第二話 二度あることは四度ある

127:遅い帰り


 居間の壁に立てかけられている古時計が、静かな部屋に八時の時を知らせた。アイリーンは今か今かと急いた様子で何度も時計を見ていた。
「姉御、一旦落ち着いては?」
「でも……いくらなんでも帰りが遅いんじゃない? フィリップ、大丈夫かしら」
「あらかじめ遅くなると連絡があったでしょう。大丈夫ですよ」
「でも……やっぱり何かあったんじゃ」
「姉御、去年の二の舞になりたいんですか? 兄様のなんちゃって誘拐事件。兄様にも散々怒られたでしょう」
「う……」
 エミリアに諭され、アイリーンは浮かない顔で黙り込んだ。確かに、彼女の言うことにも一理あるのだ。
 去年、ステファンが家に帰って来なかった日があり、やれステファンが誘拐されたのだとか、家出したのだとか散々騒ぎまくったことがあった。オズウェルに相談を持ち掛けたり、ステファンの学校へ問い合わせてみたり……そして数日後、ケロッとした様子でステファンが帰って来、ただの誤解であることが判明したのだ。
 ニコニコ顔――だが、その瞳の奥は笑っていない――で懇々とステファンに説教されたあの日の出来事は、今でも忘れられない。だが、それとこれとはまた話は別なのだ。
 今回だけにとどまらず、フィリップは、最近よくクラーク公爵邸を訪れていた。クラーク公爵家の跡取りとして、本格的に指南が始まったのだ。あの優しそうな執事はともかく、相手はクラーク公爵だ。どんな厳しい指導があるかもわからず、もしかして、意気消沈したまま歩いていたフィリップが、どこかで事故に巻き込まれる可能性も――!
「やっぱり迎えに行って来ようかしら、クラーク公爵邸まで――」
「姉御」
 エミリアは呆れたような表情で顔を上げた。
「あのクラーク公爵ともあろうお方が、フィリップを徒歩で返すとでも?」
「…………」
 ごもっとも。
 アイリーンはそう思ったが、しかしそれを口にしたが最後、姉としての威厳が儚く崩れ去ってしまいそうで、アイリーンは口を閉じるだけにしておいた。
 すると、そんな二人の心境が分かって訳ではないだろうが、屋敷の外でガラガラと馬車の音が響いてきた。アイリーンはパッと顔を上げ、すぐに居間を飛び出した。
「お帰りなさい!」
「ただいま」
 アイリーンが大きく扉を開けると、フィリップが目を細めて笑う。アイリーンはホッと息をつくと、馬車のすぐ横で控えていた執事に頭を下げた。
「では、私はこれで失礼します」
「ありがとうございました」
「お坊ちゃま、またお迎えに上がります」
「はい」
 軽く手を振るフィリップに対し、執事は深く頭を下げた後、馬車に素早く乗り込んだ。もう夜も遅く、辺りは暗いが、それでも執事は手際よく馬車を操り、去って行った。
「今日はまた随分遅かったのね」
 フィリップを屋敷の中へ引き入れ、アイリーンはしっかり戸締りをした。去年とは違って、もう女子供三人しかいないのだ。一層用心するに越したことはない。
「うん。お父様とご飯食べてきた」
「え、あの人と!?」
 思いもよらない言葉に、アイリーンは大きな声を上げた。その声を聞きつけ、居間からエミリアが顔を出したので、二人は一旦話を止め、居間へ向かうことにした。
「フィリップ、すぐにご飯食べる?」
「あ、ごめん。もう食べて来ちゃって……」
「そうなの?」
「うん、連絡しなくてごめん」
「ああ、いいのよ。また明日の朝に回すから」
 エミリアはヒラヒラと手を振ってキッチンへ消えていく。出しかけた料理を片付けるためだ。もしここにウィルドがいたならば、『じゃあ俺が食べるよ!』と嬉々としてエミリアの手を止めるのだろうが、もうここに彼はいない。
「クラーク公爵の方から言って来たの? 一緒に食べようって」
 アイリーンが椅子に腰かけると、フィリップも定位置に座った。
「あ、いや、そうじゃなくて、バトラムが――あ、さっきの執事の人の名前なんだけど――一緒に食べたらどうかって。僕の作法の上達具合を見てもらおうって」
「そう……」
 感慨深げにアイリーンは呟く。
 正直なところ、クラーク公爵の考えはまだよく分からないが、仲良くやれているのなら何よりだろう。血は繋がっていなくとも、フィリップは彼を父と慕っているのだから、アイリーンとしては、二人に仲良くなってほしかった。
「確かに、最近のフィリップは、いつにもましてお行儀がよくなったものね。お父様には褒めて頂いた?」
「特には何も言われなかった。でも、最初のころに比べると、それほど小言は言われなかったから、多少は上達してるのかも。バトラムの教え方が上手いから」
 フィリップは嬉しそうに笑った。それを見て、アイリーンも心が温かくなる。どうなることかと、いつも屋敷で気をもんで待っていた彼女だったが、それも杞憂のようだ。何だかんだ、フィリップは打たれ強く、そして人を気遣うことのできる子だ。
「それで……」
「ええ」
「一週間後、姉様も一緒にクラーク邸に来ないかって」
「……え?」
「一緒にご飯を食べようってお父様が」
 ニコニコ笑って話を聞いていたアイリーンだったが、その表情が固まる。どうして私が、クラーク邸にお呼ばれするようなことになるのか。
「え……っと、どうして急に?」
「話がしてみたいって」
「クラーク公爵が?」
「うん」
「私と?」
「うん」
「……怖いんだけれど」
 純粋な恐怖しか感じなかった。恐怖というよりは、畏怖といった方が近いかもしれない。
 初めてクラーク公爵と対面した時のことは、正直なところあまり覚えていない。フィリップを奪還しようと必死だったし、周りは大勢の騎士に囲まれていて、それどころではなかったのだ。
 アイリーンは混乱する頭を抱えながら、藁をも掴む思いでエミリアを見た。
「ね、それってエミリアも? エミリアも一緒に行っていいのよね?」
「うん、いいと思う」
「良かったー、ね、エミリアも一緒に――」
「無理ですわ」
 間髪を容れず、エミリアは首を振った。と同時に、キッチンで入れてきた三人分の紅茶を、それぞれの前へ置く。フィリップは礼を述べてから一口飲んだ。。エミリアも涼しい顔でそれに口をつける。
「一週間後ですよね? わたし、その日は友人と約束があって」
「…………」
「姉御なら大丈夫ですわ。頑張ってください」
「他人事みたいに言わないでちょうだい!」
 アイリーンは大袈裟に首を振った。しっかり者で肝の据わったエミリアと一緒ならば、何だかんだで上手く過ごせそうな気がしたのだ。だが、この無情な返答。
「う、私にどうしろって言うのよ……」
 アイリーンはさめざめと恨み言を連ねた。
 アイリーンは、こう見えて貴族令嬢の端くれではあるが、最近ではめっきり社交界へ姿を見せることも少なかった。最後に家庭教師から行儀作法について教えを乞うたのは遥か彼方で、おまけに実践で作法を身に着ける機会もない、と。つまりどういうことかというと――アイリーンはマナーに自信がないのだ。
 堂々たる立ち居振る舞いと、その高飛車で自信満々な態度だからこそ、今まで何とか誤魔化してこられたものの、それがあのクラーク公爵の御前まで出て行かなければならないとなると、とんと自信がなくなってくる。彼のあの鋭い眼光で、何もかも見透かされてしまいそうだ。それに、自分が貶されるのはまだいい。だが、それでフィリップまでわるく言われるようなら、申し訳なさと屈辱とでどうにかなってしまいそうだ。
 アイリーンは今からもう既に気が重かった。