第一話 百噂は一見に如かず
122:リーヴィス子爵家
「先ほどはお騒がせ致しました」
そう慎ましやかに頭を下げるこの女性は、アイリーン=リーヴィスと名乗った。このような優雅な雰囲気を持つ女性とは、今までの人生の中で出逢ったことがなく、正直なところ、ブレットは戸惑ってもいた。
ブレットの前にティーカップを置く仕草も、スカートの裾を抑えて座る仕草も、どれも自然に見えて、どこか洗練したものを感じさせる。果たしてこの厳しそうな女性の下で弟はやっていけたのか、何か余計なことはやらかしていないか、ブレットは目まぐるしく頭を回転させるばかりだ。というのも、つい先ほど、カンカンになったこの女性に、弟が怒られているのを目撃してしまったばかりなのだから。
リーヴィス子爵家は、見れば見るほど不思議なところだった。貴族……という割には、調度品の数々が何と言うか――少々古ぼけている。床に敷いてある絨毯にも、所々染みがついていて、ブレットとしては、願わくば、このシミが弟の仕業ではありませんように――と祈るばかりである。
居間に来るまで、玄関ホール、廊下と通ってきたわけだが、どこも非常に暗かった。所々に燭台はあるものの、それらも使われた形跡がなく、ブレットは、本当にここが貴族の屋敷なのか、と内心頭を傾げていた。
「あー、でもすっかり兄ちゃんのこと忘れてたよ。師匠が朝食のことなんかで怒るから、俺も兄ちゃんのこと言うの忘れてたんだよ」
「言い訳だけは立派ね……。元はと言えばどうして当日になんか帰ってくるのよ……。せめて私達にも手紙で知らせるとか、いろいろあったでしょうに」
「忙しかったの! もういいじゃん終わったことは! それよりも今は兄ちゃんだよ」
「……分かってるわよ」
唇を尖らせた女性は、最後にウィルドを一睨みしたのち、居住まいを正し、ブレットに向き直った。
「改めまして、私、アイリーン=リーヴィスと申します。よろしくお願いいたします」
「あ……こちらこそよろしくお願いします。ウィルドがいつもお世話になって……」
ブレットは何度も頭を下げた。目の前の女性が放つ雰囲気に、すでに彼は気圧されていた。
「僕はステファン=リーヴィスです。以後お見知りおきを」
「そして現当主でもある」
ウィルドが横から口を挟む。その内容に、ブレットは思わずえっと声を上げた。
「君が……当主?」
姉とよく似た金の髪に、青い瞳を持つ柔和な雰囲気の少年だ。この優しそうな少年が、貴族の家を取り仕切る当主であるとは、到底思えなかった。
「はい。両親が幼い頃に亡くなったので、僕が成人するとともに家を継ぎました。本当なら姉が継ぐはずだったんですが」
ジト目でステファンがアイリーンを見る。アイリーンはシラッとした顔で弟の視線を受け流した。
「今更そんなこと言ってももう遅いわよ。自分で継ぐって言ったんだから、ちゃんとやるべきことはやりなさいな」
「……分かってますよ。ただ一言、姉上が僕のことを当主だと認めているのなら、僕の話くらい聞いてくれたって――」
「だってあなたの話はいつも見合い話ばかりじゃない! あの人は駄目だ、あの人は将来有望かも、なんて毎日似たような話ばかり聞かされたら、誰だってうんざりすること間違いなし――」
「あーもう! 二人がそんな口論ばっかしてたら全く話が進まないじゃんか!」
姉弟二人の口論に、珍しくウィルドが正論を言い放つ。
「二人は一旦黙ってて!」
「…………」
「では次はわたしが」
しゅんとなったアイリーンとステファンを尻目に、彼らの後ろから楚々とした少女が進み出た。栗毛色の髪を、緩く二つに結っている。ウィルドよりも幾らか年下の様に見えた。
「わたし、エミリアと申します。よろしくお願いいたしますわ、ブレットさん」
「あっ、よろしくお願いします」
品のある微笑みに、思わずブレットは顔を赤らめる。一回りは年下だろうが、その立ち居振る舞いは同年代の少女よりはきっと抜きんでているだろう。やんちゃなウィルドとは大違いだ、とブレットは目を丸くした。
「僕はフィリップ……クラークです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
最後に現れたのは、小柄な少年だ。エミリアよりも更に年下のようだ。金髪のふわりとした癖っ毛という見た目も相まって、柔らかい印象を抱いた。
しかし――と、改めてブレットは子爵家の面々を見渡した。背の高い女性アイリーンに、子爵家当主のステファン、品のある少女エミリアに、最年少のフィリップ、そして最後は自身の弟ウィルド。
大雑把ではあるが、ウィルドからの手紙で、ブレットもこの子爵家の内情は聞いていた。
アイリーンという女性、ステファンという少年は、共に血は繋がっているが、ウィルドはもちろんのこと、エミリア、フィリップに至っては誰とも血は繋がっていないこと。当時行く当てのなかった子供たち三人を、アイリーン=リーヴィスが保護し、この家に連れてきたこと。血の繋がりが無いせいで、一時、アイリーン=リーヴィスが誘拐を働いたとして、彼女が捕らえられるという事態にもなったが、今ではその誤解も晴れ、また共に暮らすことができたこと――。
「ブレットさん、どうぞ紅茶も頂いてください。野イチゴも遠慮なさらずに」
「あ……そうですね。頂きます」
エミリアのにこやかな笑みに、慌ててブレットはカップを手にとり、一口口に含む。自身の故郷では、もっぱら水しか飲まないが、透き通るような赤い色のその飲み水は、仄かに良い香りがした。
「あっ、おいしいですね、これ」
「そうでしょう?」
「紅茶……ですか?」
「はい。野イチゴもどうぞ」
「では失礼して……」
エミリアの纏う雰囲気に、ブレットはすっかり敬語が板についてしまっていた。加えて更に悲しいことに、どうしてかそれが違和感を感じさせない。
「あ……丁度良い甘酸っぱさですね。おいしいです」
「そう言ってもらえて良かったです。ブレットさんがいらっしゃることが分かっていれば、わたしももう少しきちんとしたおもてなしができたものを……」
ジトッとエミリアはウィルドを睨む。対するウィルドの方は素知らぬ顔だ。
「兄ちゃんはいつまでここに居られるの?」
「明後日の朝には帰るよ。その間、前泊まったところと同じ宿に泊まるつもり――」
「勿体ない!」
アイリーンの甲高い声に、ブレットはびくりと肩を揺らした。彼女の方を見ると、信じられないと言った風に目を見開いていた。
「どうしてウィルドのご兄弟が私達と同じ街に住んでいるのに、わざわざ別の所へ泊まるんですか? この家、部屋はたくさん余っているんです。良かったらここに滞在しません?」
「え……でも」
「きっとお母様も会いたがっておられるのでしょう。その分節約して、またすぐにいらっしゃればいいわ。その時には、ぜひまたこちらへいらしてください。精一杯おもてなしさせて頂きますわ」
「そうですよ。ここに泊まれば、その分長くウィルドとたくさん話せますし。そうしましょう」
アイリーンとステファンはにこにこ頷き合う。つい先ほどぐちぐちと口論していたにもかかわらず、とんだ息の合い様だ。
「じゃあ……すみません。お言葉に甘えて……」
「やった! じゃあ今日は夜遅くまで遊んでようぜ!」
途端にはしゃいだ声を上げるのはウィルドだ。呆れた様な視線をステファンが送る。
「ほどほどにしておきなよ……」
「分かってるって。フィリップ、後でトランプしようぜー。昼餉ができるまで」
「うん!」
「朝餉の後はもう昼餉……。全く、ウィルドのお腹の中は一体どうなってるんだか……」
はあ、とわざとらしくエミリアはため息をついた。ステファンやフィリップはそれに苦笑いだが、アイリーンは落ち着かない様子で彼女にこっそり忍び寄った。
「エミリア、人数も増えたからご飯の準備大変でしょう? 私も手伝いま――」
「大丈夫ですわ」
聞き間違いか、とアイリーンははたと止まる。
「手伝――」
「大丈夫ですわ」
にっこりやんわりと断られ、アイリーンはがっくり肩を落として引き下がった。ウィルドの兄の来訪もさることながら、久しぶりの子爵家勢揃いの日でもあるので、多少なりとも、何かしたくてしようが無かった。が、子爵家の料理長から無碍にあしらわれたので、アイリーンとしてはなす術もない。
「師匠、可哀想になー、エミリアに振られたんだ」
「姉様も一緒にトランプしよう」
「フィリップ……今はそのあなたの優しさが胸に痛いわ……」
「ほら兄ちゃんも! 一緒にトランプしようぜ!」
「うん……今行くよ」
ブレットはゆっくりと椅子から立ち上がる。キッチンではエミリアとステファンが朝餉の後片付けをしており、居間の方ではウィルドを筆頭にトランプが並べられ。
「ウィルド……良かった」
思わずブレットはぽつりと呟く。
もう二度と会うことは無いと思っていたのに。もう二度とその笑顔を見ることは叶わないと思っていたのに。
そんな彼が、今こうして目の前で楽しそうに笑っている。
ブレットは感極まりそうになり、思わず目元を手で覆う。
きっと、この子爵家の皆が、ウィルドを元の元気な少年にしてくれたのだろう。
ブレットはそう確信していた。