第十七話 一難去ってまた一労

112:叔父への道のり


 ミルクを買った帰り道、丁度子爵家へと続く一本道に、ステファンは見慣れた後ろ姿を発見した。すぐに声をかけようと思ったが、彼は一瞬躊躇った。その気配を感じ取ったのか、彼女は振り返った。

「ステファン? あら、奇遇ね」
「……はい、騎士団の方はどうだったんですか?」

 ステファンは足を速め、姉の隣に並んだ。アイリーンも速度を緩めて弟に合わせる。

「すんなり上手くいったわ。調書を取られたけど、あまり時間を取られることも無かったし。孤児院の方も、上手くやってくれるそう」
「そう、ですか」
「どうかしたの?」
「あ、いえ」

 慌てて首を振り、ステファンはポケットから巾着袋を取り出した。先ほど、叔父から渡されたものだ。一人で悩むよりも、さっさと渡してすっきりした方が良いと思った。

「姉上、これ」
「なに、私への贈り物?」
「いえ、違います」

 珍しくアイリーンはからかうような声だったが、ステファンにはそれに応じるほどの元気はなかった。アイリーンはしゅんとして大人しく巾着袋を開く。しかし、中を見て言葉を無くした。

「これ……」
 日に掲げてまじまじと見つめる。

「これ、母の指輪だわ。でもこれは、昨日のあの親戚の人がしていたはず――。一体どうしたの?」
「先ほど、ラッセルさんがこれを渡してきたんです。取り返してきたと」
「……なぜ、あの人が?」
「僕にも分かりません。また、何も言わずに行ってしまいましたから」
「本当にあの人は全く……。一体何がしたいのかしら。私、あの人の思考回路が全く分からないわ」

 アイリーンは重いため息をついて頭を抱える。かと思ったら、頭を切り替えたのか、バッと顔を上げた。

「でもだからこそ一度、徹底的にあの人を追求しないとね。そうしないと収まりがつかないもの」
「僕もそう言おうと思っていました」
「決まりね」

 言いながら、アイリーンは再び巾着袋の紐を締めた。
 昔ほど、もう物に対して執着心は湧いてこなかった。両親の形見がこの手にある、という感覚も無きにしも非ずだが、だからといって、感動するほど嬉しい訳でもない。いつか消えてなくなってしまうものよりも、家族との思い出の方が大切であること、アイリーンはもう身に染みて実感していた。

「アマリスさんの所へ行きましょう。彼女、噂好きだし、何か情報が得られるかもしれないわ」
 アイリーンには何となく、予感があった。情報通である彼女なら知っているのではないか、と。

 ステファンも頷いた。何か知りたいことがあればアマリスの元へ、というのは子爵家の通例だった。

「じゃあ僕はその間に一旦家に帰ってミルクを届けに行きます。アマリスさんの店で合流しましょう」
「ミルク……何だか嫌な予感がするわね」
「そう言わないでください。エミリア、嬉しそうでしたよ?」

 諭すようなステファンに、アイリーンはう、と言葉を詰まらせる。

「……分かってるわよ。一応、私の好物だものね」
 想像しただけでも胸やけを起こしそうだが、そんな気配は微塵にも見せず、彼女は高らかに宣言して見せた。

「楽しみにしてるって伝えておいて」

*****

 例によってアマリスは、まだアイリーンが店についてもいないのにこちらに気付いた。いつもと違う所と言えば、彼女はすごい形相で走り寄ってきたことくらいか。

「アイリーン! 大丈夫かい!? 風の噂に聞いたんだけど、騎士団に捕まったそうじゃないか! どうしてこんな所に!」
「お、落ちついてください、アマリスさん。私は大丈夫です。釈放されましたし」
「だからってねえ、こんなに若い女の子が牢屋にだなんて……」

 放り出してしまった花屋へ向かっている最中も、アマリスはぶつぶつ言う。終いには、アイリーンの身体が心配なのか、肩もみまで始める始末。アイリーンもこれには苦笑いを浮かべるしかない。

「やっぱりさ、いろいろと嫌なことも言われたんじゃないの? ほら、警備騎士団ならまだしも、相手は王立の方だろ? 向こうさんも結構鼻持ちならない人たちだからね! あたしだってね、アイリーンたちのことを耳にした途端、すぐに王立騎士団の元へ飛んで行ったんだから! でも部外者は面会できないって、何だか偉ぶった人に門前払いされて……心配してたんだよ」

 珍しくアマリスの声の調子が暗い。これは本格的に心配させてしまったようだ、とアイリーンも慌てた。

「すみません、ご心配をおかけしたようで。私もすぐにこちらに顔を出せられれば良かったのですが、他にも色々……ありまして」
 正直なところ、すっかり忘れていたとは言えまい。後処理の方がこんなにも大変だとは、アイリーン自身も知る由もなかったが。

「いいっていいって、そうやって元気そうな顔を見られるだけであたしは幸せだしさ。今度、皆にもこっちに顔を出すよう言っておいて。たーんとお菓子用意しておくからさ」
「はい、皆も喜びます」

 アイリーンは笑顔で頷く。しかしその頭の中では、目まぐるしく今後のことが計算されていた。

 そういえば、すっかり忘れていたけれど、この誘拐事件で私、結構いろいろな人に助けてもらったのよね……。
 洋裁店のドロシアに、ウィルドの友達クリフ、カインにその護衛のファウスト……。

 しかしそれだけ思い起こすと、何だか先が思いやられてきて、ため息をつきたくなった。どうして揃いも揃って、純粋にお礼を言える相手がいないのだろうか。ドロシアは、お礼を言う前に何であの時逃げた!と詰られそうだし、クリフには例によって怯えられそう、カインは少なくとも釈放ともども喜んでくれそうだが、何しろファウストの方が、お礼を言ったところで嫌な顔をされそうだ。俺にはそんなつもりなど毛頭もなかった、勘違いも甚だしい、と。そんな予感がする。

「で、今日は何かあったの? 何だか……暗いみたいだね」
 今後のことにアイリーンが杞憂になっていると、アマリスが心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「また騎士団の奴らにいちゃもんでもつけられたら、あたしに言いな。あたしがバシッと言ってやるから」
 ……大方、いちゃもんだと言い切れないのが悲しい所だ。ウィルドについて届け出を出していなかったのは、完全に自分の落ち度だったし。

 アイリーンは微妙な顔になったが、すぐに頭を切り替える。今はそれどころではなかった。

「さっそくですけれど、一つ聞きたいことがあるんです」
「うん?」
「あの、私の……私の叔父の、ラッセルさんの居場所をご存知ですか?」

 アマリスはきょとんとした後、合点が言ったように手を打った。

「ああ、ラッセルさん? 知ってるよ。この間この店に来てくれてね、仕事が決まったことを報告しに来てくれたよ」
「え……? ここ――この街で仕事をしているんですか? この街に住んでいるんですか?」

 つい、アイリーンは勢い込んで聞いた。思いもよらなかった。てっきり、彼は他の街で腰を下ろすものだとばかり思っていた。
 いや、よく考えてみれば、それはおかしい。他の街に腰を下ろしたならば、アイリーンが誘拐未遂として捕まった時、彼はいち早く屋敷に来ることなどとできなかったはずなのだから。そもそも、その情報を耳に入れることすら難しいかもしれない。

「それで、あの人は今どこに住んでおられるんでしょう?」
「どこに住んでるかまでは知らないけど、彼の仕事場なら知ってるよ。待ってな、今地図を書いてあげるから」
「はい……。よろしくお願いします」

 アマリスがカウンターの中に入り、何やらごそごそし出す。アイリーンは一気に疲労が押し寄せてきたような気がして、近くの椅子に腰を下ろした。

 ここが花屋であることが、今何だか有り難かった。主張し過ぎず、他の花と香りが交わりすぎないこの店は、居心地が良かった。次第にアイリーンの心も落ち着いてくる。店の中を見渡すほどには回復していた。

「……これ」
 そして目に入る、一つのパズル。それは、窓枠に飾るように置かれていた。落ちてきた日の光に照らされ、そこだけ変わった情緒を醸し出している。明らかに幼児向けに作られただろう絵柄のそれは、アマリスの店には似ても似つかない。

「アマリスさん、これどうしたんですか? 以前には無かったものですよね?」
「ああ、それ?」

 地図を書きながら、アマリスは楽しそうに言う。

「ラッセルさんから貰ったのさ。お世話になったお礼ってだって。でもこれをあたしにどうしろって言うんだろうね。そう言ったら彼、結婚して子供ができたらあげてくれって。一体いつのことになるんだろうね!」
 アマリスは豪快に笑い声を立てた。しかしアイリーンからの返事はない。そのままそっとアイリーンを盗み見た。あんまりな無視っぷりに、少々もの寂しさを覚えたのである。アイリーンの方は、アマリスの自虐が耳にすら入ってすらいなかったようで、一心にパズルを見つめたままだった。何だか気まずくなって、アマリスはコホンと咳ばらいをした。

「それ、ラッセルさんが作ったんだってね。何だか彼らしいよねえ、仕事先も、子供向けの玩具づくりに決まったらしいよ」
「玩具……?」
「うん、ほらこれ」

 手渡されたそれは、地図だった。アイリーンはきょとんとしてアマリスを見た。

「ラッセルさんの仕事場の地図。色々と話したいこともあるんだろ? 直接言った方が早いさ」
「……ありがとうございます」

 地図を握りしめ、アイリーンは頭を下げた。いろいろと考えたいこともあったが、それよりも先に、やらなくてはならないことがある。

「姉上」
「お、ステファンか。久しぶりだね。学校はどうだい?」
「お久しぶりです。学校は……そうですね。まずまずといったところです。もうすぐ初めての試験もありますから、何とか全力を出し切りたいところですが」
「ステファンなら大丈夫だよ」

 根拠もなく言ってのけるアマリスに、ステファンは苦笑いしか出てこない。何だかその顔を見ていると、自分でも不思議なくらい自信が湧いてくるから不思議だ。

「ステファンもラッセルさんの所に行くのかい?」
「はい、そうですね。この辺りで一度、話し合っておきたいんです」
「それがいいさ。やっぱり親戚はもっておくに越したことは無いからね。何かと力になってくれるかもしれないし」
「あの人が、私達の力に……?」

 アイリーンとステファンは思わず顔を見合わせた。そんな状況になるところなど、想像もつかない。

「……ま、まあ、そろそろ行きましょうか。もうすぐ日も暮れてきますし」
「またいつでも顔見せにおいでよー。待ってるからさ」
「はい、失礼します」

 姉弟は揃って頭を下げた。アマリスも満足げだ。日が傾き始める道のりを、アイリーンたちは一歩ずつ進んだ。