第十七話 一難去ってまた一労

111:山積みの問題


 言葉少なに子爵家は帰り路を進んでいた。各々思う所があるようだが、達成感という点では皆等しくあるだろう。何せ、フィリップの次に山場だったエミリアの問題が解決したのだから。

「……ふ、ふふふ」
「何だよ師匠。不気味な笑い声なんかあげて」

 ウィルドの失礼な言葉に、アイリーンは些かムッとした。しかし確かに己の口角がだらしなく上がっていることは確かなので、扇子を広げてそれを隠す。

「いえ……上手くいったな、と思って。これで私の食事事情も安泰ね」
「俺のもね。今日は一杯おかわりしよーっと」
「ウィルドはいつもじゃない」
「普段以上おかわりするの!」

 ウィルドが騎士になるために修行へ出てから、子爵家の食費は随分と減った。それだけ、彼の食欲は底が無いということを表してもいる。当時はあるだけ食べてしまうウィルドの胃袋を恨めしげに思ったことも多々あったが、いざそれが無くなってしまうと、少し寂しい気もした。

 ……ま、今日くらい大目に見てあげるわ。
 アイリーンは澄まし顔でそんなことを考えていた。

「あ……」
 しかしその当の本人、ウィルドの足が止まる。

「俺、今日ちょっと行きたいところがあるんだ」
「どこに行きたいって言うの?」
「秘密」

 悪戯っぽく彼は唇に手を当てた。瞬時にエミリアの顔が顰められる。

「可愛くなーい」
「うるさいなっ、別に可愛いと思ってやってるんじゃないし!」

 途端にウィルドは怒りだす。まあまあとフィリップが宥める傍ら、ステファンはため息をついた。

「昼餉はどうするの?」
「帰ってから食べるよ。俺の分ちゃんと残しておいてよ!」
「ウィルドじゃあるまいし」

 エミリアが唇を尖らせるが、その時にはもう彼は姿を消していた。相変わらず行動と思考が分からない少年である。しかし、彼の後ろ姿を見送った後、アイリーンもまた、ハッとした。思い出した。

「どうしたんですか? 姉上まで」
「いえ……騎士団に報告に行くのをすっかり忘れていたと思って。それに、今回の誘拐事件の結末も――って!」

 唐突にパンと手を叩く。何事か、と皆の視線が向く。

「そうよ、ウィルドの件がまだじゃない! フィリップもエミリアも上手くいったけど、ウィルドの件についてはまだ何も解決してないわ! あの子の話になると、私には言い訳もできないもの……。届け出をしていないのは確かだし……」
 どんどん視線が下を向く。弁明のしようもなかった。届け出について詰問されれば、アイリーンにはもうどうすることもできない。

「もう! いろいろと話さないといけないことがあるのに、ウィルドはもう行ってしまったし!」
 悔しくなって頭を振る。ただの八つ当たりだということは分かっていたが、しかしこのやり場のない怒りをどこへぶつければいい。

「まあまあ姉御、一旦帰ってから話すことにしましょうよ。ウィルドもお昼を過ぎから帰ってくるでしょうし」
「……でも、やっぱり騎士団には今から行ってくることにするわ。せめて昨日の事件についてだけでも話に行かないと」

 そう言うアイリーンの視線は虚ろだ。徐に彼女の口が動き、弱弱しい声が発せられた。

「……お腹、減った……」
「ちゃんと残しておきますから。楽しみにしていてください」
「ええ……」

 弱弱しくだが、首を縦に振る。

「ウィルドに全部食べられないようにしてね……?」
「大丈夫です。姉御の分は隠しておきますから」

 そのことに、アイリーンの肩はピクリと反応した。ウィルドに食べられてしまうことだけが杞憂だったが、さすがの彼も、隠されたご飯まで平らげようとはしないだろう。

「よし、分かった、頑張って行ってくるわ。帰ったらたくさん食べるから!」
 その宣言に、呆れたように笑うのはフィリップだ。

「姉様もだんだんウィルドに似てきたね」
「……っ、ちょっとどういうこと!? 何よその聞き捨てならない言葉は!」
「そのままの意味ですわ。ねえフィリップ?」
「うん」

 連携の取れた弟妹達にうぬぬ、とアイリーンは悔しそうになる。励ます意味で、その背中をポンと叩くのはステファンだ。この弟妹達が組んで勝てる者はいないだろう、そういう意味も込められていた。

「ほら、騎士団の方へ行くんじゃなかったんですか? 早く行って、早くご飯を食べに帰ってくればいいじゃないですか。どちらにせよ、ご飯の支度には時間がかかるでしょうし」
「……ええ、そうね」

 肩を落としながらアイリーンは詰所へと向かった。自分が一番年長なのに、どうしてこういう扱いなのかしら、と理不尽に思いながら。

 ウィルドがいなくなり、アイリーンもいなくなり。
 一行はステファン、エミリア、フィリップの三人となった。この組み合わせはなかなか珍しい。

「兄様はいつまで屋敷にいられるの? 学校、大変なんじゃないの?」
「ああ、そうだね。明後日の朝から戻るよ」
「そうですか……。じゃあ、また明日の夜が最後の食事になっちゃうんですね。腕によりをかけて作らないと」
「何か買っていくものは無いよね?」
「はい、大丈夫ですわ――あっ」

 エミリアが小さく声を上げた。

「なに? 何か買って欲しいものでもあった?」
「あ、あの……では、ミルクを……」
「み、ミルク……?」

 嫌な予感がする。エミリアはもじもじと下を向いた。

「……姉御、すごくお腹を空かせてるみたいだから、シチューでも作ろうかと……」
「そ、そっか……」

 ステファンは引き攣った笑みを浮かべた。フィリップも唇を震わせている。ステファン、ウィルドがいなくなったため、実質子爵家では三人で暮らしていることになる。さぞ一人分のシチューが多かったであろうことは想像にたやすい。

「姉御、今回はすごく大変な目に遭ったと思うんです。牢にも入れられたし、フィリップの屋敷でも、孤児院でも気苦労をおかけしました。シチューくらいでそのご恩が返せるとは思っていないんですけど……それでも、少しでも、姉御の元気の源になってくれればと……」
 頬を彩らせてはにかむこの少女に、誰が否定的な意見を言えようか。

 ステファンのお腹の中で、何かが拒否の声を上げていたが、理性を総動員してそれを抑える。フィリップはと見ると、彼も辛そうな顔をしていたが、ステファンに向かって頷いて見せた。
 同士よ……!

「――うん、分かった。市場でミルクを買ってくるよ。シチュー、楽しみにしてる」
「ありがとうございます! 姉御も喜んでいただけると嬉しいのですが」
「気を付けて帰ってね」
「大丈夫ですわ。もう屋敷はすぐそこですから」

 エミリアとフィリップが元気よく手を振って、ステファンを見送る。あれ、僕が見送られる立場なのか、と少々気恥ずかしく思いながらも、ステファンもそれに応え、徐に歩き出した。

 やっぱり……家っていいなあ。
 国立学校の寄宿舎に住み始めて数か月。仲のいい同室もいるし、突っかかってくる同級もいる。新しい生活はまずまずといったところだが、やはり慣れ親しんだ家族に会うと、昔が懐かしくなってくる。安心感が込み上げてくる。

 まだまだ成長途中の僕らは、きっと今のままでいることはできないだろう、でも。
 どうかそれまで、この穏やかな子爵家のままで、暮らしていきたいと、ステファンは改めて思うのだった。

 さてそろそろミルクを買いに行かなくちゃ、とステファンはいつの間にか止まっていた足を動かした。いつまでもこうしてはいられない。自分が遅れるだけ、昼食も送れてしまうのだから。
 しかしそんな彼の耳に、何やら微かな声が入って来た。

「ステファン、ステファン!」
 その声は、何やら自分を呼んでいるらしい。訝しげにきょろきょろすると、茂みから顔を出したラッセルと目が合った。思わず目を丸くする。

「叔父上……? いったいどうして」
「いや……ちょっと。アイリーンは今そこにいないよね?」
「あ……はい、今出掛けていますが。姉に何かご用でしょうか?」
「ああ! いや! そっちの方が好都合なんだ。ちょっとこっちへ来てくれるかい?」
「え……」

 少々戸惑うステファン。それもそのはず、叔父が手招きしているその場は、茂みの中。何が楽しくて、男二人で茂みの中で顔を突き合わせなければならないのか。

「は、はい……」
 結局は断ることができずに、ステファンはしぶしぶ茂みの中へ入って行った。ラッセルは頭に葉っぱを乗せながら嬉しそうにしていた。

「あの……で、どうしたんでしょう。こんな所で」
「いや、彼女、きっと僕の顔も見たくないと思うから、見られたらいけないと思って。いや、それはまあ当然のことなんだけど」

 勝手に落ち込んで、勝手に納得する。いつもと変わらない叔父だ。この人だけは、いつまでも変わらない。ステファンは腹が立ってきた。

「叔父上、いい加減何があったのか教えてくれませんか? 姉上だって、本気であなたのことを恨んでるわけじゃないんです。ただ、未だ詳しい事情を知らないから、引くに引けなくなって――」
「いや……僕には、そんな権利ないし……」

 またラッセルは勝手に顔を俯かせる。事情を知らなければ、権利も何もないのに。

「今日は、これを返しに来たんだ」
 おずおずと彼が差し出すのは、一つの巾着袋。受け取ると、それは見た目に反してずっしりと重かった。思わずステファンは叔父の顔を見る。

「これ……」
「確認してくれ」
「確認?」

 訝しげに叔父を見やるが、彼は真剣な瞳を逸らそうともしない。諦めて開くと、中からいくつか光るものか現れた。ステファンは息を呑む。

「これ……」
「君たちの両親の、形見だよ」
「形見って……でもこれ、どうして」

 中から現れたのは、幾つかの指輪やブローチ、万年筆やネクタイピンなど、細かいものばかりだ。

「もちろん全部じゃない。本当にそれが本物かもわからない。大きなものは、もう既に売られてしまっていて、行方が分からなかった。だから宝石類や日常的なものしか取り戻せなかった。……すまない」
「どうしたんですか、これは」
「……取り戻してきた」
「誰から……それは、一体誰から取り戻してきたと?」

 思う様に息ができず、ステファンは浅く呼吸を繰り返す。

「僕……僕たち、これ全部あなたが持って行ったのかと……」
 自分の借金を返済するために。

 そう、あの女性は言っていた。もちろん、今となっては彼女の言葉ばかり信用するつもりもない。が、あれ以降叔父は全く姿を現さなかった。それが、彼の返事だと思った。こうして再会してからも、彼は謝ってばかりで、弁明しようともしていない。
 何も……この人は、何も言ってくれなかった。だからこそ、ずっとそうだと思っていた。

「……僕はこれで」
 しかし再び、ラッセルは姿を消そうとしていた。あの頃のように。
 弾けるようにステファンは顔を上げた。

「――っ、待ってください。今姉上を――」
 呼んできますから。

 しかし最後まで聞くことなく、眉をへにゃりと下げて、ラッセルは去って行った。

 まただ。また、あの人は勝手に出て行ってしまって。僕たちの思いなんか知らずに。これを渡された僕たちの思いなんか知りもせずに。

 ステファンは悔しい思いで手の中の巾着袋を見つめる。
 これを見た時、姉がどう思うか、どう感じるのか、ステファンには手に取るようにわかった。だからこそ、容易に彼女に渡す決心をするのは難しいと思った。きっと……きっと、責任を感じてしまうことだろうから。