第一話 百噂は一見に如かず

126:再会を胸に


 ウィルドの兄の滞在二日目は、家で過ごすこととなった。折角の滞在……のはずではあるが、何しろ当の本人、ブレットが、筋肉痛を訴えたのだ。
「ほら……ウィルドが昨日一緒に訓練しよう、なんて言うから」
「ええっ、俺のせいかよ! 兄ちゃんがだらしないからいけないんだよ」
「普段から鍛えてるあなたとブレットさんじゃ、体力的に差があっても仕方がないでしょうが!」
 呆れたように言うアイリーンに、ウィルドがぶうぶうと不貞腐れた。その仕草が懐かしくて、ブレットは思わず笑みを浮かべる。
「……すみません、俺が不甲斐ないばっかりに」
 身を起こし、ブレットが項垂れると、アイリーンとウィルドは、途端にばつの悪そうな顔になった。目の前に並んだその二つの表情が、互いにとてもよく似ていて……ブレットは、苦笑を浮かべた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「いえ、少しうとうとしていただけなので大丈夫です」
「もう少しでエミリアが朝餉を持って来てくれますから」
「はあ……すみません。もう少ししたらよくなると思うんですけど」
 我ながら情けないとブレットは恐縮する。何が筋肉痛だ。仮にも自分は農民である。毎日毎日畑を耕す肉体労働をしていたのに、どうして騎士の訓練に少しだけ付き合っただけの自分が筋肉痛になるのだろうか。
 アイリーンとウィルドが部屋を出て行き、ブレットは一人天井を見上げながら悶々と後悔ばかりしていた。せっかくウィルドの様子が見たくてここまで来たというのに、どうして自分は筋肉痛ごときで寝台から上がれずにいるのか。
 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。ブレットは咄嗟に返事をするが、誰だろうと首をかしげる。ウィルドはノックをする性格ではないし――。
「お加減はいかがですか?」
 ひょっこり顔を出したのは、小柄な少年だった。緊張を解いて、ブレットは身を起こした。
「ああ……うん、大丈夫です」
「朝餉の準備がもう少しうかかるから、先にお水をって」
「ありがとう。フィリップ君……だっけ?」
「はい」
 にこやかにフィリップは頷いた。その純真な笑みに、ブレットはホッと心を落ち着かせる。
「ウィルドは……いつも、家ではどんな感じ?」
 彼ならはぐらかしたりしなさそうだ、とブレットは躊躇いがちに尋ねた。ウィルドに裏表がないのは百も承知だが、もしも自分が今ここにいなくて、子爵家の人員だけだったならば。
 ウィルドはどんな風に毎日を過ごしているのか、それがすごく気になった。
 フィリップはしばらく思考を巡らせた後、一言一言噛みしめるようにして言った。
「ウィルドは……いつも元気だけど、時々暴走することもある。よく姉様や兄様を怒らせて叱られてるけど、次の瞬間にはケロッとしてるよ」
「……想像通りだ」
 むしろ、良い子なウィルドが想像つかない。
 そういえば、昨日初めてここを訪れた時も怒られていたなあと、遠い昔のように思い出す。
「僕は……兄弟も姉妹もいなかったから、嬉しいんだ。毎日が明るい。ウィルドはいつも僕に新しいことを教えてくれるし」
「……そうか」
 その新しいこと、というのが、どうか変なことではありませんように、とブレットはこっそり祈った。
「ブレットさん、入ってもよろしいですか?」
「ああ、うん。どうぞ」
 コンコン、とノックの後、エミリアの声がした。ブレットはすぐに頷いた。
「じゃあ、僕は居間に戻ってる」
「うん。お水、ありがとう」
「はい」
 フィリップと入れ違いにエミリアが入って来た。両手に盆を抱えている。
「スープとパン、それにサラダです。質素なもので申し訳ないんですけれど」
「いやいや、すごくおいしそうだ。頂くよ」
「はい、どうぞ」
 ブレットはゆっくり体を起こすと、壁に寄り掛かった。その際に、膝の上にエミリアが盆を置いてくれた。
「この家の料理は全部エミリアちゃんが作ってるの?」
「はい。わたしが料理担当です。作るのが好きだから」
「凄くおいしいよ。さすがだね」
「ありがとうございます」
 次々とスープ、パンをお腹の中に収めていっても、ブレットは精一杯の世辞を忘れなかった。事実、すごく美味しかった。何の変哲もないパンと具なしスープだが、心が温まるようだった。
「ブレットさんは……ウィルドにとてもよく似ているんですね」
「え……そうかな?」
 最後に残しておいたサラダを咀嚼しながら、ブレットは首をかしげた。あまり、過去に自身とウィルドが似ている、などと言われたことは無かった。それよりも、年の近い弟たちの方がよく言われていたような。
「はい。声がとてもよく似ています。あと……食べるのがすごく早い」
「うっ……」
 思わずブレットは喉を詰まらせた。
 自覚は無い訳ではなかった。昔からブレットは早食いだった。しかしそれは自分の家族にも同じく言えることで、もともとの原因は何を隠そう、ウィルドである。
 早く食べなければ、ウィルドに全て食べつくされてしまう。
 そんな不安と焦りが常に頭の中にあり、結果、食べる速度が速くなってしまったのだ。
 しかしそれを目の前の少女に言うのは、少し……いや、大分弁解じみていて、結局ブレットは何もいうことができなかった。不本意ながら、早食いという称号が与えられてしまったブレットである。
「でも……ウィルドとブレットさんって、本当に仲が良いんですね」
「え……そうかな?」
「そうですよ。ウィルド、すごく嬉しそうですから」
 エミリアは手遊びに手を組み合わせる。
「わたし……ウィルドが、羨ましいです。わたしに……もし兄弟がいたらこんな感じなのかなって」
「……ウィルドみたいなのが弟にいたら大変だよ?」
 半目になってブレットは言う。つくづく、彼は思うのだ。ウィルドのような問題児な弟が一人で良かった……と。ブレットには後二人弟がいるが、それぞれ変なところはあれど、少なくともウィルドのようなやんちゃさは持ち合わせていない。
 ブレットの忠告に、エミリアはしばしきょとんとしたが、急に笑い出した。盆を持って立ち上がる。
「……でも、そういえば、わたしにもフィリップや兄様っていう兄弟がいますから。ウィルドは……兄弟というよりは、友達っていう感じなんですけど。それでもう十分です」
「……そっか」
「はい。わたし、もう行きますね」
「うん」
「筋肉痛が和らいだら、ぜひ居間にいらしてくださいね。ウィルド、喜びますから」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
 軽く手を上げてエミリアを見送った。そうしてぐでんと寝台に横になると、黙って目を閉じる。お腹も膨れたので、丁度いい具合に眠気が襲ってきた。
 ……買い物をしたり、新しい人に出会ったり。
 特に刺激的なことはしていないが、しかしいつもよりも充実した時間だったと、ブレットは薄れる意識の中で思った。

*****

「ウィルド!」
 突然の騒がしい声に、ブレットは目を覚ました。
「何だよ、少しくらいいいじゃん!」
 ウィルドの明るい声とともに、バタバタと屋敷内を走り回る音がする。
「少しくらいじゃないだろ! 全く、そういう所は全然成長してない……!」
 ぼそぼそと愚痴る声は、ステファンのものだ。おそらく、またウィルドが何かやらかしたのだろう。聞くまでもない。
 騒がしい足音たちは、そのままブレットのいる部屋を通り過ぎるもの、と思っていたが、唐突にその扉が開いた。ブレットが目を丸くしていると、きょとんとした顔のステファンと目が合った。
「あ……すみません! 寝ていらしたんですね!」
「あ、いや、大丈夫だよ。丁度起きたばかりだし」
 ブレットは苦笑いを浮かべながら身を起こした。
「ウィルドを探してるの? ここには来てないよ」
「そうですか……。騒がしくして本当にすみません。お大事に」
 申し訳なさそうな顔でいそいそと扉を閉めようとするステファンに、ブレットは慌てて片手を挙げた。
「あ、待って! ごめん、今時間があるなら、少し話し相手になってくれないかな?」
「え……僕が、ですか?」
「うん。ウィルドのこと、少し聞きたくて」
 ブレットは困ったように笑う。
 やんちゃなウィルドを探しているという彼に、少し失礼な申し出だっただろうか。
 そう彼は思ったが、ステファンは愛想よく首を縦に振った。
「分かりました。僕で良ければ」
 そっと扉を閉めると、ステファンはベッドの傍らの椅子に腰掛ける。ブレットはパッと笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
「いえ」
 いくら筋肉痛とはいえ、ブレットもずっとベッドで臥せっている訳にはいかない。ブレットは時間を惜しむように切り出した。
「ステファン君は、ウィルドのことどう思ってるのかな、と思って。あ、変な意味じゃないよ? ウィルドが迷惑かけてないかとか、いろいろ心配で」
 ウィルドの兄という、自分と同じ立場。彼は、どのように思っているのだろうと、ブレットは少し気になったのだ。
 そのままの気持ちを彼に伝えると、ステファンは少し驚いたように押し黙ったが、すぐに首を傾げて考え始めた。
「喧嘩友達……のようなものでしょうか。もちろん、手のかかる弟、という面もありますけど」
 どこか照れた様子でステファンは語る。ブレットはそれを眩しい思いで見つめていた。
「ウィルドは、人の機微には疎い所はありますが、いつも自分の感情に素直なので、どうにも憎めない。姉上の次に問題児なので、いろいろと後始末が面倒なんですけど」
 何となくブレットとステファンは笑い合う。同じウィルドの『兄』として通ずるものがあったのだ。
「ありがとう、本当に。そう言ってもらえて嬉しい」
 ブレットは素直に礼を述べた。
「君たち……アイリーンさんとステファン君には、本当に感謝してるんだ。もちろん、ウィルドの世話をしてくれてることもだけど、あいつがまたあんな風に笑えるようになったのも、この家で生活したおかげだと思うし」
「そんな……」
 ステファンは目を丸くして首を振った。
「僕たちも、ウィルドたちには感謝してるんです」
「え?」
 ブレットは驚いたように聞き返した。ステファンは生真面目な顔で頷く。
「ウィルドから聞いたかもしれませんけど、僕たちも、幼い頃に両親を亡くしていて……誰も、頼る人がいなかった時期があるんです」
 ブレットは小さく頷いた。ウィルドから、だいたいのあらましは聞いていた。
「だからこそ、自分達で助け合っていかないといけない。そんな時期に、子供が一人二人と増えていって。正直なところ、一杯一杯だと思った時期もありました。食費も増えるし家は騒がしくなるししょっちゅう怒鳴らないとといけませんし……」
 だんだん目が遠くなっていくステファンに、ブレットは少々の同情を覚えた。確かに、その日の暮らしも精一杯な時期に、ウィルドのやんちゃさや大きすぎる胃袋の世話までしなければならないとなると、大変な気苦労があったはずだ。
「でも同時に、彼らに助けられた瞬間もあったんです。ウィルドは多少の悩みも豪快に吹っ飛ばしてくれるし、エミリアは時に適格に助言をくれる。フィリップは何でもないことでも嬉しそうに笑ってくれる。支えるべき人が増えるのは苦しいことだけど、それだけではないことは確かです。何より、共に……支え合っていくことができますから」
 ブレットは呆気にとられたままステファンを見つめていた。自分よりも十は年下のはずの彼が、ものすごく大人びて見えた。
「……何だか、変なこと言ってしまいましたね。すみません、忘れてください」
 ステファンは若干頬を赤くして横を向いた。
「うう、そんなことないよ。たくさん話が聞けて良かった。ありがとう」
 ブレットは、心からの笑みを浮かべた。

*****

 次の日の朝、子爵家の前に、六人もの人数が集まった。いわずもがな、子爵家とブレットの面々である。今日は、いよいよブレットとのお別れの日であった。
「ウィルド……また、来るよ。会いに来る」
「今度は母ちゃんたちも一緒にな!」
 ブレットの瞳には、僅かに涙が光っているが、ウィルドは豪快に笑っていた。寂しいのはもちろんだろうが、湿っぽいお別れになるより、笑ってさよならをしたいのだろう。
「その時にはぜひこの家に」
 アイリーンも付け加える。ブレットも元気よく頷いた。
「はい。ありがとうございました!」
 ブレットはもう一度頭を下げ、晴れやかな表情でリーヴィス子爵家を後にする。
 森の奥には、確かに奇妙な屋敷が立っていた。そこに住んでいる人たちは、どこかちょっと浮世離れしていて、血の繋がりもないのに、一緒に住んでいたりしている。
 でも……温かい人たちだ。
 噂だけが全てじゃない。むしろ、自分自身で触れてみないと、分からないことだらけだ。
 ブレットは少しだけ屋敷を見つめると、再び前を向いて歩き出した。彼の胸は、満足感でいっぱいだった。
 故郷の母や兄弟たちに、たくさんのお土産話ができたと。