第五話 針子にも衣装
146:噂の二人
その二人が王宮の舞踏室に足を踏み入れたとき、確かに人々がざわめいた。その中には驚きもあり、嘲笑もあり、そして何より、興奮もあった。何しろ、根強く社交界の噂の中心となっている二人が、仲睦まじく揃って現れたのだから。
社交嫌いとも噂される二人が、どうしてわざわざ舞踏会に訪れたのか。それはもう、周りにその関係性を公式に周知させてもいいと思ったからに違いない。
彼らを取り巻く噂は多々存在している。おそらく初対面だと思われる一年前の夜会の目撃情報についてや、家族ぐるみでの付き合い、花祭りで連れだって歩く姿などなど……。
個々それぞれの噂もまた然りである。リーヴィス子爵令嬢の方は、子供嫌いだの人間嫌いだの鬼婆だの誘拐犯だの、カールトン侯爵家の方は、少し前まで男色疑惑は静まりを見せていたというものの、ここ一年で再発しており、三角関係だの、騎士団の誰かを取り合っているだの、真偽のほどがよく分からない噂まである。だが、こうして女性を連れて社交界に来ているのだから、やはり男色疑惑は噂に過ぎないのかしらと、再び彼の疑惑は収束を見せ始めていた。
舞踏室の視線をほとんどかっさらいながら、二人はまず王族に挨拶をし、そして隅の方に移動した。だが、それでもなお突き刺さる強烈な視線。鈍感と名高い二人もその視線に気づかずにいられないくらいには、周囲の人々は二人の一挙一動に興味津々であった。
「……気づいてる?」
扇子で口元を隠しながら隣を見上げるアイリーン。
「ああ」
小さく頷くオズウェル。
二人は同時にため息をついた。
「どうしていつもいつもこんなに注目されてしまうのかしら。これだから社交界は嫌いなのよ」
「俺の耳に入るくらいには、悪評が根付いているからな。少しは大人しくしたらどうなんだ?」
「大人しくしたからって、どうにかなるものでもないのよ。私くらいになってくると、ちょっとしたことでも面白半分に噂を立てられるんだから」
残念ながら、アイリーンの言うちょっとしたこととは、世間の言うちょっとしたことと同じ比重ではない。とはいっても、確かに彼女の言うとおり、社交界では噂に尾ひれがつきすぎる嫌いがあるあるので、あながち間違いとも言い切れないが。
「居心地悪いったらないわ。早く始まってくれないかしら」
「しばらくしたらそのうち飽きるさ」
幸か不幸か、彼らは自分たち二人が揃って噂になっていることには、全く気づいていなかった。両者共々、アイリーンの悪評によって目立っていると勘違いしていたのだ。――相も変わらず、社交界の噂に疎い二人である。
国王陛下の挨拶によってダンスが始まる頃になると、ようやく二人への興味も薄れたのか、視線もまばらになっていた。アイリーンはそのことに安堵の息を漏らしたが、彼女が一番危惧する難題は、すぐ目前に控えていた。
「するか?」
オズウェルが短く問うと、アイリーンは少し悩んだ後、頷いた。
「先延ばしにしていても意味がないものね。早く終わらせましょう」
舞踏会に来たのだから、数回は踊らなければマナーに反する。内心はいやいやながらも、アイリーンはオズウェルの手を取った。
「そんなに緊張することもない。こっちにはもう興味もないだろう」
「だといいんだけど」
だが、そんな二人の心境とは裏腹に、ホールの中心へ近づくにつれ、まるで水面に油が一滴落とされたかのように二人の周囲にはぽっかりと空間が空いた。背の高い二人は、それだけ周囲の目を引き、そして当人達が渦中の人物であることが分かると、一層彼らの興味を引いたのだ。
ダンスの間中、アイリーンは微笑みを浮かべようとしたが、その頬はどう見ても引きつっていた。いつも以上に衆目の視線にさらされているのだから仕方がない。オズウェルの方も、気の利いた話をして彼女の気を逸らす、なんて器用なことができるはずもなく、ただなすべく二人して羞恥に耐えるのみだった。ようやくダンスを終えると、二人は一目散にホールの隅へ移動した。そうしてようやく人心地がつくと、二人してため息をついた。オズウェルなんかは、人の目がなくなると途端に元気そうにアイリーンを見た。
「全く、ダンスの間中何度足を踏まれたことか。もう少し練習しておいた方が良かったな」
正直なところ、周りの視線が気になって、彼はダンスの間の記憶はあまりないのだが、いざ正気に戻ると、足がジンジン痛むので、ヒールで踏まれたのは一度や二度ではないと当たりをつけたのだ。
「そうね。ダンスは男性側の力量が試される場だものね」
アイリーンは素知らぬ顔で言ってのけた。
彼女もまた、ダンスの間の記憶はあまりないが、何度か靴が異物を踏んだような感触は残っていたので、彼の足を踏んだのは一度や二度ではないのだろうと自覚はしていた。していたが、シラッと責任転嫁をしたのである。
「…………」
オズウェルもこれには返す言葉も見つからず、ただやれやれと天を仰いだ。一体彼女に口で勝てる日は来るのだろうか、と。一生来ないような気もしたが、まあそれも悪くはないかとぼんやリ思った。
楽しそうにダンスをする人々や、会話に興じる人々の間に、オズウェルはゆっくり視線を這わせた。一仕事終えたので、他の人たちとの交流をとの考えだった。だがそんな中、彼は一際強烈な視線を感じた。殺気すらをも感じ取ることができるほどの異様な目力。……オズウェルの母、セルマである。
オズウェルは、アイリーンとパートナーの話がまとまって早々、セルマに手紙を出していた。パートナーの件については片がついたので、そちらが心配するようなことはない、と。その後、何度かパートナーの相手を問う手紙が送られてきたが、多忙を理由にオズウェルはそれを黙殺。セルマが怒っているだろうことは、ゆうに見当がついた。
それに、なんといったって、パートナーの相手はあのアイリーンである。
彼女本来の性格は一旦置いておいても、セルマが問題視する理由は、アイリーンを取り巻く噂と、その家柄にあった。結婚まではしないにしても、社交界で噂になる相手としては、悪評が蔓延るアイリーンは望ましくないし、彼女の家柄も、子爵家と言うだけでなく、その上に没落したといういらぬものがくっついてくる。古くから王家に仕えてきた侯爵家からみれば、足下にも及ばない存在だった。
殺気立つセルマに対し、にこやかに微笑んで見せて宥めようと試みるオズウェルだが、そんな小手先の技は、彼女には通用しなかった。セルマは一層目力を強め、手に持つ扇子でくいっと合図をした。どうやら、こっちへ来いと言いたいらしい。
「どうかしたの?」
「あ、いや……」
黙り込んだオズウェルを、アイリーンは不審そうに見上げた。オズウェルはどうしたものかとチラッとアイリーンを見るが、やがてまたセルマに視線を戻す。
一瞬、パートナーであるアイリーンをセルマに紹介しようと考えたオズウェルだが、すぐに思い直した。一応社交界の年長者として、直接嫌味は言わないだろうが、視線や表情までは制御することはできない。不快な思いはさせたくないと、オズウェルは一人で行く決心をした。
「ちょっと知り合いに挨拶に行ってくる。一人で大丈夫か?」
「え、ええ……それはもちろん」
「すぐに戻ってくる」
どこかそわそわした様子でオズウェルはセルマの方へ歩いて行った。なんとなく拍子抜けのアイリーンだが、やがてそろそろと別室の方へ足を移動させた。なんとなく小腹が空いてきたので、別室に用意されている軽食でもつまんでみようとの考えである。コルセットが苦しいのが難点だが、折角王宮にまで来たので、食べないのはもったいない。
しかし、一心に食べ物へと歩みを進めるアイリーンの前に、カツッとヒールの音を高鳴らせて、何者かが立った。視線を上へ向ければ、やたらと目を引く眩しいドレスに、大きな宝石。くるくると豪華に巻かれた巻き毛に、華やかなメイクと、バッチリ容姿を整えたジュリアンナがいた。一瞬、何の用だろうと思いかけたアイリーンだが、すぐに思い出した。そういえば、今宵の舞踏会は、洋裁店シャルルの店との対決のために訪れたのだ。人並みにダンスを踊ったり、豪華な食事をお腹に収めたりするのが目的ではない。
「まあ、こんな所にいらっしゃったのね。アイリーンさん」
色鮮やかな孔雀の羽根であしらった扇子を掲げ、ジュリアンナはさも嬉しそうに目を細める。
「男性にダンスに誘われないから、こんな所に避難してきたのかしら? それとも、毎日貧相な食事ばかりで、王宮の食事が珍しいとか?」
アイリーンの足が別室へと向かっていることを視野に入れてのことだろう。彼女の後ろには、取り巻きと思われる女性だけでなく、幾人もの男性を引き連れていた。なんとまあたいそうな一行なことで、とアイリーンが呆れるのも無理はなかった。
「聞いたわよ? 貴族の癖してどうしてあんなところで針子をやってるのかと思えば、あなたの家、貧乏なんですってね?」
勝ち誇ったような表情を見せるジュリアンナに、アイリーンは複雑な表情を見せた。
貧乏というのは事実であるが、あまりに身も蓋もない。もう少し言い方というものがあるのではないかとアイリーンはこっそり思う。
「ふふん、私のこのドレス、どうかしら? もう貴族の方々からお声がけを頂いていてね。明日から忙しくなりそうだわ」
「……まあ、確かに目を見張るものはありますね」
「でしょう?」
含ませた意味には気づかず、ジュリアンナは胸を反らして見せた。それに合わせて、より一層光る宝石たち。
「それにしてもあなたのドレス……。確かに素敵だとは思うけど、少し平凡なんじゃなくって? なんというか……あまりにもシンプルすぎ? 面白みがないというか、挑戦心が感じられないというか」
「そうでしょうか?」
「ああ、ごめんなさい。あくまで私個人の意見ですので、お気を悪くされないでね」
扇子で口元を隠してジュリアンナは微笑んだ。アイリーンもそれに合わせて微笑んでみせるが、内心はどうにも釈然としない。
「他の方から何かドレスについてお声がけはされたの?」
「いいえ」
「あら、そう……。残念ですけど、その様子だと勝負は決まったも同然のようですわね。やはり天下のシャルルと裏通りにひっそり佇むドレッサム……。勝負するまでもなかったわ」
「はあ」
「…………」
いまいち反応の薄いアイリーンに、ジュリアンナは眉根をつり上げた。
「なに、あなた、私に喧嘩でも売っているの?」
「いえ、そんなつもりは」
「…………」
どこかぼんやりしたアイリーン。ジュリアンナは無性に腹が立ち、唇をわなわな震わせた。何故だか同じ土俵に立っていないように感じさせるこの一連のやりとり。ジュリアンナの神経を逆なでするには充分だった。
扇子をパタンと閉じると、彼女は鼻息も荒くきびすを返した。
「もういいわっ! いくわよ!」
「はい」
ぞろぞろと一列になって歩く一行。アイリーンはちょっとホッとしながらそれを見送った。