第七話 愛は一日にしてならず

155:長い夜


「べっつにぃー、俺はいつも振られたくて振られてるわけじゃないんだよぉー」

 飲み屋特有の、ムッとした男臭さと、タバコ、そして酒の臭い。
 オズウェルは、手酌をしながら、目の前のマリウスを冷めた目で見つめていた。

「仕事が忙しくてぇー、だからあんまり会えなくてごめんねっていつも言ってるのにぃー、なのに向こうはそれを受け入れてくれなくてぇー」

 ――完全に人選を間違えた。
 マリウスはこういう男だった。始めは気の良い男を演じ、何でも相談してみなさいと懐の大きさを見せびらかすのだが、最終的には自分の愚痴に持って行く。酒の力だ。素面しらふなら頼りがいもあるのだろうが、酒が入ると、途端に愚痴っぽくなるのだ、マリウスは。

「でも、確か今は恋人がいるんじゃなかったか」

 仕方なしに愚痴に付き合えば、マリウスはビクッと盛大に肩を揺らした。

「いない! 先月別れた!」
「先月? まだ一月も経ってないんじゃ――」
「そうだよ! でも、全然会ってくれないからつまんないって!」

 そう言い切ると、マリウスはぐびっと杯を仰いだ。ダンッとそのまま杯をテーブルに叩き付ける。

「つまんないって何だよ……。ようやく会えた日には、せめて楽しませようっていろいろ試行錯誤してるのに」
「女心は難しいからな……」

 慰めるのは得意ではないので、オズウェルは適当に相手をする。そんな彼を、マリウスは恨めしげに見やった。

「オズウェルの方はどうなんだよ」
「えっ?」
「いい人いないの?」
「い、いない……?」

 少し考えた後、思わず疑問形で返せば、マリウスは気づかなかったようで、はあっと酒臭い息を吐き出した。

「ほんっと女っ気がないんだから。今に行き遅れになるよ。周りの男みーんな結婚しても、オズウェルだけが独り身っていう事態になるから!」
「まあ、それは勘弁願いたいが」
「でしょう! だったら焦らないと!」

 拳を握り、マリウスは突然そう力説する。随分酔ってるなあ、とオズウェルは人ごとのように彼を眺める。

「そういえば、リーヴィス嬢は?」
「は?」

 そんなマリウスが、突然オズウェルの方を振り向いた。

「狙おうとか思わないの?」
「ねらっ――」

 思いも寄らない言葉に、オズウェルは酒を喉に詰まらせた。
 まさに今、狙っている最中だが。
 しかしそれをこんな所で打ち明けるほどオズウェルも馬鹿ではない。素知らぬ顔で明後日の方向を向いた。

「どうだろうな。俺たちはそんな関係じゃないし」
「そんな関係って。もう二年になるんじゃない? リーヴィス嬢、ちょっと変わった人だけど、いい人じゃん。綺麗だし」
「…………」

 そんなことは分かっている。
 マリウスに諭されるように言われると、なんだかムッとしてくる理不尽なオズウェルである。
 ムシャクシャを抑えるため、オズウェルは杯を仰いだ。マリウスは杯を掲げ、軽く揺らした。大きな一粒の氷がカランと軽快な音を立てる。

「いつもの俺ならすぐにでも狙ってたんだけどなー。でもなんとなーくそんな気にはならなかったっていうか、傍から見てる方が楽しかったって言うか。本当になんでだろうな」

 頬杖をつき、マリウスはにへらっと笑った。

「本気で口説いたらどんな顔するんだろう」
「…………」

 静かに酒をグビグビ飲むオズウェルに、マリウスはちらりと視線を向ける。
 ――反応がない。聞いてないわけではないだろうが、反応がない。

「俺が口説いちゃおっかなー」
「…………」

 反応なし。
 マリウスはつまらなくなって唇を尖らせた。マリウスは鈍いわけではないが、オズウェルはただでさえよく分からない。非常に分かりやすく顔に出るときもあれば、大事なときほど、表情が固まってしまうので、その内心を想像するだけで精一杯だ。とはいえ、今回のマリウスの勘は、当たらずとも遠からずという予想ではあるが。
 ズバリ、オズウェルは今何かに悩んでいる。そしてそれは、おそらく恋愛関係のものである、と。
 マリウスが愚痴を言うとき、オズウェルはいつも適当にあしらうのが主である。だが、今日は、どことなくそのあしらい方にも気持ちが入っているというか、逐一マリウスの話を気にするような素振りがあった。それに、いつもは素っ気ないくせに、今日に限って話に乗ってきてくれる。いつもならば、ああそうかの一言で話が終わるのだが、今日は心なしか相づちにも柔らかさがあった。
 これは何かあるな。
 そう思ってマリウスは、自分の知る限り、オズウェルと一番懇意にしている女性の名を挙げたのだが――反応がない。
 これはもしかして、違う方向だろうか。
 マリウスはふむと考え直し、思い当たった事柄をさりげなく言葉に乗せる。

「オズウェル、そういえば家からは結婚せっつかされないの?」
「結婚?」
「そう。俺は手紙での催促が多くってもううんざり。まだそんな年じゃないって返信はしてみるけど、焦りは出てくるよね」
「そうだな……。母からはいろいろ言われてはいるが。向こうはもう相手の目星はつけているようだから、まだ自由のきく今のうちに、何か手立てはうっておかないとな」
「へ、へえ……」

 意外にものを考えているようで、マリウスは意外だった。

「手立てって、具体的に何すんの?」
「まあ、いろいろと」

 そこはぼかすのか。
 同じ境遇の身として、参考にできそうな手法なら教えてもらおうと思ったのだが、やはりオズウェルはこういう話題になると保守的になるようだ。というより、恥ずかしいのだろうか?
「でもさ、この前の王宮での舞踏会、あれ、リーヴィス嬢と行ったんでしょう?」
「どうしてそれを」
「この俺が知らないわけないじゃん」

 クイッと唇の端をあげ、マリウスはさも自慢げに続ける。

「あれはどうして? どっちから誘ったの?」
「不可抗力だ。互いの利が一致したから、仕方なく行ったんだ」

 そう言いきりながらも、オズウェルの顔には僅かに苦いものがよぎった。そう、アイリーンの方は、間違いなく仕方なくだろう。パートナーの相手がいなくて、仕方なく。もしあの噴水の場で、ドロシアに言われる前にアイリーンを誘っていたら、何か変わっていたのだろうかと思わないでもなかった。女々しいことに、なかなか勇気が出なかったあの時のことを、オズウェルは時折ふと思い出しては、頭を抱えて後悔することもままあった。

「互いの利、ねえ」
「俺は母にせっつかされていたし、向こうも向こうでどうしても舞踏会には出席しなければならなかった。そういう事情だ」
「親には何も言われなかったの?」
「多少は言われたな。勝手にやったことに怒っていたし、何より……その、俺の外聞を気にしていた」
「ああ、彼女、あんまり良い噂ないもんね」

 欠伸混じりにマリウスは頬杖をつく。

「人嫌い、子供嫌いの魔女、鬼婆、守銭奴、誘拐犯……。うん、俺が母親でもちょっと心配するぐらい」
「だが、所詮噂は噂だ。多少性格に行き過ぎな所はあるが……可愛いものだろ」
「うん?」

 今聞き捨てならない言葉が聞こえたような。
 だが、心地よい酔いの中、頭を働かすのも面倒で、マリウスの注意はすぐに酒瓶にいく。

「おかわり頼もうかなあ。まだまだいけるし」
「賑やかなあの家族込みで本人と話したら、噂なんてどうでもよくなる。ちょっとしたことに悪意のある尾ひれがついただけだとすぐに分かるだろ」
「そうだね……。うん、追加頼むことにする」
「もうちょっと人当たり良くなれば、嫌な噂もたたないんだろうが。まあ、それも個性のうちだろうし、変に我慢するのはらしくないというか」
「おかわりまだかな。おつまみも何か頼む?」
「それに、気が強いもの同士、思いのほか母とあいつは、馬が合いそうな気もするんだ」
「……うん?」

 マリウスは思わず聞き返した。オズウェルの垂れ流しになっていた言葉は、ほとんど聞いていなかったのだが、今、今度こそ聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がしたのだ。
 ――思いのほか、気が合う?
 自分が何を言っているのか分かっているのか?
 マリウスはポカンと口を開けてオズウェルを見つめた。
 まるで、嫁と姑がうまくいくか心配している夫のように。
 ――ん? オズウェルは、リーヴィス嬢に気がないんじゃなかったのか?
 この時のマリウスの違和感は、そのまま酔いの波に埋もれて消えていった。素面だったならば、鬼の首を取ったように、喜々としてオズウェルのこの失言をからかったのだろうが、しかし残念ながら、今のマリウスは酔いどれ状態。全てのことがどうでもよくなっていた。

「ま、とにかく頑張れよ。俺も頑張るからさ」

 そう締めくくり、オズウェルの杯に、とくとくと酒を注ぐ。

「今日の記念に、俺が助言を与えよう。ここぞと言うときに贈り物。これ重要」

 気持ち悪いぐらいに相好を崩しながら、マリウスは指を立てた。

「今まで腐れ縁でしたーっていう間柄には、特に効くかもね。ただの知り合いが、贈り物をした途端、唐突にそういう空気になる。えっ、これを私にくれるの? どうして? もしかして、私に気があるから? 私のことが好きなの? って、一気に意識するようになる」
「…………」
「あはは、本当に頑張って! 俺応援してるから!」

 先輩風を吹かし、マリウスはケラケラ笑った。つい先ほど、恋人に振られたことに対する愚痴を零していたとは思えない程の浮かれっぷり。
 だが、そんなマリウスの軽ーい言葉は、オズウェルの中に、ずっしりと降りてきた。
 贈り物。
 一体何を贈ればいいのか。女性に対するものなら、装飾品が一番に思い浮かぶ。しかし、恋人でもない男にもらっても嬉しいものか。それに、彼女は普段あまり装飾品を身につけない。ただ単に貧乏なだけなのか、それともそういう類いのものは面倒に思っているのか。唯一いつも携帯しているのは、扇子くらいか。だが、あれは母親の形見だという。あれ以上の品は見つけられないだろうから、その線は無しだ。
 それに、冷静になって考えてみれば、彼女に豪奢な宝石類は似合わないように思えた。容姿が派手なので、これといった装飾品などなくてもひとりでに目立つことができるし、彼女にしてみれば、宝石をもらうよりも、弟たちの笑顔の方がよっぽど嬉しいだろう。

「…………」

 ならいっそ、弟たちも誘ってどこかに食べに行くか?
 ――いや、それじゃいつもとそんなに変わらない。そもそも、女性を口説こうというのに、家族ぐるみになってどうする。
 マリウスが隣で酔い潰れる中、オズウェルは一人頭を抱えて悩んだ。一体どうすればいいのか。何を渡せば喜ぶのか――。
 そこまで考えたとき、オズウェルはふと、アイリーンの笑顔が頭に浮かんだ。いや、笑顔というほどではなかったが、それでも、珍しく口元を緩めたのだ。
 あれは、確か花祭りの時だったか。たった一輪の花だったが、彼女は少しだけ頬を緩め、くるくると回していた。
 意外と、花は似合うんだよな。
 山にピクニックに行ったときも、そういえば花を渡したことがある。無意識のうちに、彼女の髪に花を挿せば、思いのほか可愛い顔をしたので、オズウェルも驚いたものだ――。

「――っ」

 過去二度の経験を思い返し、オズウェルは頭を抱えた。
 恋人でもない人に花を渡して、自分は何をやっていたんだと。もしかしたら、その時にはもう既に彼女に引かれていたのかもしれないが、だとしても気障すぎるだろう! その時には何も考えていなかったが、今こうして思い返してみると、己のあの行動は、恐ろしく気障にしか思えなかった。

「花、か」

 だが、今現在思い悩むオズウェルの指針くらいにはなった。すぐに萎れてしまう花ではあるが、高い宝石よりも、よっぽど彼女に似合いな気がした。
 オズウェルは額に手を当て、そのまま目をつむった。脳裏には、驚いたような、不審そうな顔のアイリーンが浮かび、知らず知らず、彼の口元も緩んだ。