第三話 病は日常から

134:悩み事


 病に倒れたその日から約二日、アイリーンは床に伏していた。その間、時折オズウェルやマリウス、レスリーが交代で世話をしてくれ、アイリーンはまさに病人様々だった。
 未婚の女性が幾人もの男性に看病されるなんて……! とステファンならば絶望の表情をしてそう口にしただろうが、しかし彼はここにはいない。そもそも看病といっても、時折食事と水を運ぶだけの仕事である。風邪で苦しんでいたのも初日だけで、次の日には、部屋から出はしないものの、一人で食事をとることができたし、悪態をつくことだってできた。
 部屋が殺風景だとか、冷たいものが食べたいだとか、何か面白いことをしてほしいだとか、女人禁制であるにもかかわらず、詰所はとにかくアイリーンの独擅場となっていた。
 詰所滞在三日目にして、ようやくアイリーンが部屋から出てきたときは、オズウェル含むマリウス、レスリーはホッと胸をなで下ろしたくらいだ。

「もう大丈夫なのか?」

 訓練から一時抜けだし、オズウェルはアイリーンにそう尋ねた。訓練場の隅のベンチに腰掛け、ぼんやりと涼んでいるところのようだ。

「ええ、昔から身体は丈夫な方なのよ。ありがとう」

 アイリーンはわずかに微笑んでそう言った。いえ、まだ身体の調子が……と言って、隣の彼を困らせることもできるが、さすがに恩義を感じている身で、そのような恩知らずなことは出来なかった。

「夕方には家に帰るわ。畑の水やりもしなくちゃだし」
「念のため、もう一泊した方が良いんじゃないか?」
「もう大丈夫よ、本当に。いつまでもここにいたら府抜けちゃうもの」

 今のアイリーンにとっては、子爵家よりもこの詰所の方が居心地が良かった。何もせずともご飯が出てくる――しかも無料である――だけでなく、いつも周りに人がいて、話しかけてくれる人がいて。
 思った以上に、一人暮らしは寂しいものなのだ。たとえ男だらけの詰所だとしても、人っ子一人いないおんぼろ屋敷よりはずっと居心地がいい。

「何か……悩み事でもあるのか?」

 アイリーンが遠い目で黙り込んだのを見て取ると、オズウェルは、言い難そうにそう口にした。まるで奥歯に物が挟まったかのような物言いに、アイリーンは目を丸くした。

「珍しいじゃない、そんなことを聞いてくるなんて」
「お前の方こそ。この前から……ずっと大人しいじゃないか。やけに静かだし」

 アイリーンは複雑な心情で押し黙った。
 アイリーンとしては、着替えがほしいだの、甘いものが食べたいだの、いろいろと注文をつけたことは記憶に新しいので、それが大人しいと評されるのは、いささか心外でもあった。いつもの自分は、一体どれだけ注文をつけると考えているのだろうか。

「…………」

 ただ、アイリーンの方も、彼に大人しいと評されるだけの自覚はあるにはあった。ただ、元気がないと思われないように、いつものように振る舞っていただけであって。
 そのこと自体もアイリーンは心外であった。単にオズウェルの観察眼が鋭かっただけか、それとも、傍から見ても分かるほど、自分は分かりやすかったのか。

「別に……悩み事というほどのことでもないんだけど」

 アイリーンはおずおず口を開いた。まさか自分が誰かに悩み事を明かすなんて……! と、アイリーンは自分でも驚いていたが、内心では、いい加減疲れてもいたのだ。一人で鬱々と溜めこんでいることに。

「子供はいつか巣立つものっていうのは分かっているのよ。ただでさえ男の子は三人いるし、エミリアだってしっかりしているから、いつか家を出て行くであろうことは理解していたのよ。でも……その時期が思ったよりも早く、しかも四人一気にってなると、いささか気持ちが追いつかないというか……」
「要は、寂しいということか?」

 余計な一言である。まさにその通りなのだが、故意に明言しなかったのは、アイリーンにも矜恃というものがあるからだ。それをこのオズウェル、なんてことない表情で吹き飛ばして見せた。
 アイリーンはすんでの所で噛みつきたくなるのを堪え、苦渋の表情を浮かべた。

「――そうとも言うのかしらね。でも問題はそこじゃないのよ」

 手慰みに、アイリーンは組んでいた両手を組み替えた。

「自分が情けないの。家を出て行く自分たちの方がよっぽど不安で溜まらないだろうに、フィリップやエミリア、自分のことじゃなくて私のことを心配してたの。私なんか、ただただ寂しいって独りよがりなことばかり考えていたのに。エミリアなんか、私一人でやっていけるかって、小言ばかり言うのよ。絶対に自分の方が大変なはずなのに……。本当、変なところがステファンに似ちゃって」

 呆れたような、自嘲のような笑いがアイリーンの口から漏れる。
 一体、いつから自分が弟妹たちに気遣われるような存在になってしまったというのか。本当は、逐一自分が頼れる存在にならなくてはならないのに。
 一人一人家を出て行く弟妹たちを見て、アイリーンは一抹の寂しさとともに、自分という存在価値まで失われていくような、そんな感覚を抱いていた。

「自分が情けなくて」

 アイリーンは再度同じことを言う。

「私、もうあの子たちに何もしてあげられない……」

 もう私は必要ないのだろうか。
 今まで「家族」に心血を注いできたアイリーンは、いざ弟妹たちがいなくなると、途端にもろく崩れ落ちる……ただそれだけの存在だったのだ。
 家族がいないと、私はこんなにも「私」が分からない。

「何のために頑張ってるんだろうって思って」

 ここまできて、未だ独りよがりなことを考えてる私って。
 アイリーンは自嘲の笑みを浮かべたが、口が止まることはなかった。

「今まで頑張っていたのは、全部無駄だったのかしらって。五人もの家族が暮らすには、たくさんのお金が必要だし、勉強もしっかりさせてあげたいし、いい結婚もさせてあげたいし。そうなると、やっぱりお金は大切で、節約ばっかりしてて。でも急に皆いなくなっちゃったら、後に残るのは、使い道のないお金ばかり」

 言いながら、アイリーンは募る後悔に唇を噛みしめていた。
 まだ幼い弟妹たちに我慢させてばかりいた過去の自分。こんなことになるのなら、もっと思う存分食べさせてあげれば良かったとか、玩具や服をもっとたくさん買ってあげれば良かったとか、旅行に出ていろんなものを見せてやれば良かったとか。
 普通の子供らしい贅沢をずっと我慢させていたのは、他でもないアイリーンだった。
 いつ何時ものが全てなくなってもいいように、いつ何時飢えが来てもいいように、節約に執着していたのは全て自分自身のトラウマのせいであって、ステファンたちには何の関係もなかったのに。
 言いたいことを言い終えて、アイリーンはどこか疲れたように目を閉じた。話すことに集中するあまり、瞬きをほとんどしていなかったのだ。一瞬で暗くなる世界の中、遠くの方からオズウェルの声が聞こえた。

「俺は……何をそんなに悩んでいるのがよく分からないが」
「…………」
「お金が必要になるのは、何も進学だけじゃないだろ? 病気にかかったら治療費が必要だし、生活費だって必要だし、当主になったステファンを支えるためにも資金はあるにこしたことはない。子供たちがたまの休日に帰ってきたら、貯めたお金で盛大にもてなしてやることもできるし」

 アイリーンは難しい顔で黙り込んだ。言われてみれば、確かにそうだ。莫大なお金がかかる進学費用ばかりが頭の中を占めていたが、その他にもお金が必要になる要素はたくさんある。

「それに何より、結婚のためにお金は貯めておかないといけないだろうし」
「……結婚? 誰の?」
「お前も、そして弟たちの結婚もだ」

 オズウェルはしごく当たり前のような顔で言った。

「基本的に結婚式は男性側の資金で挙げるものだろうし、女の子には持参金だって必要だ。もちろん、その頃にはエミリアも一人前になって稼いでいるだろうが、家族として、妹の結婚生活の足しになるような資金が少しは用意できたら、誇らしく見送ることもできるだろ?」

 確かに。
 頷きはしないものの、アイリーンは納得して聞き入った。

「子供たちが本当に手がかからなくなるそのときに、大手を振って見送ればいいじゃないか。それまで、まだまだお前は必要とされると思うが」

 アイリーンは急に目の前が開けたような気分で、ポカンと小さく口を開けてオズウェルを見つめていた。しかしすぐに我に返ると、照れ隠しのように唇を歪めた。

「何言ってるのよ。エミリアの前に、まず私が結婚しないと」
「もちろん、自分自身の持参金のためにも節約しないとな。ま、そのためにはまず相手を見つけないとだが」
「余計なお世話よ……」

 からかうような口調に、アイリーンはしかめっ面を返した。

「……でも、ありがとう。気が楽になったわ」

 小さく笑うと、アイリーンは再度目を閉じた。時折聞こえる鳥のさえずりや、木の葉のこすれる音。久しく聞いていなかった自然の音に、アイリーンも次第に心を落ち着かせていった。

「私が今までやってきたことは、無駄じゃなかったのね」
「当たり前だろ」

 淡々と発せられたその言葉に、アイリーンは不意に目頭が熱くなったような気がした。