第七話 愛は一日にしてならず

154:オズウェルという男


 別に、オズウェルはアイリーン=リーヴィスとどうこうなろうとは思っていなかった。彼女を見ているだけで飽きないし、彼女のことを思うだけで、いつの間にか口元が緩むことに少なからず幸せを感じていたので、それ以上の欲は生まれなかった。
 元々のオズウェルも欲のない人間だった。カールトン家の第二子に生まれ、嫡男であるウェインほどは圧力もなく、自由に、だが己を律しながら生きていた。母親からああしろこうしろと口うるさく言われることはあったが、これも貴族の子息の務めと全て受け入れてきた。警備騎士団に配属されてからは、なおさらだった。団長として、自分のことは二の次三の次、それが当然だと思っていたし、苦痛だとも思わなかった。市民のために働くことはやりがいがあったし、それに伴って、部下からの信頼も得られれば、一層仕事に身が入った。

 幸いなことに、警備騎士団団長の任は、オズウェルの性にに非常に適していた。上流階級の集まる王立騎士団に比べ、警備騎士団は軽く見られがちで、実際、彼らから嫌味を言われることも、仕事を押しつけられることも多い。だが、オズウェルはそういうとき、波風立てずにやり過ごすことが得意だったし、部下からの文句を和らげることも得意だった。
 欲はないが、仕事には真面目で、上から下から押し寄せる問題ごとに板挟みにならず、まとめて対処する緩衝材――警備騎士団団長は、オズウェルだからこそ、できうる仕事でもあると言える。

 受動的に、流れるままに受け流し。

 そんな風にして、オズウェルは日々を過ごしていた。穏やかで、別段事件も起こらない平和な日々。そんな中、突如嵐のように現れたのが、言わずもがなアイリーン=リーヴィスである。
 思い返せば、彼女とは色々なことがあった。心証最悪の出会いから始まって、フィリップの事件で彼女の強さを知り、共に行ったカフェで家族の温かみを実感し、ウィルドの将来で姉としての思いを聞き、ステファンの家出騒動でどれだけ家族を大切に思っているかを理解した。
 アイリーン=リーヴィスを語るには、家族はなくてはならない存在だった。アイリーンの魅力は心の強さや揺るがない自信だけでなく、その根底にあるのは全て家族への想いである。あの弟妹達がいたからこそ、アイリーンはアイリーンたり得たのであり、アイリーンがいたからこそ、弟妹達は家族たり得たのである。

 そんなことは、オズウェルも常々承知していた。だからこそ、恋愛、愛情を通り越して、むしろ自分が邪魔者にすら思えてくるほどに感じていた。自分が彼女に近づくことで、あの幸せな家族が壊れてしまうのではないか。そんなことになるくらいなら、近づかなければ良いのではないか。――いや、さすがのオズウェルも、そこまでは考えていなかった。ただ、自分がその中に入るよりも、側であの家族を見ていた方が心地よい。そんな錯覚に囚われたのだ。心を決めて一歩踏み出すよりも、今のままでいる方が、ずっと楽で幸せだから。

 受動的に、流れるままに受け流し。

 仕事の面ではうまくいっていた彼の性分も、恋愛面ではとんだ邪魔をしていた。しかしオズウェルはそれには気づかない。なぜなら、好敵手が現れなかったからだ。刺々しい噂に包まれた、一見すれば派手で、しかしその内実は深い愛情で満たされている大輪の花。そんな存在に、一体誰が気づくというのだろうか。悪意ある噂は、花を隠し、周囲の目を曇らせ、そして触れたものに攻撃をする。見てくれだけは美しい花を、遠目から観察し、嘲笑し、そして噂の種にする方が、よっぽど楽しいに違いない。
 噂と、そしてアイリーン自身の性格によって、虫はよってこなかった。オズウェルは、無自覚なままに安心していた。きっと、このままの状態が、いつまでも続くのだろうと。
 だが、そんなとき現れたのがファウストである。アイリーン同様、性格に一癖も二癖もあって、そのせいか馬が合ったらしく、時折口論する様も見られた。クラーク公爵家の時には、彼はアイリーンに味方していたようだし、そして挙げ句の果てには、いつの間にそんな仲になったのか、共に芝居を見に行く様を目撃し。オズウェルは内心焦った。噂など通り越して、アイリーン自身を見るようになってしまえば、一気に彼女に魅入られるのは、彼自身も身をもって経験しているのだから。

 彼女の隣に、誰かがいる。

 そのことを想像しただけで、もやっとしたものを感じずにはいられなかった。さすがのオズウェルも、そこまで鈍感ではないので、この抽象的な感情の名前くらいは分かる。もちろん、彼にも矜持というものがあるので、自覚はしたくないのだが。
 別に、オズウェルはアイリーンの一番になりたいわけではない。充分分かっていたからだ。彼女が最も大切にする存在は、この先ずっと弟妹達であり、それは今後何があっても変わらないだろうと。そしてそれは、オズウェルの望むところでもある。アイリーンを想うようになったのは、彼女の深い深い弟たちへの愛情も一端を担っていたし、弟妹馬鹿な彼女だからこそ好きになったとも言える。
 だが、彼女の中に、弟たち以外の存在がいるところを想像してしまうと、途端に胃がムカムカしてくる。
 こうなってしまえば、もう見ているだけではいられなかった。こればっかりは、いつまでも受け身ではいられないのだ。
 だが、そうは思うものの、具体的に何をどうすれば良いというのか。彼女を口説くにしても、どう甘い言葉を囁けというのか。

 様々な事件を経て、今はようやく、犬猿の仲から顔見知り――というより、腐れ縁のような関係に発展した今日。

 そこから、いきなり口説けるものだろうか?

 そもそも、オズウェルは口説くなどと洒落たことをしたことがない。幼い頃は厳しい母から行儀作法を徹底的に躾けられ、少年時代には、騎士になるための訓練に精を出した。その合間に、過去何度か羽目を外したことはあったものの、それ以外では、無骨という言葉がまさに当てはまるオズウェル。色恋沙汰など到底無縁な生活を送っていた。
 そもそも、あの令嬢は、絶対に一筋縄ではいかない。金と節約、そして家族のことしか頭にないのだ。それを、どうやって恋愛方面へ持って行けというのだろうか。
 そこまで思い至った時、オズウェルはふとステファンの顔が浮かんだ。そう言えば、今彼は、アイリーンの結婚相手を探しているという。彼女自身も、ちょくちょく見合いをしているとかなんとか口にしていた。

「…………」

 ならば、やるか? 思い切って、見合い相手として立候補してみるか?
 そこまで考えた時、オズウェルは慌てて首を振って先の思考を拒否した。
 そもそも、見合い候補などと回りくどいことをしている暇があったら、彼女を直接口説いたらどうだという結論に至ってしまう。全くもって男らしくない。
 口説く……。
 結局そこに行き当たるのだ。だが、口説く、口説くと口野中で呟いていたところ、オズウェルの頭に思い浮かぶ人物が会った。

「マリウス」

 警備騎士団きっての色男。年がら年中女性を口説いては、いつも振られている彼。結局は振られているので、あまり役には立たないだろうが、いつも恋人関係にはこぎつけているので、話している内に、その手法を盗めるかもしれない。
 思い立ったが吉日。
 オズウェルは、早速仕事終わりにマリウスに声をかけた。

「マリウス、仕事はもう終わっただろ?」
「え? ああ、今日はもうこれで終わりだけど」
「この後飲みに行かないか?」

 シラッとした顔でオズウェルが誘えば、マリウスは素っ頓狂な顔になった。ついで、訝しげに眉根を寄せる。

「どうしたの? オズウェルからそんなこと言ってくるなんて。いつもは誘ってもお前らだけで行ってこいって素っ気ないくせに」
「たまには良いだろう。浴びるほど飲みたくなる時もあるんだ」
「ふーん。ま、いいけどー。じゃあ他の奴も呼ぶ? レスリー辺り……」
「駄目だ」

 オズウェルはすかさず拒否の声を上げる。

「差しで飲もう」
「……なんで?」

 なんでと来たか。
 オズウェルはどう答えたものかと考えあぐねる。マリウスはますます不審そうな顔つきになった。

「なんか怪しい。俺に言いたいことでもあるの?」
「え? いや、そういうわけではないが」
「じゃあ頼みごと?」
「そういうわけでも……」
「…………」

 言いづらそうに明後日の方向を向くオズウェルに、マリウスは苦笑を浮かべた。やれやれ、副団長が一肌脱ぎますか、とでも言わんばかりに。

「ああ、分かった分かった。団長たるもの、たまには悩みの一つくらい抱えるだろ。たまーに部下に愚痴をこぼしたくなっても、仕方ないってこと」
「なっ、別に悩み相談をしたいわけでは――」

 一瞬、己の考えていることに感づかれたのかとオズウェルは焦った。が、マリウスの方は、自分の言葉に他意はなかったようで、軽い調子でオズウェルの肩に腕を回す。

「いいってことさ。ほら、早く行こうぜ。おすすめの店があるんだ」
「ああ……」

 こうして、団長と副団長は、夜の街へと足を踏み出した。長い夜になることも知らずに。