第四話 針は剣よりも強し

143:夜会に向けて


 いつもなら恐ろしいほどの笑みを浮かべて声をかけてくるのに、今日は一体どうしたというのだろう。
 詰所の門番は不思議でならなかった。あの子爵令嬢が、仮にも怖じ気づいてるだなんて選択肢は、さらさら頭にはなかった。

「あの……」

 とりあえず門番は声をかけてみることにした。落ち着かない足取りで辺りをウロウロしていたアイリーンは立ち止まった。

「な、何かしら……」
「もしかして団長にご用ですか?」
「えっ、あ、いえ……」
「違うんですか?」
「いえ、あっています」

 煮え切らない様子で、結局アイリーンは頷いた。

「すみません、今団長出かけていて……。もうすぐしたら帰ってくると思いますが」
「そ、うですか」

 どことなくホッとした様子でアイリーンはきびすを返した。そのまま帰って行こうとする彼女を、門番は慌てて引き留める。

「中で待って行かれないんですか? すぐに帰ってきますよ」
「え……」

 アイリーンはしばし逡巡した。そして何か重要なことを決心するかのような厳しい顔つきになると、恐る恐る再び門へ近づいた。

「では、中で待たせて頂きます」
「は、はあ。どうぞ」

 いつも以上に鬼神のごとく顔つきだ。
 もう慣れたとは言え、やはりちょっとだけ怯えつつ、門番は彼女を見送った。


*****


 詰所内には、あまり騎士の姿は見られなかった。訓練は午前だったようで、午後の今は、それぞれ自室でゆっくり休んでいるのかもしれない。

 人気のない詰所内を歩き、何度か利用したことのあるベンチまでやってきた。アイリーンお気に入りのベンチである。女人禁制なのに、お気に入りということ事態がそもそもおかしいが、彼女はそんなこと気にもとめていなかった。糸が切れたようにベンチに腰を下ろすと、生気の抜けたような顔になり、思わずため息を一つ。
 此度、アイリーンはオズウェルの採寸をしにここまでやってきていた。ドロシアの天敵、ジュリアンナから夜会を舞台での挑戦状をたたきつけられたため、アイリーンのドレスと、そのパートナーであるオズウェルの正装とで自信作を作らなくてはいけないのだ。実質、勝負の主眼となるのは女性のドレスだが、そのドレスを映えさえるにはパートナーたる男性の正装も重要とのことで、オズウェルの服も作ることになり、こうして採寸にやってきたというわけだが……。

 一体、どんな顔で会えばいいのか。

 アイリーンは複雑な表情で両手を組んだ。顔は前を向いているが、その視線はどこか遠くを見つめたままだ。
 アイリーンとしては、自分でもどうしてオズウェルと夜会に行くことになったのか、訳が分からなかった。
 噴水にて、パートナーの相手をどうしようか悩みに悩んでいたところ、いつの間にか彼も隣に腰掛けていたようで、微妙な空気になっていたあの日あのとき。何度か彼にパートナーの話を持ちかけようとしたものの、一体どんな顔で話し出せばいいか分からず、そのまま黙り込んでいたところ、突然ドロシアが目の前に現れ、何故だかオズウェルにパートナーの打診を始めたのだ。アイリーンが唖然としている間に、いつの間にか話は決まったらしく、急に彼は立ち上がり、アイリーンにパートナーを申し込んできた――。

 そのときの光景を思い出し、アイリーンは思わず赤面した。ついで、この情けない姿を誰か見ていないかと鋭い目つきで辺りを見渡した。誰もいないということが分かると、再び大きなため息をついた。

 なぜ差し出されたあの手を取ってしまったのか、アイリーンはさっぱり分からなかった。確かにパートナーが現れてくれたことは嬉しかったが、相手はあのオズウェルだ。彼に不満があるというわけではないが、いつもの自分なら、間違いなく何か一言二言間を挟んだだろう。にもかかわらず、あのときの自分は、迷うことなく手を伸ばしていた。そのときの光景を思い出しては、アイリーンは完全に調子を崩されていた自分が恥ずかしくてならなかった。

 しかし、彼の方もなかなかにずるいのだ。

 いつもはお前としか言わないくせに、急にかしこまった口調で『リーヴィス嬢』だなんて、ずるいにもほどがある。
 加えて、いやに真剣な表情付きである。噴水に腰掛けているアイリーンに対し、ちょっと前屈みで手を差し出してくる彼。
 どうせ、彼もパートナー探しに焦っていただけだろうというのは想像はつくが、それでも少しだけ戸惑ってもいた。いつもは、呆れたような表情しか浮かべてないくせに。
 もう何度目か分からないため息をついたとき、彼女の肩を叩く者があった。あまりに思い詰めるあまり、近寄ってくる音に気がつけなかったらしい。

「どうも」
「あ……こんにちは」

 人なつこい笑みを浮かべるマリウスに、アイリーンは疲れた顔で挨拶を返した。

「オズウェルに用なの?」
「はい……」

 折角詰所の入り口が見えるところに座っていたというのに、すっかり当初の目的を忘れていた。
 アイリーンは一層落ち込んだ様子で頷いた。だが、彼女の言葉に、マリウスは嬉しそうな顔になったため、何か誤解をしているのではと、アイリーンはまた口を開いた。

「採寸をしに来ただけなので、すぐに帰るつもりですが」
「採寸? オズウェルの服を仕立てるの?」
「…………」

 完全なる墓穴だ。
 この様子では、パートナーとして自分たちが共に夜会に行く、ということは知らないのだろう。彼はこういった色事に興味津々で、かつ首を突っ込むことも大好きなようなので、わざと知らせなかったのかもしれないと、アイリーンはオズウェルの判断を有り難く思った。

「はい。服が欲しいそうで、注文が入ったそうです」
「へえ、そうなんだ」

 さも意外といった風にマリウスは頷いた。

「じゃあ俺も今度注文してみようかな。ドレッサムっていう店だったよね?」
「はい、そうです。お待ちしています」

 一瞬困惑したが、アイリーンはすぐに笑みを浮かべた。何はともあれ、顧客が増えるのは嬉しいことだ。

「じゃ、部屋にでも入ってる? 外で採寸はしないでしょう?」
「はい。そうしていただけると……」

 アイリーンが立ち上がったのを合図に、マリウスはオズウェルの私室まで案内してくれた。部屋の主がいぬ間に勝手に中に入るのはどうだろうか、と一瞬戸惑ったものの、そんな殊勝なことを言うような間柄ではないだろうと、結局遠慮なく部屋に入った。

 部屋に一人になると、アイリーンは好奇心を抑えきれず、部屋の中を見渡した。物はあまりないようで、質素な印象を受ける部屋だ。家具も机と寝台、ソファと小さなテーブルしかない。なんとなく机の上を覗き込んでみたが、整理整頓された書類があるのを見て、慌てて首を引っ込めた。騎士団団長ともなれば、何か見られてはいけない重要書類でもあるかもしれない。
 ただ座っているのも暇なだけなので、アイリーンは、机の背後にある窓から外を覗いてみた。しかし、窓の下に広がる景色は、なんてことない訓練場があるだけで、特に面白いものはない。騎士達が訓練している姿が見られるならまだしも、それもないのだから退屈なことこの上ない。

 アイリーンは脱力すると、ソファに腰掛けた。

 珍しいことに、終始緊張していたのだ。いや、今も緊張が解けないでいることには変わりないのだが、まだ人の目がないだけマシというもの。

 緊張が解けると、アイリーンは再び思考に囚われた。

 今の彼女には、まだまだ問題は山積みなのだ。目下悩みの種であったパートナーが見つかったことはもちろん嬉しいが、だが、同時に新たな問題が発生したことも否めない。
 ――何を隠そう、自分とあの人とで夜会に行く。このことが、全く想像できないのだ。

 最近は道ばたでばったり会っても世間話をする程度の仲とは言え、以前は出会い頭に嫌みの応酬を繰り広げるのは日常茶飯事だった。それがいつの間にこんなに穏やかな関係になったかは分からないが……しかし、そこから更に夜会に連れ立っていくことになろうとは、誰が想像しただろうか。

 連れだって夜会に行けば、少なからず噂にはなる。その覚悟は、アイリーンにはないわけではない。伊達に魔女だの鬼婆だの噂を立てられていないのだから。

 根拠のない妙な自信が沸き起こってくると、アイリーンは次なる問題に思考を飛ばす。自分が、ダンスを不得意としている、ということである。

 夜会では、ダンスをすることは免れないだろう。にもかかわらず、アイリーンは今までダンスを踊ったことなど数えるほどしかなかった。滅多に社交界には顔を出さないし、出席したとしても、ステファンと何度か、それ以外は儀礼的なものが数回だろう。前回の夜会は一番酷く、ステファンとしか踊らなかった。そこから約一年、一度もダンスをしていない身で、果たして衆目の場で踊ることなど出来るのだろうか。

 ステファンは学校で忙しいだろうし、練習相手になってくれそうな人は誰もいない。皆が見ている前で――しかもパートナーは騎士団団長である――下手なダンスを披露してしまったらどうしようと、アイリーンの頭には嫌な想像しか浮かばなかった。

 あまりの絶望に、彼女はノックの音にも気づかない。気づいたときには、ポンポンと肩を叩かれ、反射的に悲鳴を上げていた。

「なっ、なに――」
「一応ノックはしたんだが」
「ちょ、ちょっと考え事してて……」

 激しい動悸に胸を押さえながら、アイリーンは振り返った。しかしその瞬間、またもや目を剥いて叫んだ。

「ちょっ……!? どうして服を着てないのよ!」

 上半身裸で、きょとんとするオズウェル。戸惑いながらも、肩にかけたシャツをゆっくり着始めた。

「採寸って聞いたが……」
「服を着たままでも大丈夫よ!」
「そうなのか?」

 悪気はないようだが、悪いことをしたとも思ってないらしい。
 アイリーンはぷんぷん怒りながら、オズウェルが着替え終わるのを待った。