第五話 針子にも衣装
145:着替えの時間
まだ日も傾いていない時分、オズウェルは町中を早歩きで歩いていた。夜に王宮主催の舞踏会が開かれるせいか、街は色めき立っていて、関係ないはずの庶民達も、どこか浮き足立っていた。
一方のオズウェルはというと、険しい顔で人混みをかき分けるばかりで、その様子からは、舞踏会、なんて言葉は似ても似つかなかった。
ようやく目的地――洋裁店ドレッサムに着くと、オズウェルは黙ったまま店を見上げた。
ここには、仮縫いの際に一度訪れたことはあったが、それでも入る者を躊躇させてしまう何かがそこにはあった。
重厚な佇まいに、重苦しい雰囲気の店構え。ドアが分かりにくいことも、躊躇の一端を担っている。
誰も見ていないのは承知の上だが、オズウェルは一旦空咳をすると、思い切って扉を開いた。――彼も、柄に似合わず緊張しているのだ。
「いらっしゃいませー」
オズウェルを出迎えたのは、ドレッサムの店員デニスである。ドロシアの孫であるが、彼女に毒されることなく、のんびりした性格をしていた。
「あ、カールトンさん、お早いですね」
「早く来すぎただろうか」
「いえ、そんなことは。早く来て頂いてこちらも有り難いです」
にっこり微笑むと、デニスはそのまま奥へ姿を消した。そしてすぐに紅茶とお茶請けを抱えて出てくる。ドレッサムの中で一番愛想の良い彼女は、貴重なお茶くみ要員なのだ。
「ありがとう」
「いえ。今試着室はアイリーンさんが使ってるので、ゆっくりしていてくださいね」
念のため、デニスはアイリーンの所在をオズウェルに伝えたが、そんなことをせずとも、彼女の声は部屋中に響いていた。
「いっ、いたたたた! ドロシアさん、ちょっと手加減を……」
「なーにを言っとるか! これくらい我慢せえ!」
「せ、背中! 背中のお肉まで挟んでますから!」
「ぶつぶつうるさいのー。少しは黙ってられんのか」
「そんな――」
アイリーンの声は絶望に塗れる。いつもは自分がコルセットを締める側なのだが、まさかコルセットがこんなにも苦しいものだったなんて……!
アイリーンも、こう見えて貴族令嬢。コルセットを着けたことがないわけではなかったが、夜会に行くときにはいつも自分でコルセットをつけていたため、やはりそこには甘えがあった。お茶会や晩餐会において、食事を思う存分――淑女としての分はわきまえながらだが――お腹に収めるため、少々の余裕は常に持たせていた。
その甘い考えが今宵、ドロシアによって見事に砕かれた。
「う、うう……」
アイリーンは、次第に言葉にもならない悲鳴を口から零れさせると、それ以降何も話さなくなった。きつくお腹が締め付けられているため、話す気力もないのだ。きっと今夜は何も口に出来ないわね、とアイリーンは哀愁を漂わせた。
しばらく衣擦れの音だけが部屋に響いた。オズウェルはコーヒーを飲みながら部屋の中を見渡し、デニスはオズウェル用の正装の最終調整をし。
試着室のカーテンが引かれたとき、二人がそちらに視線を向けたのは至極当然のことだった。当然、いきなり二人もの視線にさらされたアイリーンは居心地悪そうに顔をしかめる。
だが、そんな彼女のいつもの仕草など気にもとめず、二人は声もなくアイリーンを見つめた。
アイリーンは、群青色のマーメイドラインのドレスを身にまとっていた。背の高いアイリーンの魅力を引き出しており、なおかつその優雅なシルエットは、見る者を引きつけた。下へ行くにつれ深く濃い色合いになっていく群青色は、アイリーンの金髪にもよく映えている。マーメイド調のドレスであれば、本来は裾が長く広がっているものが多いが、今回は舞踏会ということで考慮されているのか、膝ほどから切り替えがあり、裾は靴がちょっと隠れる程度の長さだ。
デニスはほうっとうっとりした息を漏らすと、その純粋な思いのまま、両手をパンッと打ち合わせた。
「わあー、アイリーンさん、素敵です! 可愛いです!」
「そ、そう……?」
照れっとした様子でアイリーンは自身の様相を見下ろした。いつもより大胆に出ている胸元に、腰やお尻のラインが強調されているこのドレスは、なかなかに気恥ずかしかった。しかし、恥ずかしいと言うことを除けば、ドレス自体はアイリーンの好みでもあった。自分が着ずに見るだけだったならば、どれだけ純粋に見とれただろうか。
ふっとアイリーンが視線を上げれば、黙ったまま自分を見つめているオズウェルと目が合った。純粋な羞恥に、思わず彼を見る視線が鋭くなった。
「な、何……?」
「いや……」
「…………」
あまりにオズウェルが真剣な表情で見つめてくるので、アイリーンは自分のドレスがどこかおかしいのだろうか、と思わず鏡を見やった。……だが、いくら上から下を見てみても、これといっておかしいところはない。強いて言うならば、ドレスに着替える際、少々乱れてしまった髪の毛くらいだろう。
「……?」
アイリーンは訝しげにオズウェルを見上げた。一体何か言いたいことでもあるのだろうか。そんな視線をよこせば、その意図を汲んだらしいオズウェルが、ゆっくりと口を開いた。
「はあ……」
しかし、彼の口から出てきたのは、思いため息が一つのみ。
そのことに始めはきょとんとしたものの、アイリーンはすぐに烈火のごとく怒りだした。
「何よそのため息は! 何か文句でも!?」
「……え? あ、いや――」
「全く失礼な人ね! 紳士失格よ!」
淑女にあるまじき大声を上げながら、アイリーンは扇子で自身の手を叩いた。別に褒め言葉を期待していたわけではないが、洒落た言葉も無しにため息だけを返すというのはどうだろう!
ぷんぷん怒りながら、アイリーンは鏡の前の椅子に腰を下ろした。狭い洋裁店の中、オズウェルと顔を合わせないで済む場所はそこしかなかったのだ。
「じゃ、じゃあカールトンさん、お着替えの方を……」
「――はい」
鏡越しに、オズウェルがアイリーンの様子を気にしている気配が分かったが、アイリーンはツンとしたまま気にもとめなかった。向こうが何か言ってくるまでは、こっちからは声をかけてやらない! というのが今の彼女の心境である。
カーテンが閉じられると、アイリーンはようやく組んでいた腕を解いた。そして鏡を見ながら、後れ毛をちょいちょいっと触った。着替えのせいもあるが、概ねドロシアの強行のせいで、少々髪の毛が乱れているのだ。
どうにかならないものか、と気にしていると、デニスが近くに寄ってきた。
「アイリーンさん、髪の毛とメイク、少し直しましょうか」
「お願いできます?」
承知したとばかりデニスが頷くと、そのままアイリーンの後ろに立ち、髪の毛をいじり始めた。
大雑把なドロシアと違って、デニスは手先が器用だ。ドレスを着付ける前、髪の毛を結ったりメイクしたりするのは、主に彼女の仕事だった。
デニスは再度複雑に髪の毛を結い上げていく。その際、鏡越しにドロシアと目が合った。
「まさしく馬子にも衣装、じゃの。あたしのドレスじゃなかったら、ここまでアイリーンが見違えることもなかったろうに」
「……それはどうも」
いやに自慢げなドロシアに、アイリーンは何か一言言いたくてしようがなかったが、それを口にしたが最後、後は怒濤の勢いで反論されるばかりなので、仕方なしに我慢することにした。
オズウェルが着替えている間、洋裁店はやけに静かだった。連日の徹夜続きでドロシアは欠伸を連発しているし、デニスは真剣な表情でアイリーンの化粧直しに神経をとがらせ、アイリーンはアイリーンで、デニスによる化粧直しの前で、口を開くことが出来ずにいた。
そんな沈黙の中、オズウェルはカーテンを引いた。三人の視線はその音に彼に向けられるが、アイリーンの時とは違って、特に感動も何もない。オズウェルの燕尾服姿は、一度仮縫いの時にも見ているし、女性と違って、メイクや髪型を変えるわけではないので、見た目は少ししか変わらないのだ。それでも愛想の良いデニスは、笑顔になって両手を合わせた。
「お似合いですよ! 格好いいです!」
「……ありがとう」
「当然じゃな、あたしが作ったんだから」
一人ふんぞり返るドロシア。確かに、平均的な成人男性よりは大柄なオズウェルだが、サイズはピッタリなようだ。
「メイクの方も終わりましたし、これで主役お二人が揃いましたね。馬車は外に呼んでおきましたから、いつでも出発できますよ」
デニスの言葉に、アイリーンとオズウェルは顔を見合わせた。
「遅刻するわけにもいかないし、もう出発する?」
「そうだな」
淡々とした様子で頷き合う二人に、デニスは一人首を傾げた。今更ながら、この二人がどういう関係なのか不思議に思ったのだ。
一緒に舞踏会に行くくらいだから仲はいいんだろうけど、でも、単純に友人とも言えないこの関係性ってなんだろう……?
恋仲だったら素敵なのに、とデニスが瞳をキラキラさせて見つめていることに、二人は気づかなかった。
アイリーンは鏡台の上に置いていた扇子を手に持つと、そのまますぐに外に出ようとした。しかしそんな彼女をドロシアが呼び止める。
「お前さん、その扇子を持って行くのか?」
「あ、はい。これは母の――」
「ううむ」
ドロシアは難しい顔でアイリーンの扇子を見定めにかかった。なんとなく緊張した面持ちでアイリーンは黙り込んだ。
やがて、ドロシアは店の奥へ行くと、新しい群青色の扇子を持ってきた。そしてアイリーンの扇子をスッと取り上げると、彼女の手の中にそれを差し入れた。
「これはやや時代遅れの扇子じゃな。ほれ、こっちの方が良いだろう。念のため小物もいろいろと用意しておいたんじゃ」
「あ……」
何かもの言いたげに、アイリーンの口が開かれる。ドロシアは訝しげに彼女を見たが、アイリーンは何も言わない。
「何か?」
「い、いえ……」
視線を下へ向け、アイリーンは諦めたように一歩退いた。その際、すぐ後ろにいたオズウェルとぶつかる。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いや」
よろめいたアイリーンを支えると、オズウェルはドロシアの前に進み出た。
「その扇子、貸して頂けますか?」
「……これか?」
ドロシアは訝しげにアイリーンの扇子を差し出した。オズウェルは微笑んでそれを受け取り、アイリーンに向き直った。そうして彼女が持つ扇子と自分の扇子、二つをひょいと取り替えた。
「お前にはこっちの方がよく似合う。この古ぼけた扇子が」
「…………」
黙ったまま、アイリーンは手の中の扇子を見つめた。確かに、もう随分古い物だから、古ぼけている。でも、よく手に馴染んだ。
「……ありがとう」
いつもなら、悪かったわね古ぼけていて! と息巻いて怒っているところだが、今のアイリーンはそんな気分になれなかった。殊勝に礼を口にするくらい、素直だった。ほんのわずかに笑み、手慰みに扇子を開いたり閉じたりした。その光景を目の当たりにし、ドロシアも諦めたように鼻を鳴らした。
「……まあお前さんがいいんならそれでいいだろ。扇子一つで掠れるあたしのドレスじゃないわい!」
「ありがとうございます」
「そう思うんなら、きっちりジュリアンナとの勝負に勝ってこい!」
ドロシアはそう叫ぶと、アイリーンの背を押し、店の外まで押し出した。店の前の狭いとおりには、一台の馬車が窮屈そうに停まっていた。オズウェルの手を借りてアイリーンが乗り、その後にオズウェルも乗車する。
「ああ〜、できることならあたしも舞踏会に赴いてこの目でジュリアンナの悔しがる顔が見たかったわい!」
馬車の小さな窓からそんな声が聞こえてきて、アイリーンは思わず苦笑した。
「まだ勝てると決まったわけじゃ……」
「何を言うアイリーン!」
ドロシアは地団駄を踏んでアイリーンに指を突きつけた。
「あたしが誠心誠意賭けて作ったこのドレスがシャルルなんかに負けるわけがなかろう! お前さん、明日はすぐにでも報告にくるんじゃぞ! ジュリアンナの一挙一動を全部報告するんじゃ!」
「はいはい……」
疲れたような顔でアイリーンが頷いたのを合図に、デニスが大きく手を振った。
「頑張ってきてください、お二人とも!」
「尽力はします」
ドレスに着替え、洋裁店を出発するだけでドシッと疲れが溜まり、アイリーンは今から先行きが不安でならなかった。