第五話 針子にも衣装

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 弟が入場してくるのを今か今かと待っていたウェインは、いざそのときが来ると、拍子抜けしてしまった。思いのほか、お似合いだなと思ったのだ、弟――オズウェル=カールトンと、アイリーン=リーヴィスとが。
 ウェイン自身含む、貴族然としたひょろっとした体格の男性ばかりのこの社交界では、オズウェルのがっしりとした体格は非常によく目立っていたが、その隣のアイリーンも、女性にしては高い背により、全く引けをとらない。彼女のすらっとした肢体とそのシルエットは、女性ならば誰もが羨むほどのものだろう。
 呆気にとられるあまり、ウェインは弟に声をかける機会を失ってしまった。あっと思ったときには、もうすでに彼らは会場の隅の方に移動していて、今からそこへ向かうには、周囲の視線を大いに集めてしまうだろうと、ウェインはとりあえず今のところは止めておくことにした。側にいる妻――リリアンの身を案じたせいもある。彼女は感受性が強いので、周りに注目されるのは慣れていないのだ。
 声をかける機会を逃したまま、やがて舞踏会が始まってしまった。ウェインはリリアンと一曲踊りながらも、オズウェルたちを観察する目は止めなかった。ダンスの間中、妻に微笑みながら、時折オズウェルたちの方に視線をやるという高等技術をやってのけたのである。だが、さすがにウェインのその行動は、妻のリリアンには丸わかりだったようで、ダンスが終わると、彼女は堪えきれずにクスクスと笑い出した。

「行ってらしたら? 私のことはお気になさらずに。私は友人と歓談に耽っておりますから」
「……いいのか?」
「はい。オズウェル様のことが心配なんですよね? 行ってらしてくださいませ。その代わり、いつかまた日を改めて、オズウェル様とそのお相手のご令嬢と、顔合わせの機会を設けてくだされば、と思います」

 たおやかに微笑むリリアンに、ウェインも思わず破顔した。オズウェルの所に行きたいのはやまやまだったのだが、妻一人この社交界で残していくことを思うと、どうしても踏み切れなかったのだ。

「ありがとう。僕もいつかオズウェルとそのお相手とは、一度ゆっくり話してみたいと思ってたんだ。とりあえず今日は、顔合わせだけでもしてくるよ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「ありがとう」

 まるで新婚のような雰囲気を醸し出しながら、ウェインは妻の肩を叩くと、きびすを返してオズウェルの方へと向かった。ダンスを終えた彼らは、再び会場の隅に身を寄せていることはもう確認済みだった。後は、二人の元に到着するだけ……だったのだが、そこで予想外の出来事が起きた。
 母セルマが、オズウェルに目配せしたのだ。扇子でちょちょいと合図し、速やかに自分の元に来るように、と。
 オズウェルの方は、しばらく迷っていたようだったが、やがてアイリーンをその場に残し、一人だけでセルマの元に向かった。ウェインとしては、困り果てた。さてどちらに行くべきか、と。
 周囲の目があるとは言え、その笑顔の裏で怒り狂っているであろう母親を、弟がうまくいなせるとはウェインも思っていなかった。せめて援護に行くべきかとも思うが、その前に、リーヴィス嬢とやらが、どのような人物かも気になった。
 彼女の噂自体に、良いものは皆無といっても過言ではない。むしろ、噂だけを耳にして、アイリーンに良い印象を抱くものはほとんどいないだろう。そして、何を隠そう、ウェイン自身も、少し前まで彼女のことはあまりよく思っていなかったのだ。噂がどこまで真実なのかは分からないが、母の言うとおり、火のない所に煙は立たぬという。噂が大げさすぎるだけであって、真実は、多少なりとも噂とあまり相違ないのではないか、と。

 だが、その偏見が覆されたのは、つい先日のこと。弟であるオズウェルが、静かに怒りを秘めながら、母に対して反論したときだった。ウェインとしては、これは意外すぎる出来事だった。オズウェルは、確かに自分の意志は固くもっているところはあるが、だからといって、母に対して真っ向から反論したことなどほとんどなかった。どちらかといえば、軽く流したり、大人しく頷いておきながら、裏で全く違うことをやっていたり、ということが多かった。母は母で、考えが堅苦しいところがあるので、オズウェルのこの対処法は、別に間違っていない。どうせその場は母の意見に圧倒されるのだから、真っ向から対立する方が気力も体力も使うというもの。そのことは、今までの経験からよく分かっていると思っていたが、その理性に反してまで、オズウェルは咄嗟に反論の言葉を放ったのだ。ウェインにとって、弟にそこまで言わしめる令嬢がどんな人物なのか、気にならないわけがなかった。
 ということで、ウェインは結局、オズウェル達の元ではなく、アイリーンの方へ行くことにした。オズウェルのいないところで、直に話してみたいということもあった。
 アイリーン=リーヴィスは、会場の隅から、多少移動していた。右に左にと視線を這わせてみれば、案外彼女はすぐに見つかった。何やら、数人の男女に囲まれていたのだ。
 何か問題でもあったのだろうかと、ウェインの足は自然と速くなる。場合によっては自分が割って入る心づもりだった。ウェインはこそこそとその一団に近づく。

「ふふん、私のこのドレス、どうかしら?」

 聞こえてくるのは、巻き毛の女性の甲高い声。それと相反する落ち着いた声が、ウェインの耳に飛び込んできた。

「……まあ、確かに目を見張るものはありますね」
「でしょう?」

 ウェインは、一団の側に控えながら、耳をそばだてて聞いていた。が、内心、少し意外に感じていた。話を聞けば聞くほど、どうやらアイリーンの方が、巻き毛の女性に喧嘩を売られているように思えたのだ。
 普通、逆では……? と、ウェインはなかなかに失礼なことを考えていた。噂通りの人物であれば、リーヴィス=アイリーンはこういう場合、黙っていないだろう。高圧的な態度に、自信満々な物言い、おまけに口も立つとくれば、もはや社交界で彼女に面と向かって喧嘩を売る者などいないのだ。
 だが、今の彼女はどうだろう。見かけは噂に違わぬようだが、その言動は、まさにただの非常識な大人をやり過ごす態度そのもの。
 リーヴィス=アイリーンが具体的にどのような人物なのか。
 そのことが知りたくて近づいたはずなのに、ますますウェインは分からなくなってしまった。
 そうこう考えているうちに、二人の令嬢の話は終わったらしく、巻き毛の女性は颯爽ときびすを返し、対するアイリーンの方は、軽食のある別室へ入って行ってしまった。
 話が終わった後に彼女をダンスに誘おうと思っていたウェインは、慌ててその後を追った。別室は人の目もあるだろうし、あまり込み入ったことも聞けないだろうが、こうなってしまっては仕方がないだろう。
 別室に入ると、アイリーンの姿はすぐに見つかった。テーブルの近くで喉を潤している最中のようだ。好都合なことに、彼女の周りにはまだ誰もいない。
 ウェインは、軽く咳払いをして彼女に近づく。

「ご機嫌はいかがかでしょう」
「…………」

 我ながら、変な挨拶が飛び出したものだ。
 リーヴィス=アイリーンの方も、訝しげに片眉を上げてウェインを見つめていた。

「えっと……あなたのパートナーは今どこに?」
「今は知り合いに挨拶に行っています」
「そうですか。では、今僕と話しても問題ありませんか?」
「社交界は様々な人と交流する場なので、問題ないかと」
「そ、そうですね」

 無碍のない物言いに、繊細なウェインの心はすぐに壊れてしまいそうだった。だが、すんでのところで堪える。今日この場を迎えるために、今まで何度こういう状況を想定してきたか!
「この後、ダンスを申し込んでもいいでしょうか。魅力的なあなたと踊ってみたくて」
「構いませんが、あいにく私はダンスは苦手なので、あなたにご満足いただけるかは分かりません」
「そんなことはないでしょう。オズ――あっ、いえ、君のパートナーとのダンスも素敵でしたよ」

 慌てて取り繕ってみたものの、アイリーンがウェインの言葉に疑問を抱くには分かりやすすぎる間違いだった。

「オズウェル様のこと、ご存じなんですか?」
「あ、いえ……まあ、顔見知り程度なのですが」

 ははっとウェインはから笑いをした。ここでオズウェルの兄だと告白すれば、警戒されてしまうような気がしたのだ。……今の時点でもうすでに警戒されていることは置いておいて。

「では、あなたも騎士の方なんですか?」
「いえ、僕は剣術のほうはからっきしで。今は王宮で内勤しています」
「そうなんですか」

 淡々と会話が続けられる。手探り状態での会話は、ウェインが最も苦手としていることだった。緊張でカラカラになる喉を、ワインで潤す。

「素敵なドレスですね。あなたによく似合っています」
「ありがとうございます。私の務めてる洋裁店で繕ったものなんです」
「務めてるって……店主を?」
「いえ、お針子としてです」
「あなたが? では、このドレスもあなたが作ったんですか?」
「私がやったのはせいぜい仮縫いと飾りだけですよ」
「すごいじゃないですか! 刺繍をできる令嬢は多いけど、まさかここまで裁縫が得意な人は僕は知りません!」

 興奮してウェインは声高らかに叫んだ。貴族の娘は、刺繍やピアノなどを嗜むことが一般的とされているが、その程度にはもちろん差がある。貴族の家では、専属のお針子がいることも多いため、実際にその腕が披露される機会は少ないのだが、それでも裁縫が得意というだけで、ぐんとその令嬢の株が上がるのは昔からの文化なのだ。
 だが、同時に令嬢が結婚もせずに職に就いているという現状はあまり望ましくなかった。機会に恵まれず、結婚できなかった貴族の娘が、仕方なしに住み込みの家庭教師になったという例は過去にもいくつかあるが、アイリーンの場合はお針子だと。ウェインは、あまり貴族間の暗黙の了解にうるさくはないのだが、社交界ではそうはいかないだろう。没落してしまったとは言え、いっぱしの貴族の令嬢がお針子だと。
 ウェインは、目を細めてアイリーンを見やった。
 彼女の家の事情は、ウェインは多少なりとも知っていた。幼い頃に両親を亡くし、年の離れた弟と暮らしていたと。収入もままならなくなった当時、自ら職に就くことでしか、生きていく術が見当たらなかったのだろう――。

「姉御!!」

 不意に、小さく潜めた、しかし嬉しさ一杯の声がウェインの耳に飛び込んできた。その声の主は、一瞬遅れて、アイリーンの腰に抱きつく。

「エ……ミリア!? どうしてここに!?」

 アイリーンは驚いたように一旦ワイングラスをテーブルに置くと、エミリアと視線を合わせた。

「人手が足りなくて、わたしたちキッチンメイドも駆り出されたんです! でもまさか、姉御に会えるなんて!」

 本当に嬉しそうにエミリアはアイリーンのドレスに顔を埋めた。キッチンメイドだと自称する彼女は、今はパーラーメイドの綺麗な仕着せを身にまとっていた。栗色の長い髪は白いレースの帽子でまとめられ、幼さの残る顔立ちも、わずかに大人びて見えた。

「そちらの殿方は? もしかして、姉御のパートナーの方ですか?」

 エミリアの視線がウェインを射貫く。何故かは分からないが、ウェインは、己の背筋に冷たいものが走るのを感じ、ぶるっと身震いをした。

「ああ、違うわよ。少しお話ししてただけ」
「そうなんですか。こんばんは、エミリアと申します」
「こ、こんばんは……」

 スカートの端を摘まんで淑女の礼をとるエミリアに、ウェインはたじたじとなった。自分よりも遙かに年下のはずなのに、どうしてこんなにも萎縮してしまうのだろうか?
「では、今宵の姉御のパートナーはどなたなんですか?」
「えっ……」

 興味深げに、エミリアの視線は今度はアイリーンに向けられる。

「兄様ですか? でも、兄様は学校の方がお忙しいと聞いていましたが」
「ステファンでは……ないわ」
「……では、どなたですか?」

 好奇心に満ちあふれた大きな瞳が、パチパチッと瞬きをする。思わず吸い込まれそうになったアイリーンは、そっと彼女を視線から外すが、エミリアがそれを見逃すわけがない。

「どなたですか? 舞踏会なんて素敵な日に、まさかその辺りの変な人と参上したわけじゃありませんよね?」
「変な人ではないと思うけど」
「……!」

 一層エミリアの瞳が楽しげに光る。そうして再度尋ねようとゆっくり口を開いたとき――唐突に終わりは訪れた。

「エミリア! 何してるの、早くいらっしゃい! 時間がないのよ!」
「あ……はい! 申し訳ありません!」

 エミリアは、慌ててテーブルの上の空になったグラスをまとめ始めた。

「もっといろいろ聞きたかったんですけど……今はちょっと忙しくて。また今度話を聞かせてくださいね、姉御!」

 グラスを抱えたまま、エミリアはパチリとウインクをすると、駆け足で部屋を出て行った。まるで台風のような一時だった。

「何なのよ……あの子」

 思わずアイリーンは疲れたようにため息をついた。自分よりも遙かに年下のはずなのに、彼女もまた、エミリアという少女に気圧されていたのかと、ウェインは堪えきれずに笑みを零した。

「先ほどの彼女、妹さん……ではないですよね? 確か、リーヴィス家は、あなたと弟さんの二人だけとか」
「ええ、そうです。あの子は……今事情があって預かっている子といいますか。血は繋がっていませんが、大切な妹です」
「そうですか」

 ウェインは顔をほころばせ、エミリアが出て行った扉を見つめた。
 慌ただしく、天真爛漫な少女エミリア。彼女にこんなにも好かれているのならば、リーヴィス=アイリーンは、無条件に信じられる人ではないのかと、ウェインはいささか飛躍しすぎた思考回路に陥っていた。

「噂とは、随分印象が違うんですね」

 そして、つい気の緩みからか、本題に触れてしまった。話の核心とも言えるものに直接的に。

「噂……? 私の、でしょうか」

 アイリーンは、少しばかり疑いのまなざしで、警戒態勢をとった。

「まあ、想像はつきますけれど。人嫌いとか子供嫌いとか、その辺りのものでしょう?」
「そうですね。高飛車で高圧的で、すぐに問題を起こすとも聞いたことがあります」
「当の本人によく言えますね……」

 アイリーンは苦い顔になった。影で噂話をされるのは慣れているが、こうも直接的に聞いてきた人はこの人が初めてだ、と。

「でも、確かにいくつかは真実でしょうね。多少大げさに言われているような気もしますが、私自身の性格に問題があることは理解しています」

 理解はしているが、変える気はない。
 涼しい顔でアイリーンはその言葉を飲み込んだ。

「でも不思議ですね。では、どうして先ほど、女性に喧嘩を売られていたときに言い返さなかったんですか? 噂と違わないあなたなら、言い返すものと思っていましたが」
「…………」

 ウェインの言葉に、アイリーンはなぜかふて腐れたようにそっぽをいた。

「私も、ここへは一人で来たわけではありませんから。もしここで問題を起こせば、その方にご迷惑をおかけすることになりますし」
「オズウェルのこと?」
「……ええ」

 小さく返された返事に、ウェインは一層相好を崩した。
 始め、噂を耳にしたときは、どんな令嬢かと思っていたものだが、こうして話せばなんてことない、ただの不器用な女性ではないか、と。

「――詳しく話を伺いたいものですね」

 ウェインは組んでいた腕を外すと、悪戯っぽくアイリーンを見つめた。