第三話 病は日常から
132:静かな子爵家
「では、見つかる可能性も低いと……?」
詰所内にひどく落胆した声が響く。ショールを羽織った線の細い女性は、そのまま小さく息を吐き出した。そんな彼女の肩に手を乗せるのは、彼女の息子――パトリックである。
「仕方ないよ、母さん。わざわざ落ちた財布届ける方が珍しいし」
「そう……かしら。でも私がパラソルを忘れたときは、わざわざ私の家まで届けてくださった方がいたのよ?」
「それとこれとは話が別……って、母さん! もしかして傘に自分の住所書いてたの!?」
「ええ、そうよ。何か悪かった?」
「悪いも何も……もし変なやつに拾われたらどうするのさ」
「だって……」
パトリックの追求に、コートニーはしゅんと顔を下げた。
「パトリックからの贈り物だったから、無くしちゃいけないと思って……」
「母さん……」
「パトリック……」
「――で、財布の方はどうするの?」
これ以上見ていられなくなって、アイリーンは渋々声をかけた。数分ほど前から純な親子のイチャイチャを見せつけられて、いい加減うんざりしていたのである。始めは真面目に話を聞いていた騎士も、だんだんと遠い目になりつつあった。
「こちらでも受理しましたので、もし見つかれば、こちら側から連絡しますよ」
「そうして頂けると嬉しいわ。ご迷惑をおかけします」
「いえいえ。しかし心当たりはないんでしょうか? どの店に入っただとか、この道を通っただとか、そういった情報があるだけでも有り難いんですが」
「そうですねえ……」
コートニーは、顎に手をかけ、うーんとうなり始めた。
「今日は洋裁店でお洋服を買ったり、大通りで買い物をしました。その後は花屋に行ったり……あ、カフェで一休みもしました」
「随分いろんなところに行ったんですね……」
「はい。久しぶりに外出をしたので、少し気が緩んでいたようで」
「全く、誰かさんがあちこち母さんを連れ回すから」
アイリーンにだけ聞こえる声で、パトリックがボソッと呟いた。アイリーンの頬が少々ヒクついたが、彼女が反論することはなかった。アイリーンとてもう二十二。大人なのだから、子供の戯れ言にいちいち目くじらを立ててはいられないのだ。
「せっかくアイリーンさんがいろいろな所に連れて行ってくださったのに、こんなことになってしまって申し訳ないわ。ごめんなさいね」
「気にしないでください」
「でも今日は本当に楽しかったわ。いつもは体調が悪くなったら大変だからって、パトリックに家に押し込められてばかりだけれど、アイリーンさんに外に連れて行ってもらって……ありがとう。また付き合って頂けるかしら?」
「もちろんです。またお伺いします」
アイリーンはしたり顔でパトリックの方を見やった。パトリックはぐぬぬ、といかにも悔しそうな顔になる。
アイリーンとてまだ二十二。子供にしてやられて、反論はしないまでも、得意げな顔になるのを我慢することはできないのだ。
「では、見つかり次第、ご連絡します」
「はい。よろしくお願いしますね」
「そろそろ帰ろう、母さん。あんまり期待しないでおいた方がいいよ」
「そうね。そうするわ……」
「この世の中には、財布を拾ってもネコババする奴らなんか、山ほどいるんだから」
「…………」
「何だよ」
なんとも言いがたい表情でアイリーンが自分を見つめていることに気づき、パトリックは声を荒げた。
「説教でもするつもりか? もう反省してるって!」
「何も言ってないじゃない!」
妙に勘ぐってくるパトリックに、慌てるのはアイリーンの方である。
「お母さんっ子だなあって思ってただけじゃない」
「はあ? どうせ自業自得だって思ってたんだろ」
「自意識過剰よ……! 誰がそんな意地悪なことを考えるものですか!」
「だっていつも意地悪じゃん」
「何ですって……?」
せっかくここまでついてきたというのに、何という言い草だろうか。アイリーンは額に手を当てた。
「そもそも、最近うちに入り浸りすぎだろ! なんでいっつも俺たちの家に来るんだよ。暇なのか?」
「う……」
直球なパトリックの疑問に、アイリーンは返答に窮した。
「あんまり母さんに迷惑かけるなよ。こっちだって気を遣うし」
「こらパトリック、なんて言い草なの?」
パトリックを小突きながらも、コートニーは首を振った。
「ごめんなさいね、アイリーンさん。この子、あんまり友達いないから、嫌な言い方をしてしまって。でも、こんな言い方していても、この子も嬉しそうなのよ。アイリーンさんや、ウィルド君と会うの。……あら、そういえば最近ウィルド君はこちらに来られないのね。忙しいの?」
「ああ、ウィルドは今騎士団に所属していて――」
「まあ、騎士!?」
コートニーは、口元を手で覆った。
「素敵ねえ。騎士……。きっとウィルド君、格好いい男の子になるんでしょうねえ」
うっとりした顔のコートニーに、アイリーンはどうだろうか、と複雑な顔になる。確かに正義感はあるだろうが、あの野生児だし……と悩んでいると、パトリックが地団駄を踏んだ。
「あいつの話はいいよ! とにかく! 暇だからってあんまりうちに入り浸るなよ! お前が来ると碌なことがないんだから!」
「こらパトリック、お友達にお前とは何ですか」
「友達じゃないよ! ……でもごめん!」
母親相手にはどうも強く出られないパトリック。思わず出てきた言葉を飲み込み、そのまま吠えるようにして謝罪を口にした。もっぱら、パトリックとしては母親に対して謝ったつもりなのだろうが。
――母さんに迷惑かけるなよ。
言葉よりも優に彼の視線がそう訴えかけてくるので、さすがのアイリーンも反省し始めた。
仕事帰りよってみたり、空いた時間に顔を出したりと、少々頻度が多かったかもしれない。
「もう行きましょうか。いつまでもここにいたら申し訳ないわ。もう一度よく財布を探して……」
「もう散々探したから、きっともう誰かに拾われたんだって。それよりも母さん、顔色悪いよ? 早く家に帰ろう」
「でも財布が……」
「母さん――」
「財布?」
背後から、怪訝そうな声が聞こえてきた。一行はふいと後ろを向く。
「その財布というのは、これですか?」
なんてことない表情で、財布を掲げているのはオズウェルである。彼の手には、グレーの財布があった。
「ああ、それです! その財布です!」
コートニーは途端に笑顔になった。
「団長、よく見つけましたね。どこにあったんですか?」
「いや、俺が見つけたんじゃない。拾った女性が、俺に渡していったんだ」
「そうなんですか。本当にありがとうございます」
「……ありがとう、ございます」
コートニーに続いて、パトリックも、複雑な表情で礼を述べた。まるで、財布が手元に戻ってくるだなんて、考えもしていなかったかのような表情だ。
「噴水の近くにあったみたいです。落とし主が見つかって良かった」
コートニーは心から嬉しそうに財布を受け取る。所々にほつれが見られ、お世辞にも綺麗とはいえないが、大切に使っていることがうかがえる。アイリーンとて、彼女の気持ちはよく分かるので、ホッと息をついた。
「これから家に帰るんですか? 馬車を用意させますので、それで送りましょう」
どことなくコートニーの顔色が悪いのを見て取ったのか、オズウェルはそんなことを言った。しかしコートニーは首を振る。
「そんな、悪いです。こちらこそいろいろとご迷惑をおかけして……」
「そ、そうですよ。財布が見つかっただけでも良かったし……」
歯切れ悪く、パトリックまでそんなことを言う。いつもならば、喜々として御願いしているだろうに、一体どういう風の吹き回しだろうか。
「夜も遅いですし、どうぞお気になさらずに」
「でも……」
「お言葉に甘えたらどうですか?」
アイリーンも控えめに言ってみた。あまり身体の丈夫でないコートニーを、今日は一日中連れ回してしまったという負い目もある。後悔はしていないが、もう少し様子を見るべきだったかもしれない。
「じゃ、じゃあお願いします……」
オズウェルとアイリーン、二人に挟まれ、コートニーはおずおずと言った。彼女の言葉にオズウェルは頷き、馬車の手配のために外へ詰所の外へ出て行った。
「……俺、歩いて帰るよ。母さんはそのまま馬車で家に帰らせてもらって」
オズウェルの姿が見えなくなったところで、パトリックはそう口に出した。コートニーは目を丸くする。
「もう夜も遅いのよ? どこに行くの?」
「ちょっと買いたいものがあって……。すぐに帰るから大丈夫だよ」
半ば強引に会話を終わらせる。その後、なおもコートニーは食い下がったが、どうしてかパトリックが首を縦に振ることはなかった。
「ご親切にありがとうございました」
コートニーは馬車に乗り、パトリックはその横で頭を下げ。
わざわざ馬車があるというのに、わざわざ歩いて帰るらしい少年を、オズウェルは当惑しながらも見送った。アイリーンもパトリックとコートニー、二人に手を振る。
「また顔を出すわ」
「また来るつもりかよ!」
すかさず突っ込むパトリックに、アイリーンは満面の笑みを返す。
「馬車、必要だったか?」
二人の姿が見えなくなって、オズウェルはぽつりとそんなことを言った。始めは彼の言っていることが分からなかったものの、やがて合点がいった。アイリーンは凜として首を振る。
「いらないわ。家までそんなに遠くないもの。もったいないし」
「もう遅い。送ろう」
「別に心配いらないわ。仕事で、いつもこのくらいの時間に帰ってるもの」
ツンとして歩き出したアイリーンから一定の距離を置き、オズウェルがついてくる。アイリーンは苦笑いをこぼしたものの、何も言わなかった。
「今日は楽しかったわ」
その代わり、ぼんやりとそんなことを口にする。
「久しぶりにいろんな所に行ったの。たくさん話したし」
「良かったな」
「……ええ」
言葉が途切れると、そのままアイリーンは話題を探すでもなく、静かに歩いた。それは家に着いてからも変わらず、アイリーンはくるりと後ろを振り向くと、言葉少なに微笑んだ。
「送ってくれてありがとう。お礼にお茶でもご馳走しましょうか?」
冗談とも本気とも読めない表情で、アイリーンはそんなことを言った。オズウェルは困惑して苦笑を漏らした。。
「珍しいな。そんなことを言ってくるなんて」
「気が変わったのよ」
澄ました顔でアイリーンは言ってのけた
「折角送ってくださったのに、お茶の一つももてなさないのは淑女として失格だわ」
「残念だが、遠慮しておく。こんな時間に女性の家に上がるのは紳士として失格だからな」
「……そう」
少し寂しそうにも見えたが、気のせいだったかもしれない。次の瞬間には、アイリーンはいつもの彼女に戻っていた。
「女性の顔を立てるのも、紳士には重要事項だと思いますけど。まあ社交辞令だったので、断って頂いて良かったのですけど」
「そんなことだろうとは思ったがな」
負けじとオズウェルも言い返す。二人はしばらく黙して見つめ合ったが、やがてどちらからともなくため息が漏れた。もう時間も遅いのに、一体自分たちは何をやっているのだろうと、急に我に返ったのだ。
「送っていただいてありがとう。お気をつけて」
「……ああ」
アイリーンは軽く頭を下げると、そのまま家の中へ入っていった。オズウェルもそれを見届けた後、おもむろに歩き出す。
――が、数歩と歩かないところで、彼は唐突に振り返った。
目前にひっそりと佇む、子爵家の邸宅。壊れかけの門の近くにある照明灯に明かりが灯っていることなど見たことがなく、一階にずらりと並ぶ窓から明かりが漏れることも数少ない。子爵家の面々は、主に一階の奥の居間で寛ぐことが多いからだ。
いつも節制を掲げているのだから、必要のない明かりは点けないのはいつものこと。それは分かっているのだが――しかし。
子爵家は、いつもこんなに静かだっただろうか?
ふとそんな疑問がじんわり浮かび上がってくるが、やがてオズウェルは首を振ると、きびすを返した。
もしかしたら、子爵家の誰かと喧嘩でもしたのかもしれない。
オズウェルはそう思った。別れ際、やけに元気がなかったのも、エミリアあたりと喧嘩して、そして彼女と会わせる顔がなかっただけかも。ステファンやウィルドも家から出て、仲裁に入ってくれるのもフィリップくらいしかいないのだろう。そう考えれば、合点もいく。
深く考えることもなく、そのままオズウェルは歩き出した。