね。お店が繁盛してて」
「遅くなるときは泊まらせてもらったらどうだ。若い女性がこんな時間に外をうろつくものじゃない」
「それは確かにそうだけど、でも、家の畑の水やりもあるし、帰らないわけにはいかないのよ」
「何だってそんな……」
更に続けようとしたオズウェルだが、唐突に吐き気を催し、黙り込んだ。彼の蒼白とした顔を見て、アイリーンは気の毒そうな表情を浮かべる。
「歩ける? 詰所にまでついていきましょうか?」
「…………」
情けない。自分が情けなすぎて、オズウェルはもはや何も言えなかった。だが、実際問題彼女の申し出は有り難く、オズウェルは細い声を絞り出した。
「べ、ベンチ……」
数メートルでも歩けば、吐く。
彼女の前でそんな醜態をさらすわけにはいかず、オズウェルは血の気の失った顔でそう呟いた。アイリーンは神妙な顔で頷き、オズウェルを支えて立ち上がらせた。
まるで老人のような速度で一歩一歩を確実に進む二人。ようやくベンチにたどり着くと、オズウェルはアイリーンの支えもあって、ゆっくりと腰を下ろした。その頃には、酔いの波も一旦は静まり、物事を考えるだけの冷静さは取り戻していた。
「――で、さっきの話の続きだが」
「えっ、まだやるの?」
アイリーンはオズウェルの隣に腰掛け、呆れた目で彼を見やった。
「私に説教するくらいなら、一人で歩けないほど飲まないで欲しいわね。一体どれだけ飲んだのよ。お酒の臭いがプンプンするわ」
「たまにはいいものだ」
「たまに、ねえ。一人で飲んでたの?」
「いや、マリウスと」
「マリウスさんはどこに行ったの?」
オズウェルは力なく首を振った。
「もう帰った」
「一人で?」
アイリーンは依然納得できなさそうな顔つきだったが、ひとまずはそれで引き下がった。オズウェルの顔色が良くないのを見て取ったからである。
「大丈夫?」
「まあ……」
「この様子じゃ、詰所まで一苦労ね」
「ん……」
「全く、私が言えることじゃないけど、お酒はほどほどにして置いた方が良いわよ?」
「…………」
「えっ、もしかして寝てる? ねえ、まさか寝てないでしょうね?」
「……ん?」
明らかに返事に間があった。アイリーンはジト目でオズウェルを見つめた。
「今ここで休憩してるのは、あなたの具合が悪いからよ! 少しでも体調が良くなったら、詰所まで歩きますからね。私、こんな所で夜を明かすつもりはないから」
「…………」
俺を置いていくという選択肢はないんだな。
アイリーンの言葉を聞いて、オズウェルは複雑な気持ちになった。彼女が親切にしてくれるのは嬉しい。が、自分ではない、誰か他の男性が酔い潰れていたとしても、彼女は同じように親身に介抱するのだろうか。
例えばこれがファウストだったら。
オズウェルは唇を結び、眉間に皺を寄せた。ただでさえ気持ち悪いのに、余計気分が悪くなった。
オズウェルは、難しい顔でそのまま身体を横たえた。ベンチは二人分ほどの広さしかなく、結果、アイリーンの膝の上に頭をのせることになる。
「ちょっ――なに、突然!」
咄嗟の出来事に、アイリーンは両脚をもぞもぞと動かした。オズウェルは何食わぬ顔で言う。
「まだ気分が悪くてな。横になりたいんだ」
「じゃあ退きましょうか?」
「いや、いい」
それじゃあ意味がない。
介抱されている身で、邪なことを考えているオズウェルではあるが、まあそれは酔いに背中を押されたということで言い訳は――立たないか。
だが、欲望に忠実な格好で見上げた夜空は綺麗だった。いつもは市中で騒ぎはないかと目を光らせてばかりなので、空を見て息つく暇もないのだ。
たまには……そう、たまにはこんな日も良いのかもしれない。浴びるように酒を飲んで、頭を悩ませて、意中の人に出会い、悩みなどどこかへ飛んでいって。
あまりの居心地の良さに、そのまままどろみ始めたオズウェルだが、ふと肩に手を置かれたのを感じた。アイリーンの手である。オズウェルの大きな身体がベンチを占領し、行き場がなくなったのだろう。オズウェルは右手を伸ばし、その白い手を掴んだ。思いのほか細く、そして柔らかかった。
「今度はなに?」
「冷たくて気持ちいいな……」
酒に火照った身体に、彼女の手は刺激的だった。少しだけ冷静になると、オズウェルはすぐにその手を離した。
「本当に困った酔っ払いね」
アイリーンは呆れながら呟き、再びオズウェルの肩に手を置いた。人通りの少ないその広場だけに、二人の時間を邪魔するものは現れなかった。
*****
それからしばらくして、オズウェルの体調も回復した。アイリーンに支えながら、それほど遠くない詰所までの道のりを歩いた。
騎士団には夜勤もあるので、詰所はまだ明るい。門番に目配せして入り口を通れば、一際目立つ酔っぱらいの姿が目についた。
「あっ、オズウェルだ、オズウェル〜!」
飼い主を見つけた飼い犬のように、マリウスは喜々として駆け寄ってきた。尻尾の代わりに、片手を振り回している。
「探したんだぞ! レスリーに聞いたら、まだ帰ってないって言うし、一体どこで遊んでたんだー?」
「マリウスさんも随分酔っ払ってるみたいね」
アイリーンは呆れかえって空を仰いだ。男二人で飲むと、歯止めがきかなくなるほど飲んでしまうものなのか、と。
「あれー、リーヴィス嬢と一緒だったんだ? 途中で会ったの?」
「はい。道ばたで倒れていたので、一度ベンチで休ませて、ここに」
「そりゃ大変なご迷惑を……。オズウェルー、情けないところ見られちゃったな!」
誰のせいだと思って。
オズウェルはムカッとしたが、しかし、逆に言えば、アイリーンに会えたのは彼のおかげとも言える。二つの相反する気持ちが相殺して、オズウェルは曖昧に返事を返すだけに留めた。
「じゃあ私、もうこれで帰るわね」
オズウェルを無事詰所まで送れ届けられれば、もうアイリーンの役目はそこで終わりだ。
そうしてきびすを返したところ、後ろから腕を掴まれ、彼女はつんのめった。
「何?」
「……馬車を呼ぶ」
幾分か顔色の良い顔で、オズウェルはアイリーンを見た。アイリーンは驚きに目を丸くし、すぐに笑い飛ばした。
「いいわよ、大した距離でもないし」
「馬車」
「そうだよー。何かあっても遅いから、ここは馬車で帰らないと。おーい、レスリー! 悪いけど、馬車手配してー」
「そんな、本当にいいのに……」
こんな夜中に、まるで良いように上司にこき使われるレスリーのことが、アイリーンは哀れでならなかった。
しばらくして、馬車がやってきた。ご丁寧なことに、アイリーンは酔っ払いに手を取られ、馬車に乗り込んだ。
「戸締まりはしっかりするんだぞ」
酔いが覚めてきたのか、いくらかしっかりした言動のオズウェル。だが、これまでの醜態を嫌と言うほど目撃してきたアイリーンにしてみれば、片腹痛い。
「はいはい、分かってるわよ」
「後、一応聞くが、もう庭に鍵は埋めてないだろうな? あんな不用心、もう二度とやるんじゃないぞ」
「分かってます。ステファンにも怒られたから」
「……ならいいが」
オズウェルは渋々引き下がった。そう言われてしまえば、もう彼女を引き留めておく理由などない。
名残惜しかった。
馬車の扉を押し開けたまま、オズウェルはアイリーンを見つめる。アイリーンは首を傾げた。
「まだ何か用があるの?」
「……いや。気をつけて帰れよ」
「ええ」
扉をゆっくり閉めれば、馬車が徐に動き出した。その姿が夜の闇に消えるまで、オズウェルはその場に佇んでいた。
酔いはすっかり覚めていた。