第三話 病は日常から

138:無自覚のうちに


 詰所による前に、アイリーンは達は洋菓子の店によって、焼き菓子を購入した。お世話になったのだから、手ぶらでは行けまい。
 アイリーンは夕焼けを背景に、詰所の門の前に立った。例によって、彼女は門番ににこやかに微笑み――ただし人によって怯えさせる可能性あり――難なく中に入れてもらった。女人禁制という文字は、アイリーンを前にしてしまっては、もはや何の意味もなさない。泣く泣く引き下がるしかないのだ。

 大勢の子供連れの女性というのは、詰所内では盛大に目立っていた。といっても、ここ最近でアイリーンのことを直接見たり聞いたりした騎士は多く、彼女がウィルドの家族であることも周知の事実であったので、何か用があるのかと尋ねてくる人もいない。そもそも、無言で周りを見渡す彼女の気迫がすでにすごいので、声をかけづらいというのもある。

 どうせ団長に用だろう……と、騎士達は彼女の視線に見つからないよう、ひたすら気配を消していた。
 一方のアイリーンは、オズウェル、マリウス、レスリーの誰でも良かったが、とにかく三人のうち誰か見つからないかと探していた。もっぱら、病床についていたときに看病してくれたのはその三人だったので、代表してお礼を言うのも一つの手だろう。

「あそこにいるの、オズウェルさんじゃない?」

 フィリップに服を引っ張られ、アイリーンが顔を上げると、確かに井戸の近くに彼の姿があった。しかし何やら真剣な表情でレスリーと話しているところのようで、割って入るのも忍びない。どこかベンチで待っていようか、とアイリーンが思うまもなく、隣から飛び出していくのはウィルドだ。

「団長さん、レスリーさん!」

 アイリーンは思わず片手で顔を覆った。どうしてあの子はああも空気が読めないのか、と。
 しかしこうなってはウィルドのことを放っておく訳にもいかない。弟妹達と共に、ゆっくり彼らの元へ歩いて行った。

「お邪魔してしまってごめんなさい」
「ああ、いえ。大した話でもないので大丈夫ですよ!」

 レスリーは人の良い笑顔で首を振った。

「俺、席を外しましょうか?」
「ああ、いえ、そのままで」

 コホン、とアイリーンは空咳をした。改まって礼を言うのは照れくさいのだ。今日に限って弟たちが後ろにくっついているし。

「先日はどうもありがとうございました」
「すっかり良くなったみたいで安心しました」
「はい、おかげさまで」

 アイリーンは深く頷いた。そうして手に持っていた紙袋を腰元近くまで持ち上げる。

「あと、これを。先日のお礼……といいますか。お世話になりましたから、皆さんでどうぞ頂いてください」
「気にしなくても良かったんだが。……まあ有り難く頂く」

 オズウェルが受け取ったのを見て取り、アイリーンは内心ホッと息を漏らした。これで用は終わったと。後は帰るのみだと。

「あっ、そうだ!」

 ウィルドが余計なことを思い出さなければ。

「ステファンたち、ちょっとこっちに来てみろよ。いいものを見せてやる」
「いいもの? ……変なものじゃないよね」
「失礼な。すっごくいいものだよ。ちょっと来いって。エミリアもフィリップも!」
「…………」

 ステファン、エミリア、フィリップの三人は、ちょっと顔を見合わせた後、駆けていくウィルドの後を追って走り始めた。ウィルドがニヤニヤしているときは、大抵嫌なことが起こるものだが、しかし好奇心には勝てなかったようだ。アイリーンも渋い顔で彼らの後ろ姿を見送る。

「なんだか嫌な予感がするんだけど」
「別に変なものでもない」

 これがウィルドの人徳か、とオズウェルは苦笑しながら応えた。

「単なる秘密基地だ」
「……秘密基地?」

 一層嫌な予感しかしなかった。秘密基地と言えば、第一王子であるカインと共に誘拐に巻き込まれた際の事の発端ではないか。

「詰所で秘密基地を作ってるの? 邪魔にならない?」
「もしまた秘密基地を作りたいのなら、いっそのことここでやってくれと言ったのは俺の方だ」
「そうなの?」
「ああ。抑圧すればするほど反発するのが子供だろう。それなら、大人の目もあるここの方がずっといい。……それに」

 オズウェルは目を細めた。

「カイン殿下が来られるときもある。いい気分転換になってらっしゃるようだ。見逃してやってくれ」
「……まあ、危険がない場所でやるのならいいんだけど」

 そう言われてしまえば、もう苦言も口にできない。
 アイリーンは緊張を解いてまた前を向いた。

「でも、詰所で秘密基地って、そのことみんな知ってるのなら、もう秘密でも何でもないような気がするんだけど」
「……そこは触れないでやってくれ」

 神妙な顔で言うオズウェルに、アイリーンもそれ以上は言及しなかった。ウィルドのことだ、先のことを口にしたら、今初めて気がついた、といわんばかりの表情で、やっぱり他の所に作ると言い始めそうだ。

「そういえば、皆さん荷物たくさん持ってましたけど、今日は買い物でもしてらしたんですか?」
「ええ、まあ。久しぶりに皆が揃ったから」

 レスリーの問いに答えながら、アイリーンはハッと思い至った。一言オズウェルに行っておかなければならないことがあったのだ。

「ステファンたちに私が倒れたって知らせたの、あなただって聞いたんだけれど」

 不信感たっぷりの目でオズウェルに問う。一応このことはエミリアたちにも確認済みだが、実際に本人に聞いてみなければ。
 アイリーンの心境とは裏腹に、オズウェルはあっさりと頷いた。

「まずかったか?」
「まずいわよ!」

 アイリーンは大げさに首を振ってみせた。

「倒れたと言っても、そんな大した病気でもなかったし……。にもかかわらず、みんなに責められたのよ? 部屋が汚いだとか、不摂生がたたったんじゃないかとか、ステファンにいつも以上に口うるさく言われるし」
「いや……珍しく弱気だったから、子供たちに会えば元気になるかと思ったんだが」
「う……」

 アイリーンは言葉に詰まり、押し黙った。確かに、彼らのおかげで今まで以上に元気になったことは否めない。だが、しかしそれを認めてしまっては、立場がなくなるじゃないか!
 何も、アイリーンは自分が小言を言われたくないからと、こんなことを言っているわけではない。自分の病気一つで、子供達ががそれぞれ無理に言って休みをもらってきたことの方が問題なのだ。まだ彼らは新しい環境に身を投じたばかりで、休みを取ることは難しいはずなのに、迷いなく帰ってきてくれた。その気持ちはもちろん嬉しいが、姉として、彼らのその強行は見逃すことは出来ないのだ。

「と、とにかく、その、今後同じようなことがあっても、できれば弟たちには知らせないで欲しいの。一人でなんとか出来るし」
「倒れて早々誰が看病したと思って……」
「そ、それについては感謝してるけど! でもあの子達に余計な心配はかけたくないし、だらしないところも見せたくないのよ」
「そんなものか……?」

 もう十分だらしないところを見せているような気がしたが、オズウェルは黙っていることにした。
 それからしばらく、三人で穏やかに世間話などもしてみたが、しかしその間、なかなか子供達は帰ってこない。しびれを切らして迎えに行こうか、とアイリーンが思い始めたとき、ようやく弟妹達が姿を現した。のんびり手を振る彼らを、なんとも言いがたい表情で見つめる。

「遅くなってすみません」
「秘密基地はどうだったの?」

 アイリーンの純粋な問いに、ウィルドを除く三人は視線を交差させた。

「……まあ、ちょっと見直しました」
「そんなにすごかったの?」

 代表してステファンがそう口にしたが、エミリアたちが否定しないと言うことは、やはりそれは皆の総意なのだろう。フィリップはともかく、ステファン、エミリアまでもそう言わしめるとは、よっぽどの出来だったに違いない。アイリーンは少しばかり興味を引かれた。だが、ここでまた見に行ってしまっては、帰るのがどんどん遅くなってしまう。

「ね、今日の夕食はどうするの? もう遅いけど」

 アイリーンが何か言うよりも早く、ウィルドがそう口を開いた。彼の腹時計は相変わらず時間通りだ。

「夕食もさ、どこかの店で食べてもいいよね。今から帰って作るんじゃ時間もかかるし」
「でも、下ごしらえは朝のうちにやってきたから、そんなに時間はかからないけど」
「でもでも、疲れてんのに夕食作るのは面倒だろ?」
「朝のシチューに改良を加えようと思ってたから、むしろ楽しみなくらいなんだけど」
「むっ!」

 料理が大好きなエミリアは、これでなかなか手強い。
 ウィルドは次にアイリーンに狙いをつけた。エミリアにもの申せるのは彼女しかいないのだ。

「折角みんなが揃ったんだしさ、今日くらい豪勢にいってもいいんじゃない?」
「豪勢、ねえ」

 アイリーンは顎に手を当てて考えてみた。確かに、彼の言うとおりではある。しかし、今日だけでたくさんのお金を使ってしまったこともまた事実。外食はたまにするからおいしいのであって、一日に二度もするようでは、飽きがきてしまう。

「よし」
「おっ?」

 アイリーンが大きく頷いたので、ウィルドの瞳は期待に輝く。

「今日の所はもう家に帰りましょう!」
「ええ……」

 ウィルドは一気に脱力したが、結果が見えていたステファンは、苦笑して彼の肩に手を乗せた。

「また今度の楽しみにとっておけばいいよ。それに、休日くらいはエミリアのおいしい料理を食べたいしさ」
「兄様……」
「王宮での修行の成果、見せてほしいな」

 純な瞳で見上げるフィリップ。どんどん高まっていく期待に、エミリアは唇を尖らせた。

「あまり期待しないでよ……。わたし、まだ見習いだから、洗い物とか皮むきくらいしか任せてもらえないんだから」
「でもエミリアのことだから、こっそり料理長の秘伝の技とか盗んでるんじゃない?」

 からかうようにステファンが問うと、エミリアはしばらく考えた後、ゆっくり頷いた。

「……まあ、ね」
「さすがエミリア!」

 煽てるように拍手されれば、エミリアも悪い気はしない。
 だが、和やかな雰囲気になったところで、堪らずウィルドが零した。

「確かにエミリアの料理はおいしいよ。でも……たまには外食だってしたいじゃん。……ほんっと、師匠はいつもケチなんだから」
「何か言った?」

 ボソリと呟かれた言葉に、アイリーンは瞬時に反応した。ウィルドは愛想笑いを浮かべながらぶるりと背筋を伸ばした。

「でも、ウィルドの言うことにも一理あるような気もしますけど」

 考え込むようにしてステファンは言った。

「僕ら、みんな家を出て手がかからなくなったわけですから、前ほど躍起になって節約することもないんじゃないかと思って」
「そーだそーだ!」
「…………」

 この賑やかな子爵家の会話をすぐ側で聞いていて、オズウェルはなんとなくアイリーンが不憫に思えてきた。家族のためを思っての節約主義なのに、こうもケチケチ言われては、立場もないだろう。……先日、病み上がりの彼女から弱音を聞いたからなおさらのこと、気の毒に思えて仕方がない。確かに、彼女のドケチぶりは、時に目に余ることもあるが、しかしそれはひとえに家族のためを思ってのことであって――。 
 不意に、ステファン越しに、アイリーンとオズウェルの目が合った。思案に暮れるあまりアイリーンをじっと見ていたオズウェルは慌てた。だが、彼女は彼に対して何やら行動を起こすわけでもなく。
 ただ、目を細めて、やけに嬉しそうに笑っただけだった。

「えっ……」

 しかしそれも一瞬のことだった。オズウェルがそれに対して反応を返す間もなく、アイリーンは視線をそらし、再び子供たちに目を向けていた。

「大切なことに使いたいから、お金は節約するに越したことは無いのよ!」

 そう拳を握って力説する。呆然とするオズウェルを差し置いて、ウィルドは疑り深い目になった。

「大切なこと? 変なこと企んでるわけじゃないよね?」
「失礼ね。とっても大切なことよ!」

 拳を握って、とにかく大切なこと、と口にするアイリーンに、ステファンたちは胡散臭そうな視線を向けた。アイリーンはそのことには気づかずに、オズウェルたちの方を向き直る。

「とにかく、この辺りで失礼するわ。早く帰らないと暗くなっちゃうし」
「団長さん、レスリーさん、またね!」

 アイリーンが頭を下げると、それに倣って子供達も手を振る。
 先ほどまでグズグズと話し合っていたくせに、去り際はまるで台風のようだ。オズウェルとレスリーは半ば茫然と見送った。

「ほーんと、あの人って変な方ですよねえ。黙ってたら美人なのに、どうしてああも言動が残念なんでしょう」
「……そうか?」

 レスリーが思わずといった風に呟く。オズウェルの口は、無意識のうちに動いていた。

「可愛いじゃないか」
「……え?」

 二人の間に、一陣の風が吹く。その一瞬の間で、オズウェルはようやく自身が口走った言葉の意味に気がついた。

「――っ」
「……!? どうしたんですか、団長?」

 突然その場にしゃがみ込んだオズウェルに、レスリーが慌てて声をかけた。

「……いや、何でもない」
「でも体調が悪いのでは……」
「あー、……いや」

 ほとんどレスリーの声など耳に入っていない様子で、オズウェルは呆然と片手で顔を覆っていた。

「あー……」
「何ですか、団長。さっきから」
「いや、何でもない」
「はあ?」

 絶対に何でもないわけがない。
 レスリーの視線はいよいよ不審なものを見る目へと変わっていく。

「先に行ってくれ。しばらくしたら行く」
「は、はあ……。では失礼します」

 どうしたんだろう、と純粋な疑問を胸に抱えながら、しかし従順に彼はその場を立ち去った。触らぬ神に祟りなし。そんな言葉が浮かんだのだ。
 一方、オズウェルはというと、彼は未だ、しゃがみ込んだ状態のまま落ち込んでいた。いや、落ち込んでいると言うよりは、戸惑っているといった方が的確か。

「信じられないな……」

 オズウェルは思わず呟く。
 自覚はした。ようやく、この瞬間に。しかし、未だに信じられない。

「はあ……」

 目をつむると、その脳裏に浮かぶのは先ほどの彼女。
 この前はあんなに落ち込んでいたのにとか、本当に弟たちが大好きなんだなとか、いつもは仏頂面の癖して、あんな風に笑うこともあるんだとか、とにかく色々な感情が巡り巡って、ついあんなことを口走ってしまったのだ。そうしてようやく自覚した。
 いつの間にか、自分は彼女に囚われていたのだと。
 今までだって、きっとその片鱗は出ていたのだ。自分が気づかないだけであって。
 その数々の兆候を見逃した今、オズウェルにとっては、もはや『納得』という言葉しか当てはまらなかった。

「あー……」

 悔しいような、恥ずかしいような。
 嫌な気はしなかった。いや、むしろこの高揚感にも似た思いは、心地よくすらも感じられる。だから一層悔しいとでも言うべきか。

「はあ……」

 なぜだかため息ばかりついてしまうオズウェル。
 だがそれも仕方がない。もう引き返せないくらいに育ってしまったこの感情――どうしてもっと早く気がつけなかったのかと、自分が情けなくてしようがなかったのだ。
 まさか、自分が自覚もなしに恋に落ちていたなんて。
 いや、恋なんて可愛らしいものじゃない。まるでこの身を滾らせる毒でも飲んでしまったかのように、身体が熱い。

「はあ……」

 もう何度目かも分からないため息をオズウェルは吐き出す。
 そしてまた、何度目かも分からない彼女の顔を思い浮かべた。