第十七話 一難去ってまた一労
113:空白の時
ラッセルの仕事場は、大通りから逸れた裏通りにあった。両隣の高い建物に阻まれたその店は、ひどく窮屈そうに見えた。周囲には大通り程ではないものの、こぢんまりとした商店が立ち並んでおり、それに目を奪われていては、思わず見落としてしまいそうなほどの存在感だった。
「ここ……よね」
「そうみたいですね」
アイリーンは地図と目の前の店とを見比べながら、少々気後れしていた。店は頑なに綴じられていて、中の様子を垣間見ることはできない。これじゃあお客も寄って来ないのでは、と思ったが、今はそのようなことを考えている暇はない。
「ステファン、先にどうぞ」
アイリーンは快く道を譲った。ステファンは眉をひそめる。
「どうしたんですか、急に。姉上が先に行ってくださいよ」
「だ、だって……少し、気まずいじゃない。その分ステファンなら大丈夫でしょう? 今日あの人と会ったんだし」
「どうせこれからたくさん話すことになるんですよ。今のうちから尻込みしていてどうなるんです」
「尻込みなんかしていないわよ!」
全くな言い様に、思わずアイリーンは声を挙げた。するとステファンもにっこり笑う。
「じゃあお先にどうぞ」
「…………」
引くに引けず、アイリーンは大人しく先陣を切った。ここで駄々を捏ねていても仕方がない。
そっと扉を開くと、ドアにつるされている玩具がカラカラ鳴った。おずおずと顔を覗かせる。
「こんにちは」
人の気配はないようだ。誰もいないのなら、入ったらまずいかしら、とアイリーンは後ろを見たが、すぐにステファンと目が合った。彼は何も言わないが、彼の瞳は言っている。早く行け、と。
思い切って中へ入ると、木製の香りが二人を包み込んだ。思わずアイリーンはほう、と息をつく。
アマリスの花屋も気持ちを落ち着かせる香りだが、ここもまた、違った意味で心が穏やかになった。
「どわっ!」
と思っていたら、カウンターで大袈裟に身を起こす男がいた。目をしきりに瞬かせながら、ポカンと口を開けている。
「何だなんだ……随分珍しいお客さんだなあ」
「あ……こんにちは。私、リーヴィス=アイリーンと申します。ラッセル……さんはいらっしゃいますでしょうか」
「ラッセルさん? ああ、まあいるっちゃいるけど……。知り合いかい?」
「ええ……まあ」
躊躇ったようにアイリーンはステファンを見た。彼も不思議そうに姉を見返す。アイリーンは肩を落とすと、観念したように口を開いた。
「姪と甥です」
「姪? 甥? ……ああ、そうなんだ。親戚がいるなんて初めて聞いたなあ」
男は物珍しそうにしげしげと姉弟二人を観察する。アイリーンは居心地が悪くなってきた。
「ああ、ラッセルさんだったね。彼、奥で仮眠取ってるよ。突き当たりを右な」
「えっと……勝手に行ってもよろしいんでしょうか?」
「ああ、まあ親戚ならいいだろ。別に寝てるだけだし」
「……では失礼します」
頭を下げると、アイリーンは気まずい思いで男の横を通り過ぎた。彼は未だ、姉弟二人を興味深げにじろじろ見ていた。
ラッセルがいる部屋へ向かう途中、あちらこちらに玩具が転がっていた。何度それを踏みそうになったことか。仮にもここは玩具屋ではないのか。子供が来るだろうに、どうしてこんなにも汚いのか。
誰に向けてかはわからない怒りを抱えながら、二人は部屋に辿り着いた。静かに扉を開けると、ゆったりとした寝息が聞こえる。アイリーンはラッセルの前に仁王立ちになった。人の穏やかな眠りを邪魔するのは本望ではないが、しかし今回だけは、そんな悠長なことは言ってられない。
「ラッセルさん」
「……んん……?」
「ラッセルさん!」
「はっ……はい!?」
怒鳴るようにアイリーンが叫ぶと、機械仕掛けの人形のように、ラッセルはすぐに飛び起きた。しばしきょろきょろと辺りを見回したのち、アイリーンとステファンに目を止める。見る見るその顔が血の気を失っていった。
「……ど、どうしてここに……?」
「聞きたいことがありまして。これです」
アイリーンはずいっと巾着袋を差し出した。
「これ、どういうことですか」
ラッセルは一瞬にして目の色を変えた。
「これをどうしてあなたが」
「…………」
「全て聞かせてもらえるまで、私達ここを離れませんから」
アイリーンとステファンの揺るぎない瞳を見てか、ラッセルは観念したように肩を落とした。
「……僕が、借金した話は知ってるよね? いい年して、職にも就いてなかったから、お金が無くて――」
「はぐらかさないでください。知ってますから。孤児院に寄付したから借金ができたんですよね?」
問い詰めるようにして聞くと、ラッセルは俯いて黙り込んだ。
「……どうして借金してまで寄付なんか」
呆れた様な声色になるのも仕方が無かった。借金してまて寄付するほど、あそこは価値のあるところだとは到底思えなかった。
「あそこの孤児院は……お金に困っているようだった。そのせいで、子供たちの身体はやせ細っていて、服も満足に与えられず、玩具なんてもってのほかだった。……そんな所に、君たちを預けることはできないと思った」
「…………」
やりきれない思いを吐き出すように、アイリーンはため息をついた。
どうせ、そんなことだろうとは思っていた。人を疑うということを知らないこの叔父。彼が、外面だけは良い院長を見破るなんて、できるわけがなかった。
ふい、とアイリーンは隣のステファンを見る。彼も、困った様に眉を陰ながら、しかし静かに首を振った。このまま何も知らせずに、ということだろうか。……その方がいいのかもしれない。いずれは彼の耳にだって入るかもしれないが、それは彼自身が処理することだ。お節介にも、アイリーン達が口を出すべきことではない。
「君たちを孤児院へ預けようと思ったのは……まだ、僕にやり残したことがあったから。確かにその時は、仕事すらしていなかったけど、やりたいことがあって、弟子入りをしていたんだ。そこでの修行が終わるまでは……ここで君たちと暮らすわけにはいかないと思った」
「……叔父上、以前よりも物づくりの腕が上がったみたいですよね。もしかして、その修行ですか?」
パッとラッセルは嬉しそうに顔を上げた。しかしアイリーンと目が合い、再び気まずそうに俯く。
何よ……そんなに嫌そうにしなくたっていいじゃない、とアイリーン。彼女は自身の顔が厳しくなっていることには気づいていなかった。
「……うん、そうだ。僕は頭を使うことは得意ではなかったけれど、物を作ることは好きだったんだ。玩具であったり、椅子であったり、箪笥であったり……。だから、そこで一人前になるまでは、帰って来れないと思った。君たちと暮らすには、それ相応の仕事も必要だし、お金もいる。僕には……それ以外、方法が無かったんだ。だから君たちを……孤児院に。一年……一年したら、戻ってくるつもりだったんだ。でも、君たちを預けた後、屋敷に帰ったら――」
言いづらそうにラッセルは口ごもる。ステファンは静かにその後を引き受けた。
「もう既に物が無くなっていた、ですか?」
「――っ」
ラッセルは目を見開いてステファンを見た。
「図星……ですか」
「いや……でも」
「何となくそんな予感はあったんです。僕ら……あなたがいなくなったから、すぐに孤児院を抜け出したんです。いくら子供の足だからって、あなたとそう時間を開けずに僕たちも屋敷についたはず。でもその時にはもう全てが無くなっていた……。その短時間で全てを運び出したとは考えられない」
「でも……僕が、人を雇っていたということも――」
「借金してまで孤児院に寄付していた人が、どうして人を雇うお金があるんですか。普通に考えておかしいでしょう」
まあ、当時は似たようなことを嘯いていたダイアナをすっかり信用しきっていて、ラッセルを憎んでばかりしたのだが。しかしステファンはもうそんな年頃ではない。何もかもを盲目的に信じるほどの純粋さは持ち合わせていなかった。
「あなたがついたころには、全てが無くなっていた。そうすると、考えられる犯人は親戚方しかいないでしょう」
しかし、そう考えても当時は証拠が無かった。自分たちが孤児院に預けられた理由も、叔父が姿を消した原因も分からなかった。
「……僕が屋敷に辿り着いた時、まだ親戚たちが数人残っていたよ。何もかも剥ぎ取ろうとしている真っ最中だった。彼らに話を聞いた」
ラッセルは強く唇を噛んだ。
「彼らは……僕が借金の申し込みをしている所を目撃していたんだ。彼らは……僕がこの家の財産を全てわがものとしていると勘違いしたんだ。だから……その前に、自分たちの分け前だけでも貰おうとしていた……んだと思う」
「分け前? 分け前を持って行っただけにしては、随分な有様だったと思いますけれど」
「人数が……人数だったから、たぶん……」
再び険悪な雰囲気になっていた。姉の考えていることが分からず、ステファンは慌てた。話題を変えようと、明るい声を努めて出した。
「あ……でも結局どうして叔父上は今になるまで帰って来なかったんですか? やはり、僕たちに会わせる顔が無いと思って?」
「いや……それもあったけど、一番は……皆に、返してもらおうと思って。その……宝石とかもそうだけど、少しでも兄や義姉さんの物が取り戻せるよう、各地を転々としながら……返してもらってた」
「そんなの……あなたがそこまでするほどのことでは――」
叔父は、未だに責任を感じているようだった。だからつい、ステファンにも熱が入った。思わず姉の方を振り向く。
「ねえ?」
「……馬鹿みたい」
しかし彼女の返事はステファンは想定していたものとは違っていた。更に空気が重くなる。叔父を見ると、どよーんと項垂れていた。その姿に、再び彼女はため息を落とす。
「そんなの、もうどうでも良かったのに」
「……え……?」
「確かに……家に帰ってみたら、馬車も家具も何もかもが無くなっていたことは、すごく衝撃的だった。……両親の形見も、全てなくなっていて」
ぎゅっと巾着袋を握りしめる。宝石が幾つも入っているそれは、非常にずっしりとしている。でもそれは、自分たちの数年間よりも重い物だとは到底思えない。
「でも……それでも、私達はあなたに傍にいてほしかった。ただそれだけだったのに」
一番悲しかったのは、信頼していた叔父が、そっくりそのまま消えてしまっていたこと。本当は、彼が盗んだのではないことなど、とうの昔に分かっていた。
でも、じゃあどうして彼はいなくなったの。数年間ずっと姿を見せず、見せたら見せたで謝ってばかり。
ステファンを伝って、この巾着袋がアイリーンの手に渡った時、彼女はようやく気づいた。もう……自分の中では決着がついていたのだと。いつまでも自分は両親の形見に執着しているような気になっていたが、そんなことはなかった。形ある物は、いつか無くなってしまう。だからこそ、家族を大切にしたいと思っていた。お金が無くても、物が無くなっても、家族がいれば、その楽しかった記憶さえあれば、生きていけると思っていたから。でもそこに叔父はいなかった。叔父は忽然と姿を消し、それから数年間、顔を見せようとすらしなかった。アイリーンたちは、叔父の消息すら分からないままだった。
「……ごめん」
「そうやって謝られると、まるで拒否されているように感じます。……いつも、そうでしたよね。私達が何を言ってもただあなたは一言謝って。謝ると、私達が何も言えなくなることを分かっているみたいに」
ぐうの音も出ない叔父に、姉は未だ怒り心頭だ。気まずい沈黙が漂う。
「叔父上」
このままじゃ埒が明かない。ステファンは一歩前に出た。
「姉上は、今日の夕食、一緒にどうかと言っているんです」
「は……はい!?」
アイリーンは思わす声を荒げた。
「ちょっとステファン、私そんなこと一言も――」
「そして姉上。叔父上は、喜んでお邪魔したい、と言っています」
「ちょ……ステファン?」
「もうこれでいいでしょう。お二人の誤解は解けました。後は時間が何とかしてくれます」
「そんな……簡単なことじゃ……!」
どうしてこんなにも容易に言ってのけるのか、この弟は。空白の数年間は、決してなかったことになどできないのに。
「でももう姉上は叔父上のことを許しているんでしょう? そもそも、彼は何も悪いことはしていないんですから。それにさっき姉上も言ってたじゃないですか。叔父上が傍にいてくれるだけで良かったって。今もそうなんでしょう?」
「べっ、別にそう言う意味じゃ――」
「はいはい、もうこの辺にしておきましょう。少なくとも僕は、いつまでも好奇の目で見られたくはないです」
「え……?」
戸惑う二人を前に、ステファンは黙って後ろを指さす。……そこには、好奇心丸出しでこちらを覗き込んでいる男がいた――。
「ちょ……ベネットさん! 何見てるんですか!」
「いやあ、ちょっと気になってね……。いや、俺も最初は自粛しようとしたよ? でもどうしたって耳に入ってくるんだよ、君たちの声が。だから堂々と盗み聞きをしようと――」
「開き直らないでください!」
人のいい叔父が、珍しく真っ赤になって怒っている。アイリーンはポカンとその様を眺めていた。
「あ、この後夕餉をご馳走になるんだよね? だったらもうあがっていいよ。もうそんなに大した仕事は無いし――」
「いえ、そんな訳にはいきません。最後まで責任を持ってやります」
断固とした声だった。アイリーンは咄嗟に口を開こうとして――きゅっと閉じた。ふいっと顔をそむける。
「でも叔父上――」
「仕事が終わったら……その後で、夕食をご馳走になってもいいかな」
叔父は照れたようにアイリーンを見つめていた。彼女は少しの間、躊躇ったものの、小さく頷いた。
「お好きにどうぞ」
でも自分で言って恥ずかしくなったのか、更に付け加える。
「作るのは私ではありませんから」
「何でそういうこと言うんですか……」
ステファンは呆れた様に言ったが、そんなもので治るようなら苦労はしない。
でも……その姿が、あの頃の、まだ幼い姪を彷彿とさせて。
ラッセルは、一人泣き笑いのような表情を浮かべていた。