第一話 百噂は一見に如かず

125:兄、姉として


 拍子抜けするほど簡単に詰所に入ることができた三人は、まず訓練場に向かった。ウィルドは着の身着のままでそこへ入っていき、アイリーンとブレットはというと、そのまま出入りする騎士たちの邪魔になるわけにもいかないので、ベンチに移動した。丁度木陰が差していて、気持ちの良い天気だった。
「……驚きました。ウィルド、思いのほか楽しくやっているみたいで」
 二人の目の前には、騎士たちが訓練している光景が広がってょる。隣にいる人と話したり小突かれたり。年は一回り以上は離れているのだろうが、その差を感じさせないほど、気安い関係がそこにはあった。
「こんな……周りが大人だらけの状況でも、あいつは上手くやっていけてるんですね」
「そう……ですね。私も正直なところ、驚いています。ウィルドは……少し、飽き性なところもありますし、訓練は、どちらかというと、地道なものが多いみたいで」
「……確かに、俺も驚きました」
 騎士の訓練は、剣を持っての実技より、基礎練習が多いらしい。単純に走るだけの時もある。そんな中、あのウィルドが飽きもせずに真面目にやっているのは、拍子抜けだった。
「でも……楽しそうだ。ウィルドは、やるべきことを見つけたんですね」
「はい」
 始め、アイリーンはウィルドを手放すとなった時、不安で堪らなかった。ウィルドがなかなかの問題児なので、それも当然のことだろうが。しかし、いざこうしてみると、ウィルドが頼もしく見えて仕方がない。こんなにも……弟は、何かに一生懸命になれたのか、と。
「ウィルドは……どうして騎士になりたいって言い始めたんですか? 確かに、商人よりは騎士の方がウィルドには向いてると思います。でも、どうしてそう考えるに至ったか……少し、不思議で」
「……それは、ウィルド本人に聞いた方がいいのでは?」
 アイリーンは少し笑って答えた。以前、ウィルドについて悩んだとき、同じように言われたことがある。ブレットもハッとしたようにアイリーンを見やった。
「そう……ですよね。確かにそうです。忘れてください」
「お気になさらず。……真面目な話って、なかなか直接聞きにくいものですから」
 普段おちゃらけている者だと余計に。
 ブレットもその無言の示唆に気が付いたのか、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「ウィルドは……特に厄介ですからね。あいつは……時々ひどく大人びることがあって。自分のことになると、とことん話さなくなったりして」
「あ……分かります」
「本当ですか?」
 思わずアイリーンも声を上げていた。
「騎士になりたいってこと、私が尋ねるまで全然教えてくれなくって。私自身、他の人からそのことを聞いたんです」
「あー、何となく想像がつきます」
 ブレットは思わず苦笑いを浮かべる。
「きっと、父親に商人になれって言われた時も、あんまり反発できなかったと思うんです。ウィルドにはもっと他のことの方が向いてただろうに、よりにもよって頭を使う職業だなんて……。まあ、実際には父親はそれよりももっとひどい所にウィルドを向かわせようとしていたんですが」
 アイリーンは押し黙る。誘拐事件が終わった後、薄らとウィルドから聞いていた。父親から商人になれと言われ、故郷を旅立ったが、実際に売られた先は人身売買組織であって、本当なら孤島の鉱山で働かせられるところだったこと。そのことを知った彼は、こっそり逃げ出し、山を放浪した挙句、子爵家に迷い込んだこと。
「ウィルドは……変なところ、一人で思い詰める癖があって」
 アイリーンはしたり顔で頷く。思い当たることは山ほどあった。
「そのくせ、自分の欲望には忠実だし」
 これにもしっかり頷く。何度、自分達のご飯を彼に食べつくされただろうか。
「本当……変なやつですよね。でも……だから心配なんです。本当は、ずっと傍で見守っていたいんです」
「…………」
「でもそれはあいつの真意じゃない。こんなこと……頼むのも申し訳ないんですけど」
「はい」
「どうか……どうか、ウィルドのこと、よろしくお願いします!」
 ブレットはアイリーンに向き直り、深く頭を下げた。アイリーンは少し目を見開くと、再び前を見た。彼女のその視線には、ウィルドが映っている。
「ウィルド……以前、こんなことを言っていたんです」
「…………」
「家族ってものが、よく分からない。血の繋がりがあるかどうかとか、一緒に暮らしているかどうかとか、家族の境界が分からない。でもだからこそ、離れていても、一緒に暮らしていても、みんな家族だって思えばいいって。自分にとったらでっかい家族だって」
 ブレットは噴き出した。何だか……真面目に聞いていた自分が馬鹿みたいだ。
「ウィルドらしい言葉ですね」
「でしょう? でももう少し言い方というものがあったんじゃないかしら、と思わないでもなかったんですけれど。でっかい家族って……。もう少し、こうお上品な言い方とか……。せめて大きい家族、とか――」
「あははっ」
 何だか楽しくなってきて、ブレットは思わず笑い出した。
「なっ、何がおかしいんですか!」
「いえ……すみません。つい……」
 ブレットは目尻に溜まった涙をぬぐうと、前に向き直る。
 変なところにこだわる目の前の人が、少しおかしかった。彼女の周りには、たくさんの噂があるようだが、そのどれも、今の彼女を何一つ言い当てていないような気がした。
 変な人だな、とブレットは思う。
 きっと、その変な部分ばかりが悪目立ちしてしまったのだろう。取り繕うことをしないようなので、噂だけが独り歩きしている印象を受けた。

「――こんな所で見合いとは、雰囲気も何もあったものじゃないな」
 二人が座っているベンチの後ろから、不意に声がした。思わず二人して肩を跳ねさせる。
「なっ……なっ、びっくりするから後ろから声かけないでよ!」
 振り返ったアイリーンは思わずそう叫んだ。他に言うべきことがあっただろうが、取りあえず今は驚いて跳ねた心臓を落ち着かせる。
「何かやましいことでもしていたのか? いや、そもそもここは女人禁制だが」
「何もしてないわよ! 何度もお邪魔させてもらってるんだし、たった一回くらい見逃してくれたっていいじゃない」
 アイリーンお得意の開き直りに、声をかけた主――オズウェルはため息をついた。
「……そちらは?」
「ああ、この方? この方はウィルドのお兄さんのブレットさん」
「ウィルドの……?」
 驚いたようにオズウェルの目が開かれる。ブレットは思わず苦笑し、立ち上がる。出会う人みなこんなにも驚いてくれるというのは、ウィルドと深い親交を築いている証拠だと思った。
「初めまして、ブレットです」
「そしてブレットさん、この方は警備騎士団団長のオズウェルさん」
「だっ……団長さん!?」
 ブレットは目を丸くして声を上げた。一方、彼の声とその呼び方が、ウィルドに似ていて、思わずオズウェルは笑みを浮かべた。
「よろしく頼む」
「は……はいっ、よろしくお願いします!」
 思わずブレットは深く頭を下げる。
 騎士団がどのような図式で成り立っているのかは分からないが、おそらく目の前の彼は、上位に組する人物だろう思った。
「折角この街に来たんだし、一緒にウィルドの訓練の様子を見ようと思って……ごめんなさいね、訓練中に」
「構わないさ。むしろうちの連中もやる気になってくれているから好都合だ」
 オズウェルが目を細めて訓練場を見やる。その視線に驚いた騎士たちが、慌てて再び練習に励んだ。その視線に気が付いたのは、何も彼らだけではない。
「団長さん、久しぶり!」
 ウィルドが大きく手を振って走ってきた。練習は一区切りついたらしい。
「ああ。元気でやってるか。訓練はきつくないか?」
「そんなの、ここの訓練と比べたらへっちゃらだよ!」
 弾けるように笑い、ウィルドは木陰に入ってきた。彼はひどく汗をかいているようだが、疲れを感じさせない笑顔だった。
「ねえ、兄ちゃんも一緒にやろうよ」
「え……俺!?」
「うん。今から詰所内を一周してくるんだって。そのあと軽い腹筋とか、基礎訓練。そのついでにここの案内ができるよ!」
「いや……でも俺は運動苦手だし」
「大丈夫だよ! ゆっくり行くからさ」
「う、うん……」
「ね、行こうよ!」
 ブレットの返事はあまり色よいものではないが、元来強引なウィルドは、半ば無理矢理ブレットの腕を引いて立たせた。
「じゃ、二人とも、行ってきます!」
「い、行ってきます……」
「いってらっしゃい」
 ブレットの顔は、若干引き攣っている。アイリーンは彼の気持ちが痛いほどわかったが、だからといってウィルドを止めることなどできないので、見送ることしかできなかった。
 オズウェルは、開いたベンチに腰掛けた。そのまま立ち去っても良かったのだか、身体が自然に動いたのだ。
「ウィルドのお兄さん、優しそうだな」
「ええ」
 穏やかな風に吹かれながら、アイリーンは心から頷いた。
 ウィルドは親から捨てられたのではないか、と僅かばかりの状況から推測するしかできなかった彼女は、てっきり彼の家族はウィルドにひどい扱いしかしていなかったのだと思っていた。しかし、実際に会ったブレットは、ウィルドにとっても優しくて。
 ウィルドがあんなに素直に育ったのは、きっとそんな家族の人柄もあったのだろう。
「私……今幸せだわ」
「何を……急に?」
 戸惑ったようなオズウェルに、アイリーンは苦笑を浮かべた。
「去年はいろいろあったじゃない。あなたたち騎士団にもたくさんお世話になったし。でもそれが全部過ぎ去ると、やっぱり平和が一番だなって思うのよ」
「それはそうだろう。正直、あんな事件が二個も三個もあったら身が持たない」
 誘拐事件のことを言っているのだろう。アイリーンはクスクス笑った。
「後は、私自身の問題よね。私がしっかりしないと、皆にも迷惑をかけることになるし」
 どこか愁いを帯びたアイリーンの声に、オズウェルは思い当たった。
「見合い……か」
「そう」
 アイリーンは小さく頷いた。
「ステファンももう既に動いているらしいけど、私自身も頑張らないと。いつまでも独り身じゃ、皆の重荷になるかもしれないし」
 アイリーンは早口のまま笑みを浮かべた。と同時に、別のことを考える。この人との関係性も、この一年で随分変わったな、と。
 出会ったばかりの頃は、犬猿の仲と言っても相違なく、顔を合わせるたびに口論ばかりしていた。それは今でも変わらない時もあるが、何より、こんな風に落ち着いて話せている所に成長を感じる。
「もう……駄目だ」
「ったく、兄ちゃんはだらしないなあ」
 遠くから、そんな声が聞こえてきた。アイリーンは目を細めてそちらを見やる。
「帰って来たみたいね」
 しずしずと彼女は立ち上がった。
「私たち、そろそろお暇するわ」
「あ、ああ」
「今日はありがとう」
 アイリーンは微かに微笑むと、オズウェルに背を向けた。ブレットたちを迎えに行くためだ。
「まだ半分も訓練してないんだけど」
「もう無理だよ……。勘弁してくれ」
 和やかな兄弟の会話を聞きながらも、アイリーンの顔は少々浮かなかった。
 未来への展望を語っていたはずなのに、どうしてこんなに釈然としないのかしら。
 確かに、結婚なんて嫌だし、できれば一生独り身でもいいとは思っているが、それでも結婚は自分の人生の中で重要事項だ。決して避けられる道ではないのに。でもどうしてか、素直に受け入れられない自分がいる。
 アイリーンはいつまでも悶々とした気持ちを胸の内に持て余していた。