第四話 針は剣よりも強し
139:シャルルの娘
昼食を取った後の昼下がりの洋裁店は、丁度良い気候で、居眠りするにはもってこいの心地よさだった。だが、仮にもアイリーンは雇われの身。たとえ、雇用主であるドロシアが、安楽椅子に座って優雅に舟をこいでいたとしても、自分も同じように眠りに身をゆだねてはいけないのだ。
といっても、縫物をする速さは遅くなり、目はしょぼしょぼとし。もう何度目か分からない程指に針を刺したころ、唐突に洋裁店の扉が開いた。誰かが来店してもすぐに分かるよう、扉にはドアベルを設けてあるが、それがやけに盛大に鳴り響いたので、来店した主はよっぽど豪快に扉を開けたらしい。それも、安楽椅子のドロシアが転げ落ちるくらいには。
「まあ、せっかくの書き入れ時だっていうのに、ここは客が一人もいないのね。よっぽど人気がないのかしら」
扉から入って来たのは、やけに派手なドレスを身にまとった女性だった。後ろに執事らしき人物を携え、優雅に扇子を構えている。
「そろそろ店じまいをした方が、赤字も少なく済むのではなくって? まあ、それにこんな所に埃が溜まってるじゃないの。客が一人も寄り付かなくなるわけだわ」
姑よろしく、女性は窓枠にツーッと指を走らせた。ふっと哀れみの笑みを浮かべた後、執事が差し出したハンカチーフで指をふき取る。
「それで? 客が来たというのに、この店はお茶の一つも出さないのかしら。マナーがなってないわねえ」
「あ……はいっ、ただいま!」
怪訝そうに奥から出て来たばかりのデニスが、再び慌てて奥へ入って行った。その間にも、女性はふんぞり返って椅子に座る。
「それで、あんたはどなたさんじゃ?」
まるで胡散臭いものを見るかのように、ドロシアの表情は歪んでいる。彼女の言葉に、女性は大袈裟に目を見開いた。
「まあっ! 私のことを知らないですって!? ……ま、仕方ないわね。こんな辺鄙な洋裁店なら、上を目指すどころか、集客に必死でしょうに」
女性は扇子をパッと広げると、さも嬉しそうに目を細めた。
「私はジュリアンナ=シャルル。シャルル・ド・ヒュルエルの跡取り娘よ」
「――っ!」
アイリーンは思わず息を呑んだ。
シャルルと言えば、常日頃から店主ドロシアが目の敵にしている好敵手――正直なところ、比べるほど肩を並べてはいないのだがのだが――である。
ひとたびシャルルの名を耳にすれば、いつも烈火のごとく怒りだす彼女が、一人娘のジュリアンナを見て、取り乱さない訳がない。
どうやってドロシアを諌めようか――とアイリーンが頭を悩ましていると、ドロシアは、一足早く口を開いた。
「何しに来た」
彼女の声は至って冷静。アイリーンは安心しないまでも、少々安堵の息を吐き出した。
「勉学のために他の洋裁店を見学しているだけですわ。もう近隣諸国の洋裁店は見学いたしましたの。今は自国の洋裁店を見回っていたのですけど……でも、残念ながらここは時間の無駄になりそうですわね」
「なんじゃと?」
ドロシアのこめかみがぴくっと動く。続いてアイリーンの顔もげんなりとしたものになる。あわや一触即発か、というときになって、ようやくデニスが紅茶を持ってやってきた。
「はい、どうぞ」
「お茶請けが欲しいところだけど……まあいいわ」
勝手にケチをつけ、勝手に納得すると、ジュリアンナは楚々としてカップに口をつける。
「そんなに長居するつもりはないのよ。この紅茶を飲み終わったら帰るわ」
「さっさと帰れ……」
ボソリとドロシアは呟く。が、ジュリアンナは聞かなかったことにするつもりらしい。代わりにカップをテーブルに置き、アイリーンに近づいた。
「あなた、お針子よね? この店には長く勤めてるの?」
「一年ほど……でしょか」
それが長いのか短いのが分からず、アイリーンは年数だけを答える。大してジュリアンナは、ふうんと気のない返事をしながら、先ほどまでアイリーンが仮縫いしていたものを持ち上げた。
「……雑ね」
「正確さよりも速さが求められているので」
アイリーンは即答した。このドレッサムに努めて早一年。大雑把なドロシアの指導の下、アイリーンは早くも彼女の色に染まりつつあった。
「確かに、従業員がこれだけしかいない店なら、早く作業するほかないわよねえ。そして粗悪な品を売りつけて顧客が減る。見事な悪循環ね」
「それは仮縫いの段階じゃ。適当に縫って何が悪い!」
ドロシアが吠える。が、今のこの段階では、完全にドロシアの方が分が悪い。仮にも洋裁店の店主が、『適当に縫って何が悪い!』などと口にすべきではないだろう。
「いえ、別に他店の方針に私がどうこう口を出すつもりはないの。ただ……こんな店、すぐに潰れてしまっても仕方ないわね……と、そう思っただけよ」
確かに方針に口を出してはいないが、余計まずいことを言っている。
ジュリアンナの言葉に、ドロシアは唐突に押し黙った。これは兆候である。吹けばすぐに飛んでいきそうな彼女の薄っぺらい理性が飛び、さらには髪の毛のように細い堪忍袋の緒が切れたと、そういう前触れである――。
「お前さん」
思いのほか、落ち着いているような声のドロシア。だが、顔を上げた彼女は、底冷えするような絶対零度を身にまとっていた。
「よその心配をするよりも、自分の心配をした方がいいじゃないかい? お前さんとこの商品は、どうも二番煎じのデザインばかりで、独自の商品なんか皆無じゃ。うちの商品が流行り出したら、すぐにそのデザインを盗み出す寄生虫のようなお主らには、わしらの店を侮辱するに値せんわな?」
「な、なんですって!」
ジュリアンナはぐしゃっと扇子を握りしめた。後ろでアイリーンは頭を抱える。我らが店主の毒舌は、今日も絶好調らしい。はいはいと受け流せばいいものを、どうして応戦してしまうのだろうか。
一歩引いた立ち位置で二人を観察しているアイリーンの頭に、人の振り見て我が振り直せという格言はすっかり抜け落ちているらしい。
今のあなたの立ち位置が、いつもハラハラしながら尻拭いしている僕と同じですから――と、ここにステファンがいたならば、そう苦言を呈していただろう。
ため息をつくアイリーンと、ハラハラそわそわしているデニスを尻目に、事態はどんどん白熱していく。
「私たちが寄生虫!? 言ってくれるじゃない! 私の店の商品が、こんな安っぽい店のものと同等だとでも言いたいの!?」
「まさか。お主らのは、無駄に金ばかりかけまくってるからの。わしらのと一緒にして欲しくはないわ」
「それはこちらの台詞よ」
褒めているのか貶しているのか、ドロシアの言葉は絶妙に見分けがつきにくかったが、ひとまずジュリアンナは引き下がった。
「ま、でも、わしもそのことに関してはとやかく言わんさ。デザインを盗み出してる、という点においてはな。流行は常に移り変わるもの、消費者の好みに合わせていくのもまた、供給していく側としての面白さよ」
「何が言いたいの?」
やたらめったら回りくどいドロシアの言い方に、いい加減ジュリアンナも我慢ならないらしい。イライラと眉を上げる。
「そもそも、あなたの言い方が気にくわないわ。デザインを盗み出す? 私たちはあちらこちらに情報網を張り巡らせて、流行には常に敏感なのよ。たまたまあなたたちが流行を生み出したからって、盗んだなんて言い方は止めていただきたいわね。私たちは、苦労して情報を集めているの」
「まあそう言い方もあるがな」
長々と語ったジュリアンナを、ドロシアは一言で一刀両断した。
「しかしわしが言いたいのはそんなことじゃない。他店からアイデアを盗み出すんじゃなくて、自ら流行を作り出すくらいじゃないと、この先店を大きくはできんと言いたいんだ?」
「はい?」
「流行を作り出す……何馬鹿なことをおっしゃって? 流行なんて、消費者の好み次第じゃない。それをどう作るって……」
先ほどまでの勢いはどこへやら、ジュリアンナの声は戸惑ったように尻すぼみに消えていく。ドロシアはニヤリと唇を歪めた。
「好敵手に教えるわけなかろう」
「……っ!」
ギリギリとジュリアンナは唇を噛むが、対するドロシアはどこ吹く風、それどころか、相手よりも優位に立てたと非常に上機嫌である。
「……まあいいわ。格下相手に教えを請うだなんて、私の矜恃が許さないもの」
ジュリアンナはパタリと扇子を閉じた。これで終わる女性ではなかった、彼女は。
あろうことか、なぜかアイリーンの方につかつかと歩み寄り、彼女のドレスの裾を掴んだ。
「あなたが言う流行……それが、この方のようなドレスだと?」
ジュリアンナの見下しきった視線がアイリーンのドレスへと向けられる。視線だけではない。彼女が何を思っているか――それは、まるで汚物でも触るかのごとく、ドレスを指先で掴む様からも容易に推察できた。
突然のこの仕打ち。アイリーンは当然目を剥いた。そして、その次にドロシアから発せられる裏切りの言葉にも。
「アイリーンのは問題外じゃ」
「なっ!」
とっさにアイリーンが反論できなかったことを良いことに、ドロシアはこれ幸いと得意の弁舌を振るった。
「ドレッサムの針子たるもの、マシな恰好をせいと常日頃言っとるのに、この体たらくは全く……! それに、この前お前さんにあげたばかりの服はどこじゃ! あれを着てこんかい、あれを!」
「あれは……もっと特別な日に着ようかと……。普段着として着たら、すぐに汚してしまうかもしれないし」
言い訳がましくアイリーンは言いつのる。だが、あながち間違いではなかった。
確かに、アイリーンは以前にも一度、ドロシアとデニスの二人から、服を贈られたことがあった。しかし、そのときは丁度、昨年の誘拐事件のまっただ中で、町中を走り回っているうちにすっかり服が汚れてしまったのだ。それ以来、大切な服は特別な機会に着ようと心に決めていたのだが、まさかこんなところで槍玉に挙げられるとは。
「おほほ、面白い方を雇っておいでなのね」
笑ってはいるが、ジュリアンナのそれは、完璧に嘲笑である。ドロシアはキッと彼女に向き直った。
「お前さんのそのドレスも……なかなかのもんじゃがな。趣味が悪いというか何というか。ただ宝石をちりばめただけじゃ、ドレスの魅力は最大限に発揮されんて」
「なんですって!」
すっかり持ち直したドロシアに翻弄されるジュリアンナ。案の定彼女はキーッと甲高い声を上げ、ついにはジュリアンナとドロシア、二人による取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。といっても、当事者はよぼよぼの老婆と扇子よりも重いものを持ったことがない令嬢。髪を引っ張ったりつねったりと、なかなかに低次元の喧嘩ではあったが。
「いい加減にして下さい……」
ジュリアンナ付きの執事は影薄く沈黙を貫き、ドロシアの孫娘デニスは奥で成り行きをハラハラと見守り。
アイリーン以外、このかんしゃく持ち二人の仲裁役を務められるものがいないため、仕方なしに二人の間に割って入った。その際、ドロシアにひっかかれたり、ジュリアンナに扇子で叩かれたりと、踏んだり蹴ったりになったのは言うまでもない。
「こうなったら!」
アイリーンの耳元で突然ジュリアンナが叫んだ。
「私と勝負なさい! どちらのデザインしたドレスが称賛を浴びるか、この際はっきりさせようじゃないの!」
「望むところじゃ! 盗人なんかにわしが負けるわけがなかろう!」
「今時の流行も知らないババアが笑わせてくれるわね! いいわ、一月後! 王宮で夜会が催されるわ。上流貴族から田舎貴族まで大勢招待される大規模なものよ。そこで決着をつけましょう!」
「夜会……?」
「そうよ。下々の者には耳慣れなかったかしら」
ジュリアンナは優雅に髪をかき上げた。
「はっ、笑わせてくれるの。お前さんだって、ただの商家の娘じゃろ」
ドロシアの馬鹿にしたような声に、再びジュリアンナの頬にカーッと熱が集まっていく。だが、すんでのところで爆発は押さえられたようで、アイリーンはホッとした。
「確かに私は貴族じゃないわよ。でも夜会にお呼ばれするくらいには、シャルルの家名は知られているのよ。ぜひ新しいドレスのお披露目をして欲しいって、直々に招待されたのよ」
今度はドロシアが詰まる番である。
ここドレッサムでは、主に下級貴族や演劇用のドレスを依頼されることが多く、上級貴族や王族からの依頼など、見たことも聞いたこともなかったのである。それを見透かしたのかあらかじめ調べていたのか、とにかくジュリアンナは自分の勝利を確信したようで、ふふんと鼻を鳴らした。
「まったく、下々の者の僻みは怖いわねえ。私の勝ちは決まったも同然かしら。だってあなたたち、お可哀想に、招待状は持ってないんでしょう?」
ジュリアンナの視線は憐れみを含んだものになった。
「知らないようだから教えてあげる。夜会には誰でも行けるわけじゃないの。招待状が無いとは入れないのよ? いくら立派なドレスを身に纏っていても、招待状がないのなら門前払いね。まあ? 私は優しいから、どうしてもって言うなら、今回の夜会じゃなくて、どこか他の機会を勝負の舞台にしても――」
「どうなんじゃ」
ジュリアンナの言葉を遮って、ドロシアは鋭い視線でアイリーンを見やった。アイリーンは考え込んで顎に手を当てる。
「そういえば、数日前に王宮から招待状が届いていたような……」
「よし、お前さんが行くんじゃ」
「え」
「行け」
「ちょ、ちょっとあなたたち、一体何の話をしてるの?」
慌てて話に入り込むジュリアンナであるが、アイリーンは見向きもしない。
「い、嫌ですよ。そんな目立ちそうなことはしたくな――」
「店主命令じゃ。行け」
「そ、そんな理不尽な……」
「その代わり、ドレスはわしに任せるんじゃな。うーんと気合を入れて作ったるわい」
「余計嫌ですよ……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
ジュリアンナは身体ごと二人の間に割って入った。ひくつく頬で、アイリーンを初めて真正面から見据える。
「もしかしてあなた……貴族、なの?」
「一応」
短いアイリーンの返答。だが、その破壊力は抜群だったようで、ジュリアンナはフラフラと後ずさった。格下の針子が貴族だなんてとか、こんなドレスの女が貴族だなんてとか、彼女が何を考えているのかまでは分からないが、とにかく貴族という単語に劣等感を抱いているらしい。ついには文字通り頭まで抱えた。
「信じられない……どうしてこんな人が……」
ブツブツ言うジュリアンナを尻目に、ドロシアはアイリーンと向き直った。その動作に何か感じたのか、そろりそろりと奥からデニスも出てくる。
「夜会まであと一月。寝る間も惜しむ必要はあるが、覚悟はあるな?」
「はい!」
「シャルルなんかに負けたら末代までの恥じゃ。デニス、アイリーン、気を引き締めてドレス作成に取り掛かるぞ!」
「はい!」
デニスは元気よく拳を突き上げた。対するアイリーンは、溜息で返事を返すのみ。全く面倒なことになったと、アイリーンはすっかり意気消沈していた。