第三話 病は日常から
133:元気のない彼女
数日間降り続いていた雨が止み、灰色の雲の隙間から、時折太陽が顔を出すようになっていた。
アイリーンはその様をカーテンの隙間から眺め、長い長い息を吐き出した。
「雨、止んだか?」
「ああ、はい。止みました」
ズズッとコーヒーを飲みながら、洋裁店店主ドロシアは、椅子にゆったりと腰掛けた。
「ここ最近はずっと雨だったからの……。ようやく鬱々とした気分が晴れるわい」
「そう……ですね」
アイリーンは心ここにあらずといった様子で頷く。ちっとも同意している雰囲気ではない彼女に、ドロシアは片眉を挙げて彼女を見やった。
「一週間も家に帰らず……弟たちも心配しているじゃろ。雨も止んだことだし、今日あたりそろそろ家に帰った方がいいんじゃないかね」
「あ……そ、そうですね」
アイリーンは曖昧に笑い、そして俯いた。
ドロシアはまだ知らないのだ、弟妹達が全員家を出てしまったことを。
フィリップが本格的に公爵家で暮らすようになってから数日後、エミリアもまた、後を追うようにして家を出て行った。出て行った、と言っても、彼女の帰る場所は子爵家であることに変わりはないし、単に彼女が寝泊りをする場所が変わっただけのことだ。それでも、アイリーンは寂しかった。
五人で住むにしても大きかった屋敷が、今では一人でだ。
自室と居間以外、ほとんど使われないので、埃がたまっていくばかりだし、一人で十分過ぎるほどの畑の収穫は、アマリスやドロシアに分けたりしている。四苦八苦しながら作った料理は、静かな居間にて一人で食べているし、まずいだのやっぱり料理はエミリアじゃなきゃだの、文句を言う輩もいない。そして何より、家に帰っても、誰も迎えてくれる者はいない。
それは、久しぶりに家に帰る今日とて同じこと。
アイリーンはそう思うと、自然と表情が暗くなっていった。
「馬車も呼んでおいた。早く家に帰りな」
そんな彼女の機微に気付いたわけではないだろうが、些かドロシアが気遣わしげに言った。一瞬アイリーンは固まってしまった。
「ば、馬車……? ドロシアさんが、私のために?」
「なんじゃ、何かおかしいか?」
「……おかしすぎます、ドロシアさんがそんな優しいことをしてくださるなんて」
「馬鹿にすんじゃないよ! わしだってこれくらいやるときゃやるわい!」
ドロシアはちっと舌打ちをした。実際には、いつもより元気のないアイリーンを心配して、デニスが助言をした過程あっての出来事なのだが。もしもデニスがいなければ、アイリーンの様子がいつもとは違うことすら気が付かなかっただろう。
「ほら、しばらく休みあげるから、その間せいぜい養生しときな」
「ありがとうございます……」
僅かに笑みを浮かべ、アイリーンは頭を下げる。珍しく大人しいアイリーンに、ドロシアは何度も皮肉を言おうと口を開け示したが、結局そっぽを向くだけに留めておく。
「あ、馬車が来たみたいですよ!」
デニスの明るい声が響き、アイリーンも帰り支度をし始めた。といっても、大した量はないのだが。
「アイリーンさん、お疲れ様でした。しばらくゆっくり休んでくださいね!」
「ええ……。ありがとう」
全力で手を振るデニスに、アイリーンは笑みを返し、扉を閉めた。
御者のかけ声により、馬車がゆっくりと動き出す。始め、アイリーンは小窓から外の景色を覗いていたが、やがて疲れて正面に向き直った。
なんとなく、身体がだるい気がした。額に手を当ててみれば、どことなく熱いような気がした。
風邪気味なのかしら。
アイリーンはボーッとする頭でそんなことを考えていた。そして唐突に思い出す。家には、薬どころか、食料すらもないことを。
厳密に言えば、畑に行けば多少の食料は手に入る。だが、それだけでは栄養をとることはできないだろう。それに、おそらく今自分は風邪気味だ。これからもっと具合が悪くなることを想定して、数日分の食料も備蓄しておかなければ。
「あの、ここで停めてもらってよろしいですか? 少し買い物がしたくて」
アイリーンは、御者台に続く窓に向かって声をかけた。御者は首をちょっと傾げ、アイリーンの声が聞こえていることを示した。
「買い物、ですかい? しかし、この辺りには馬車を停められるような場所はないんですがねえ。その買い物は長くなるんですかい?」
「はい、たぶん……」
ううん、と御者は困ったような声を上げる。確かに、この辺りは人通りが多く、馬車を停めるにしても、ここから少し離れた場所に移動しなければならない。目的地から目的地へ人を運ぶ役目の彼に、あまりわがままを言う気にはならなかった。
「じゃあ、ここで停めていただけますか? ここで大丈夫です」
「え? いや、しかし……」
「私の家も、もうすぐですから。ありがとうございました」
困惑したような御者にちょっと頭を下げると、アイリーンは重い身体を動かして歩き出した。本当は、このまま馬車に乗って家まで送ってもらいたいところだが、もし風邪が長引いた場合、看病人が誰もいない中で、屋敷で一人餓死、なんてのは笑えない。
一度ベッドに入ったら、きっともう動けない。
なら、少しくらい風邪が長引いても大丈夫なように、数日分の食糧と、薬も買って。
「あ……ごめんなさい」
ボーッとして歩いていたせいで、アイリーンは人とぶつかってしまった。相手は舌打ちをして去って行く。なんとなく足取りが重いので、アイリーンは一休みするため、広場の噴水に腰掛けた。
あと……何か必要なものはあったかしら。
ああ、お客様用の紅茶が切れていたかしら。……でも、やっぱり必要ないわね。どうせもう家には誰も訪ねてこないのだから。
ウィルドがいなくなって、ウィルドの友達が家に遊びに来ることもなくなって。ものを壊す厄介者がいないのは嬉しいことだけれど、ウィルドがいないだけで、こんなに家が静かになるなんて思いもしなかった。エミリアのおいしい紅茶を飲むこともなくなったわ。以前は月に数回はシチューの日があってうんざりしていたけれど、それももうなくなって、今はあの味が少しだけ懐かしい。フィリップがいないせいで、家はいつも汚いし。今更ながら、あんなに大きい屋敷の掃除を任せきりで、申し訳ないわ。ステファンの小言がなくなったのは清清するけれど、やっぱりちょっと寂しい。
ああ……思考が定まらない。
アイリーンは下を向いて固まった。
何を考えていたんだっけ。
「――?」
肩に手を置かれた。知り合いだろうか。聞いたことがあるような、ないような気もする。
「――――」
その誰かが、何やら語りかけてくるが、何を言っているのかまでは分からない。低い声がだんだん遠くなる。そのときにはもう意識を手放していて、ゆっくりアイリーンの身体が前のめりになっているところだった。
「――!」
焦ったような声が辺りに響いたが、アイリーンの耳に入ることはなかった。
*****
目を覚まして一番に飛び込んできた天井は、見慣れた私室のそれではなかった。しかし、それが分っただけで、アイリーンの頭はそれ以上覚醒しない。
ボーッとしたまま、再び心地よい眠りの中へ入り込もうとしたとき、小さくノックの音が響いた。
「……はい?」
首だけ少し回し、ドアの方を見る。躊躇いがちに開いたそこから顔を出したのはオズウェルである。目を丸くして、しばらく彼の顔に見入る。
「ど……うして」
「それはこっちの台詞だ。急に目の前で倒れて、驚かないわけがない」
オズウェルはベッドの側の椅子に腰掛けると、アイリーンに水を差しだした。礼もそこそこに、彼女はそれを受け取る。
「体調が悪いの、気づかなかったのか?」
「いえ……」
気づかなかったわけではないが、買い物もしなくてはならなかったのだ。しかしそれを説明するのも面倒で、顔をうつむけるだけにとどめた。オズウェルも深く追求するようなことはせず、視線を落とした。
「家に知らせてこよう。エミリアやフィリップが心配してるだろう」
「あ……」
アイリーンは小さく声を上げ、すぐに首を振った。
「あの、それよりも、クラーク公爵家に伝言をお願いできないかしら? 数日後にフィリップが帰ってくるんだけど、私、そのときまでに元気になっているか分からないから、延期してほしいって」
「帰ってくるって……今、一緒に住んでないのか?」
「ええ。跡取り修行のために、しばらく向こうに住んでるの」
「分かった。後で使いを出そう。一応エミリアの方にも伝えた方がいいな」
「あ……いえ」
なんとなくもどかしい思いでアイリーンは訂正する。
「エミリアも今家にいないから、伝言は大丈夫よ。ありがとう」
「エミリアも?」
オズウェルは意外そうに聞き返した。
「友達のところに泊まりに行ってるのか」
「いえ、今は王宮にいるのよ。この前、王宮の侍女試験を受けたらしくてね。メイドに合格したらしいから、それで見習いしてて」
「メイドか……。てっきり、俺は進学するものと思っていたが」
「ええ、私もそう思っていたわ。現に試験の勉強もさせていたし。でも、料理を学んだり、仕事がしたいんですって。ステファンやウィルド、フィリップまでも家から出て行って、少し焦ってるんじゃないかって思ったんだけど……。エミリアが決めたことだし、尊重したくて」
口ではもっともらしいことを言っていても、心が追いついていないのが現状である。アイリーンは毛布を握りしめた。エミリアはずっと家にいるものと思っていたのに、あっという間に出て行くことになるとは。
大きな屋敷に一人きり。
今の今まで、ずっと誰かが家にいたからこそ、今の状況は、アイリーンを戸惑わせるには十分だった。
「メイドって、料理も学べるのか?」
アイリーンが黙り込んだのを見て取って、オズウェルが話を繋げる。
「キッチンメイドの方だから、たぶん」
「エミリアらしいじゃないか。料理の腕は抜群だしな」
「そう……そう、ね」
確かに、エミリアらしいといったららしい。エミリアは上昇志向が強いようなので、早いうちに天下の王宮の懐に潜り込み、その技術を我が物とする、と考えれば、彼女ほどふさわしい者はいないだろう。
フィリップにしてもそうだ。子爵家で暮らした期間があったとしても、彼はまかり間違っても公爵家を継ぐもの。いつまでも子爵家でのんびり生活してはいられないだろう。
「じゃあ今家に送っていっても、看病できそうな者はいないのか。どうするこのままここに泊まっていくか?」
アイリーンが返事をするまもなく、オズウェルは自分で頷いた。
「いや、たぶんそうした方がいいな。男所帯に女一人なんて、ステファンが聞けば真っ先に怒り出すだろうが、何かあっても遅い。体調が良くなったら、馬車で家まで送る」
「……ありがとう。そうしてもらえると助かるわ」
アイリーンは小さく述べると、水を飲み干した。冷たい水が喉を通り越してようやく、少しだけ思考が鮮明になったような気がした。