第三話 病は日常から
135:数ヶ月ぶりの
朝宣言したように、夕方になると、アイリーンは自分の家に帰っていった。相変わらず人の気配のない静かな子爵家ではあるが、不思議と、アイリーンはあまり寂しく感じられなかった。
手早く一人分の夕ご飯を作ると、そのままちゃっちゃと食べて、早くにベッドに入った。やるべきことはたくさんあるが、まずはしっかり体力をつけて、明日から臨もうとの考えだった。
*****
数日間ずっと寝込んでいたせいか、昨日は早くに寝たせいか、次の日、アイリーンは早くに目が覚めた。そしてベッドの中で彼女がまず考えたのは、何から片付けていこうか、という悩みからである。
ドロシアからは、約一週間の休みをもらっている。三日間病気に伏せっていたので、残り四日。何から片付けていくべきか。ここ十日ほど家に全く帰っていなかったので、畑の世話をしたり、家の掃除をしたり。日用品や食料も買わなくてはならない。
「…………」
思ったよりもやることが多くて、アイリーンはげんなりした。暇な一日をどう過ごそうか悩むのではと思っていたが、実際は、面倒なことを一つ一つ処理していかなくてはならないようだ。
とりあえず、こうしていても仕方がないと、アイリーンはのそのそ起きあがり、着替え始めた。小うるさいステファンやエミリアがいないので、昼過ぎまでダラダラと寝ることもできる。しかし、そうまでしてだらけてしまうと、いよいよ人間としての尊厳を失ってしまう。
手早く様相を整えると、アイリーンはゆっくり階段を降り始めた。体調は万全ではあるが、まだ寝起きでボーッとしている中、一人屋敷の中で階段を転げ落ちたくはないのだ。
だが、その途中で、アイリーンの足はたと止まった。同時にふんふんと鼻を鳴らす。……どこからともなく、良い香りがするような気がした。懐かしいような匂い――。
「あ、おはようございます」
居間の扉を開けると、彼女を出迎えたのはステファンだった。なんてことない表情で、軽ーく挨拶を口にする。
「お……はよう」
「今日は早いんですね。てっきり昼まで寝ているものと思っていましたが」
「なあ、朝ご飯まだかよー。俺今日まだ何も食べてないんだぜー?」
「ちょっと待ってよ。わたしだって朝一でこっちに来たんだから、仕方ないでしょう」
「手伝うよ」
「ありがとう、フィリップ。ウィルドなんかとは違ってよくできた子だわ!」
「はいはい、出来が悪くて悪かったなー」
いつかみたような光景。アイリーンは呆然としたまま、未だ居間の入り口で突っ立ったままだった。それに気づいたエミリアが、純真な笑顔を向ける。
「姉御! もうすぐシチューできますから、座っていてくださいね!」
「はあ……」
「あっ、そうだ師匠! 俺がいないからって、畑の世話全然してなかっただろ!」
ソファに寝そべっていたウィルドが、パッと起き上がった。アイリーンは二重の意味で驚き、肩をはねさせた。
「え? あ、ごめんなさい……。ここのところちょっと忙しくて」
「俺たちがいないからって、だらけようったって、そうはいかないからな!」
「別にそんなつもりは……」
「ウィルドの言うとおりですよ」
姉の言葉を遮り、珍しくステファンが弟に同意する。
「全く、この家だって何週間掃除してないのか、随分埃が溜まってましたし。朝からフィリップと一緒に掃除したんですからね?」
「ごめんなさい……」
肩身の狭さにアイリーンが身をすくませていると、ステファン越しに、困ったような顔のフィリップと目が合う。――アイリーンは余計縮こまった。
「僕たちがいないからって、だらけないでください!」
「はい……」
大人しく返事をするアイリーン。だが、すぐに持ち直すと、おずおずとを上げた。
「どうして……あなたたちがここに?」
きょとんとした八つの瞳がアイリーンに向けられる。彼らは順々に口を開いた。
「オズウェルさんから聞いたんです。姉上が倒れたって」
「それを聞いたときは、ええっ、あの師匠が!? って思ったけど、ただの風邪だったんだってね! 全く、びっくりさせるよ」
「メイド長にお話ししたら、休暇を頂いたんです。ですから、今日の朝一にこちらに来ました」
「僕も、急いで様子を見に行った方がいいって、バトラムに言われて」
「でももう元気そうじゃん。心配して損したよー」
あっけらかんと言うウィルドに、少しばかりアイリーンは唇をとがらせた。
「結構熱だって出たんですからね」
「でももう治ったんでしょ? 本当、師匠は昔から身体が丈夫だよね」
「今回体調を崩したのも、一人暮らしで不摂生をしていたんじゃないですか?」
「そ、そんなことないわよ!」
あまりの自分の人望のなさに、アイリーンは次第に泣きたくなってきた。どうして久しぶりに家族が集合したというのに、小言ばかり聞かなくてはならないのか。
「シチューが出来ましたー! 姉御、早くご賞味ください!」
「待ってましたー!」
アイリーンが何か言うよりも早く、ウィルドはテーブルに飛びついた。ちゃっかりもうスプーンまで準備している。エミリアは呆れた顔になった。
「始めは姉御によ。ウィルドはその後」
「ケチケチすんなって。誰が最初でもいいじゃん」
「わたしが良くないの! さ、姉御、どうぞ」
ウィルドの不満の声をよそに、皆が注目する中、アイリーンはすっとシチューに口をつけた。一体何ヶ月ぶりだろうか。エミリアがまだ家にいた頃は、一月に一回は出されていたシチュー。見るだけで胸焼けするようになりつつあったそれは、涙が出るほどおいしかった。恥ずかしいので、そんなことアイリーンは口にしなかったが。
「ええ、おいしいわ」
「本当ですか!」
「じゃ、俺も頂きまーす」
のんきに待っていられないとばかり、ウィルドは自分でシチューをよそうと、勝手に食べ始めた。
「うん、うまいうまい。やっぱり食堂のご飯よりもエミリアのが一番だ!」
「ウィルドはなんでもおいしく感じるんじゃないのー?」
「そんなことないって!」
ウィルドはお世辞を言う性格ではないが、しかし何でもよく食べる彼のこと、エミリアが自然疑い深い表情になるのも仕方あるまい。ステファンは笑って助け船を出した。
「ウィルドの言うとおりだよ。食堂のご飯を食べてると、エミリアのご飯が恋しくなる。なんだかんだ言って、僕らの好みをバッチリ理解してるのもエミリアだしね」
「うん。料理長もバトラムも、またエミリアと一緒に料理がしたいって言ってた」
「本当?」
エミリアは嬉しそうに笑うと、皆の分のシチューもよそい始める。その頃には、ウィルドももう食べ終わっていて、我先にと椀を彼女に差し出していた。いつもならば、自分でよそって! と突っぱねるエミリアだが、今回ばかりは機嫌がいいのか、微笑さえ浮かべながらウィルドにシチューをよそっていた。
「折角みんな揃ったんだし、どこかに遊びに行こうぜ」
シチューをお腹いっぱい食べ、ようやく人心地ついたのか、機嫌良くウィルドはそう提案した。
「どこかってどこに?」
「あ、そういえば、休暇を取る時に聞いたんですけれど、今日はサーカス団がやって来ているらしいですわ」
「サーカスかあ。大道芸とはまた違うの?」
「大道芸は、突発的に路上でやるものだけど、サーカスは各国をまわって上演されてるから、規模が違うんじゃないかな?」
「そっかー。確かに、サーカスはあらかじめ入場料がいるもんな……」
言いながら、ウィルドの目はチラチラとアイリーンへ向けられる。それが一つ、二つと増えていく。言わずもがな、エミリア、フィリップである。
「ま、今日くらいはいいでしょう」
若干誇らしげにアイリーンは言った。途端に子供たちはわっと歓声をあげる。
「やったー!」
「じゃあ早速食べ終わったら行こうぜ!」
一層ウィルドの食べる速度が速くなる。ウィルド一人が早く食べ終わったとしても、早く遊びに行けるわけではないのだが、そこは単純な彼のこと、そこまで思い至ることは出来なかったようだ。
ウィルドが急かす中、ようやくフィリップが食べ終わり、皆は揃って街へ出かけた。