第四話 針は剣よりも強し
144:変化する関係
オズウェルが着替え終わってようやく、アイリーンは顔を上げた。その顔はまだ非常にむくれていたが、オズウェルは飄々としていた。
「悪いな。水浴びをした後、まだ暑かったのもあって、このままでいいのかと」
「全く……。次からは気をつけて」
次があるのかどうかは分からないが、とりあえずアイリーンはそれで手打ちとした。世間話をする時間も余裕もないので、アイリーンは巻き尺をさっと伸ばした。
「背筋を伸ばして立ってください。力は抜いて」
なまじ知り合いなだけに、二人きりで採寸をするというのは少々居心地が悪かった。知り合いに仕事の顔を見せるのは気恥ずかしいし、かといって、いつものように話しながら採寸というのも、集中できないので却下だ。
息苦しい沈黙の中、アイリーンは早く終わらせようとちゃっちゃと採寸をこなしていた。首回りに肩幅、袖丈に着丈……。中でも気まずかったのは、圧倒的に胸囲に胴囲、そして腰囲だろう。今までは女性ばかりの採寸で気づかなかったが、これら三つの採寸では、相手に抱きつくような形で巻き尺を後ろに回し、そして測らなくてはいけないのだ。さすが騎士団団長と言ったところか、オズウェルはただでさえ肩幅も広いし、体つきもがっしりしている。いくらアイリーンが女性にしては背の高い方だと言っても、精一杯密着しなければ、彼の胸囲は測れない。そのときの気まずいことと言ったら!
せめて知らない人であったら……とアイリーンは思わずにはいられなかった。いや、彼以外ならきっと誰でも良かった。腐れ縁の彼だからこそ、ここまで気まずいのだ。
手首周りに裾幅、そして靴のサイズまで測ると、アイリーンはようやく採寸を終えた。正直なところ、ジュリアンナとの勝負はドレスであって、なにも男物の靴にまで手を出さなくてはいいのでは、とアイリーンは思ったが、ドロシア曰く、上から下まできっちり揃えるのが我流だそうだ。もちろん、靴自体は外注だが、事細かに靴屋と相談しながら作ってもらうらしい。……変なところでこだわる店主である。
「お疲れ様。これで全部終わったわ。ありがとう」
「いや、こちらこそ」
「仮縫いが終わったら一度連絡するから、店の方に来て頂けると有り難いわ。念のためサイズを合わせたいから」
「分かった」
仕事が終わったとばかりアイリーンが片付けをしていると、その後ろ姿に手持ち無沙汰なオズウェルが声をかけた。
「茶でも飲むか?」
「いえ、結構よ。もう帰るつもりだし」
それに、今までの関係性からいって、二人きりで仲良くお茶を飲むなんて光景が思い浮かばないのは仕方のないことだろう。今まで穏やかに会話したことだって、数えるほどしかない。今更穏やかに世間話、なんて言われても、何を話せばいいのか分からないのだ。
夜会、大丈夫かしら。
再びアイリーンの頭に上ってくる不安。
アイリーンはそのまま、スッと視線を横にずらし、オズウェルを視界に入れた。じいっと見つめてくるアイリーンに、オズウェルは居心地悪そうに身体を強ばらせた。。
「何か?」
「…………」
この大きな身体が、どうダンスをするというのだろう。
アイリーンは不思議で仕方がなかった。
そもそもアイリーンは、オズウェルが正装をしている姿など、初めて会ったときくらいしか見たことがない。いつも騎士の制服を着て、呆れた顔ばかりしているのだ。そんな彼が、燕尾服を身にまとって女性とダンスし、そして甘言を吐く……。そんな姿、想像できるわけがなかった。
「社交界って、よく顔を出してるの?」
ついそう聞いてしまうくらいには、アイリーンは現在、オズウェルに興味津々だった。
「いや、前に出席したのは、確か一年くらい前だったか。……正直、俺は社交界は苦手だな」
「そうなの?」
アイリーンはさも意外そうに聞き返した。確かにそんな予感はする、と想像はしていたものの、まさか理想通りの答えが返ってくるとは。
「じゃあダンスは? 得意?」
仲間が現れたとばかり、アイリーンは喜々として食いついた。この質問にも、理想通りの返答が返ってくるとばかり――。
「得意ではないが、人並みには」
堂々と答えたオズウェルに、アイリーンは途端に顔をしかめた。てっきり気まずそうな顔で苦手だと答えるものだとばかり思っていたのに。
「そういうお前は苦手なのか?」
「…………」
表情に出やすいアイリーン。無自覚ながら、顔がひくっと引きつった。そして無言のまま立ち上がる。
「もう失礼するわ。もうすぐ仕事の時間だし」
誰が好き好んで自分の弱みをさらけ出すものか。
アイリーンは澄ました顔で頭を下げた。これ以上は戦況不利と判断したのだ。部屋を出て行こうと颯爽と扉に手をかけたとき、再びオズウェルの声がかかった。
「練習するか?」
「えっ」
思わずアイリーンは顔を上げた。一体何を言い出すのか、とついで不信感丸出しの顔でオズウェルを振り返った。
「どうして……急に?」
「今度の舞踏会は王宮主催のものだろう? 参加者も今まで以上にたくさんいるはずだ。そんな中で、下手なダンスをさらしていいのか?」
「へ、下手って……。あなた、誰に向かってものを言ってるの?」
憶測でものを言わないで欲しいわと、そう語るアイリーンの視線は明後日の方向を向いている。オズウェルは半目になった。
「蔓延る自分の悪評の中に、ダンスについての項目も増えていいのか?」
「うっ」
決定的だった。
アイリーンの脳裏にはすぐにドロシアの顔が浮かんだ。その顔はしかめっ面のまま、ゆっくりと口を開いた。
――この店の沽券に関わる舞踏会で、あたしのドレスを着、あたしの店の看板を背負っているときに、下手なダンスをさらしたじゃと?
その顔は、徐々に般若へと変わっていく。
――この落とし前を、一体どうつけようかのう?
ぶるっと震えた後、アイリーンはしずしずオズウェルの元に舞い戻ってきた。羞恥に顔は上げられないまま、そっと口を開いた。
「……お願いできる?」
「――狭いが、簡単なステップとターンなら練習できるだろ」
言いながら、オズウェルは流れるようにアイリーンの手を取った。えっと彼女は思わずオズウェルの顔を見上げるが、目が合ったところで再び顔をうつむけた。
「……まあ、私も下手なわけじゃないのよ。ただちょっとダンスをしてない時期が長かったから、不安なだけで」
「ステファンは練習相手になってくれないのか?」
「学校の勉強で忙しいみたいだから、あまり頼めないのよ」
「あの国立学校だからな……。最近子供達は家に帰ってきてるのか?」
「そうね。フィリップは定期的に帰ってくるし、ステファン、エミリアも休みの度に帰ってきてくれるわ。ウィルドは……帰ってくるどころか、手紙も滅多に返さないわね。せめて近況報告だけでもしてくれればいいのに」
流れるように会話は続く。世間話なんて、何を話せばいいのか分からないとは思っていたが、いざその状況になれば、会話は途切れることはない。
いつの間にか、彼との間に共通の話題は増えていたのねとアイリーンはぼんやりと思っていた。オズウェルとの関係性は、知り合いだの顔見知りだのと周りに紹介していたが、今となっては、友人くらいの立ち位置にはなっているのかもしれない。――彼がどう思っているのかは分からないが。
「ウィルドもそろそろ思春期だしな」
「そこまで過保護にしてるつもりはないんだけど……」
ただ、友人という関係性になったという認識をしていても、アイリーンはダンスの間中、ずっと顔を上げられずにいた。