第一話 百噂は一見に如かず
121:森の奥の屋敷
鬱蒼と茂ったその森は、まだ日が高いと言うのに、来る者に不気味な印象を抱かせる。ブレットは額に汗を光らせながら、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「ここで合ってる……はずだけど」
しかしきょろきょろと見渡してみても、人の気配はまるでない。この先に目的地の屋敷があるかどうかは、弟から手紙で知らされたこの地図でしか知ることができない。
ブレットは黙って手の中の白い羊皮紙に目を落とす。そこには、ふにゃふにやの線と矢印、そしてミミズがのたくったような汚い字で『ここ』と書かれていた。この地図によれば、目的地はこの森の先らしい。ごくり、と再びブレットは唾を飲み込んだ。
しかし、いつまでもこうしてはいられまい。
ブレットは覚悟を決め、暗い森の中に足を踏み入れた。時々鳥の羽ばたく音が聞こえるが、それ以外に生き物の気配はほとんど感じられなかった。
一応、事前に下調べはしたつもりだった。この先の、目的地について。しかし人々の返答は肯定的なものではなかった。いわく、そこを訪れた者は、もう二度と帰って来れない。いわく、子供嫌い人嫌いの魔女がいる。いわく、その魔女に会ったが最後、子供は全て攫われる――と。
さすがにここまでくると、ブレットも苦笑いを浮かべるしかなかった。これらの噂も、人から人へと伝播する間に、尾ひれがつき過ぎた結果だろうことは容易に想像がつく。何より、弟があれだけ信頼を寄せていた女性だ。魔女だなんて、そんなことはないだろう……とは思う。
森を抜けると、開けた目の前に、唐突に屋敷が現れた。ブレットは早速先ほどの判断を撤回したくなっていた。何だろう……この異様な雰囲気。
その屋敷は、今まさに通って来た森と同様、異様な雰囲気を放っていた。すぐ目の前の庭は荒れ果て、もはや森との境界が分からなくなっているし、昔は立派であっただろう門前には、あちらこちらに煉瓦が転がっていた。そして何より異様なのは、屋敷の暗さだ。一応玄関にはランプがぶら下がっているが、ここ数年、それに火を灯されたような形跡はない。確かに今は日も高い午前ではあるが、ここは森の中だ。これだけ暗ければ、灯りくらいは点けないのだろうか。屋敷からも人工的な灯りは全くと言っていいほど感じられない。――魔女が住んでいる、と言われれば、思わず納得してしまうほどの雰囲気は、この屋敷にあった。
ブレットは何度も呼吸を繰り返し、震える手でチャイムに指を当てた。もし中から魔女が出てきたらどうしようか、と悩みに悩みながら。
しかし結局のところ、そのチャイムが押されることは無かった。中から、盛大にバンッと扉が開かれたからだ。
「うへえっ!」
そんな情けない声を上げるのは、約一年ぶりの懐かしい弟である。兄であるブレットも情けないことだが、弟の顔を見て、ものすごくホッとした。この異様な空間の中で、一人でも知り合いに出会えたことが、何よりも安心感をもたらしたためだ。
「ウィル――」
「ウィルド!」
しかしブレットが弟に声をかける前に、何者かが先に弟の名を呼んだ。すぐに屋敷から一人の女性が姿を現し、閉じかけた扉をもう一度大きく開ける。その際、丁度陰にいたブレットを押し潰したことには気づきもしなかった。
ブレットはジンジン痛む鼻を抑え、思わずその場にしゃがみこんだ。顔を上げる彼の瞳に映るのは、日に輝く金髪と、長い手足、そして一風変わったドレス――。
「あなたねえ……ようやく帰って来たと思ったらまたこんなことして! いい加減限度というものを覚えてちょうだい!」
「いや……いいじゃん、久しぶりのエミリアのご飯だったから、つい手が止まらなくなって――」
「言い訳は無用です。今まで何度似たようなことを繰り返してきたと思って。こちらはいい加減堪忍袋の緒が切れそうなの。働く者食うべからず、という子爵家の格言を忘れたのかしら?」
うふふ、と口元に微笑を浮かべ、その女性は笑う。その笑みは、確かに艶やかだ。しかし見ようによっては、魔女に見えなくもない。彼女はゆっくりと手を上げると、一方を指さした。屋敷の裏の方だ。
「今から畑の世話をしてくれる? 最近忙しくて、全然世話ができていないのよ」
「ええー、そりゃないよ。俺まだ腹減って――」
「さっきあなたが食べた物は私達の朝食だったのよ! それを全部食べておいて、まだお腹が空いてるですって? あなたの胃袋は全くどうなっているのよ!」
みるみる女性の顔が般若になっていく。ウィルドはヒッと喉の奥を鳴らした。
「とにかく、畑をきちんとしてくるまでは、家に入れませんから」
女性は腕組みをし、ウィルドを見下ろした。相変わらず眉は吊り上がっている。
「ほら早く」
「ちぇっ」
つまらなそうな顔で、ウィルドはバタバタと騒がしく駆けて行った。大方、急いで終わらせて、再び朝食にありつこうとの魂胆だろう。容易に弟の思考が読み取れて、ブレットは思わず口元に笑みを浮かべた。
「あら、こんにちは」
ハッとすると、目の前に先ほどの女性が立っていた。居住まいが悪そうに視線が揺れているのは、先ほどの光景を見られた気恥ずかしさからだろうか。
「どなたでしょうか?」
しかしすぐに彼女の青い瞳は、真っ直ぐにブレットを射抜いた。自然、彼は姿勢を正した。ウィルドの兄として、だらしないことはできない。ウィルドから聞いたところ、この女性はれっきとした貴族の令嬢であると言う。弟が世話になっているのだから、彼女には呆れられたくなかった。マナーなんててんで分からないが、それでもブレットは、深く頭を下げた。
「ブレットと申します。ウィルドの兄です」
「……ウィルドの、兄……?」
女性はきょとんとした顔でもう一度繰り返した。
「え……えっと、さっきの……あの子の?」
「はい。ウィルドが世話になっていると聞いていたので、今日ご挨拶に……と思ったんですけど、その」
彼女の表情から、ブレットは何となく察した。
「ウィルドから聞いてませんか……?」
「……少々お待ちください」
しばらく目を閉じたのち、彼女はそれだけ言うと、颯爽とブレットの前から姿を消した。彼女が向かったのは、屋敷の裏。
「ウィルドー!!」
暗い森に、甲高い女性の声が良く響いた。