第十七話 一難去ってまた一労
110:一致団結
エミリアと二人、和やかにお茶を飲んでいると、そろりと鍵が開く音がした。そちらに首を回すと、まさにゆっくりとドアノブが回っている所だった。思わず二人は顔を見合わせた。
「――失礼いたしました」
楚々と入って来たのはもちろん院長だ。彼女の顔色は、先ほどよりは幾分か良いように見えた。話し合いで職員たちに勇気づけられたのかもしれない。
「――早速なんですけれど」
椅子に座ってすぐに院長は開口する。
「私――知りませんわ。あなたのこと」
やはりしらを切ることにしたのか。
しかしそれはアイリーンの方も想定内。
「私のことは知らないと?」
「ええ、知りません。エミリアちゃんのことも、私達は手放したりなんかしていません。気が付いたらエミリアちゃんがいなくなっていて、その後も私達は総出で彼女を探しましたが、結局見つかりませんでした。……まさか、あなたが誘拐していたなんて、思いもよりませんでしたわ」
あっけらかんと院長は言ってのける。
「私が……誘拐、と。散々な物言いですのね。契約書まで書かせておいて」
「契約書? 何のことでしょう。ただの誘拐に、契約も何もあるわけありませんわ」
ぐっとアイリーンは押し黙る。そもそも、この件についてアイリーンの方に証拠はない。傍から見れば、アイリーンの方が言いがかりをつけている様に見えるのは当然だろう。
「ということで、エミリアちゃんはここで預かります。ご丁寧に出頭してくださってどうもありがとうございますわ」
「――はい?」
「あら? 懺悔するためにここまでいらしたのではなくって? 私が数年前エミリアちゃんを誘拐したんだ、と」
「エミリアを手放すつもりはありません。もしも契約書が無いと言うのなら、もう一度契約をしてでも彼女を連れていく所存ですわ」
「姉御……!」
両手を合わせ、エミリアは感激の表情を浮かべる。何だかアイリーンの方も照れてきた。しかしそれで怯む院長ではない。むしろ、ありありと余裕を見せるかのように、ゆっくりと息を吐き出した。
「そう……ですか。やはり、話し合いでは解決しないようですね」
む、とアイリーンは瞬時に彼女の顔を見やる。それはこちらの台詞よ!
「皆さん、入って来てください」
間をおかず、院長はドアに向かって声を上げる。アイリーン達が不審に思う間もなく、ぞろぞろとそこから入って来たのは、この孤児院の職員たちだ。
「あなたを騎士団に連行させていただきます。もちろん王立騎士団に」
「……そこは警備騎士団では?」
「私達にエミリアちゃんを預かるよう申付けたのは王立騎士団の方ですわ。だったら、そちらの方に来てもらった方が話が早いでしょう?」
「…………」
この窮地で、動揺は見せてはいけない。でもどうすべきか。
アイリーンはしばし目を閉じ、逡巡する。
王立騎士団にまで出てこられたら、さすがに分が悪すぎる。彼らとはクラーク家で一戦交えたばかりだし、ウォーレンには特に目の敵にされているはずだ。これ幸いと、ウィルドの件も併せて糾弾されるかもしれない。折角フィリップの件も解決したと言うのに、そうなってしまえば、子爵家は本当に崩壊するかもしれない――。
バンッと騒がしい音に、誰もがそちらへ顔を向けた。
皆の注目を一身に浴び、逆にステファンの方は、嬉しそうに目を細めた。フィリップの時は、あまり役に立てず、それどころか皆に忘れ去られるような役回りだったが、今回は違う。自分も立派に成し遂げた。それが、どんな役回りであれ。
「やっと見つけました」
ひらひらとステファンが振るそれは。
「まさか、この僕が泥棒みたいな真似をする日が来るなんて思いもよりませんでしたよ」
「契約書? 契約書ね! 契約書だわ!」
アイリーンは歓喜の声を上げで立ち上がった。ステファンが手に持っているもの――それは、数年前、アイリーンがエミリアを引き取る際院長に書かされたものだった。
「……でも、どうしてステファンがそれを?」
「あら、何のために兄様たちをここまで連れて来たとお思いで? このために決まっているでしょう」
そう言うエミリアの表情は自慢気だ。
もともと、契約書は院長の部屋にあるだろうことは予想していた。エミリアが引き取られる際、書かれた契約書。それがなければ、証拠がないも同然だったのだから。……でも不思議と、予感があった。院長は未だ、契約書を持っている、と。彼女は見た目に反して小心者である。明らかに自分よりも格下の物には居丈高に振る舞うが、対して各上の者には、すっかり大人しくなる。……彼女が、王立騎士団に対して虚偽の申告をすること、そのことに恐れを抱いていたのは明白。
彼女だって気づかない訳ではあるまい。いつの間にか、リーヴィス=アイリーンが子供を誘拐した、という噂が次第に小さくなっていることに。もとより、この噂が出回ったのも、庶子であるフィリップを円滑に王宮に連れていくため、王宮騎士団の計画でもあった。それが失敗した今となっては、彼らにとって、アイリーンを今まで通り誘拐犯として仕立て上げる意味が無い。だからこそ、噂も自然消滅しかかっていた。王宮騎士団という後ろ盾があったからこそ、院長はそれに便乗してアイリーンを陥れることに成功していた訳だが、それが無くなってしまった今となっては。
大方、彼女は今になっても迷っていたのだろう。私怨に従って、アイリーンを誘拐犯に仕立て上げるか、自身の身の安全を最優先にするか。だからこそ、ギリギリの今になっても、契約書を処分しきれずにいた。
しかし、そうと分かっていても、問題は、どうやって忍び込み、契約書を探し出すかだった。自分たちはどうせこの部屋から一歩たりとも出られない。ならば、他の者たちを送り込むのみ。ステファンとフィリップは、見た目がいいので、簡単に相手を取りこむ――というよりは、彼らのいうことを簡単に信じてくれるような気がしていた。自分たちは親を亡くし、この孤児院に入れられることになったんですが――と。
緊急招集中で、古参の職員も院長もいない中、その孤児たちは、おそらく院長の部屋で待っているよう押し込められることも予想していた。彼女は、新参の孤児たちに、院の中をうろうろされることを嫌っている。
「一体……一体誰よ! この子を中に引き入れたのは! ちょっとキャロル! キャロルこっちへいらっしゃい!」
「えっ……私、ですか?」
「そうよ! 早く入ってきなさい!」
「……はい」
おずおずとキャロルが入って来た。その後ろにはフィリップもいる。彼の姿を目にし、更に院長か眉を吊り上げた。
「その子も!? あなたは一体何人この孤児院に引き入れたというのよ! 事の重大さが分かって!?」
「い、いえ……でも院長先生が、私室に入れておけって……」
「私のせいにするつもり!? それにあなた、この子たちを監視すらつけなかったの? そのせいで計画が台無しよ!」
「だ……だって、この子がお腹痛いって言うので、案内してあげていたら……」
「言い訳はよしてちょうだい!」
バシッと机を叩く院長。その音にキャロルはより一層怯え、フィリップの手を離した。フィリップは素早くアイリーンたちの元へ走って行った。
「ちっ」
それに悔しそうにするのは院長だ。何か手立てはないものか、とギラギラ光る瞳を彷徨わせ――ステファンが持っている契約書に、目を止めた。
「――っ!」
ステファンがあっと声を上げる暇もなく、院長は素早くその髪を奪い取った。その途端形勢が変わる。
「冗談じゃないわ、こんな紙切れ一枚で私の地位が崩れるだなんて……! 私に刃向ったこと、後悔させてあげるわ!」
そう高らかに宣言し、院長は契約書に手をかけた。誰もが息を呑んだ、その時、彼女の上から何かが降ってきた。それはなかなかに重量があるようで、院長はぐえっと苦しそうな声を上げた。
「あ……ごめん。別に上に乗るつもりはなかったんだけど」
頬をポリポリ掻く少年。それは紛れもないウィルドの姿だった。
どうして上から……とアイリーンが思わず見上げると、天井裏へ繋がっているのだろうか、確かに天井にぽっかり穴が開いていた。――いえ、問題はそこではないわ。どうしてウィルドが天井裏にいたのか……よ。
「ごめんごめん。今どくよ」
「……っ!」
ウィルドは軽い調子で謝ったが、院長は鋭い視線で睨み付けた。彼女の意識は完全にウィルドに向かっているようなので、ステファンは持ち前の影の薄さでこっそり契約書は取り返しておいた。
「いやーでも参ったよ。あそこ、全然掃除されてないんだね。蜘蛛の巣ばっか」
エミリアに嫌な顔をされていることにも気づかずに、ウィルドはパンパンと服の埃を叩いた。そんな弟に、アイリーンはため息しか出ない。どうしてこうもうちの弟はやんちゃなのかしら……と。今日という日まで孤児院の天井裏など探検しなくてもいいじゃないか。
アイリーンがそう考えていたことに気付いたわけではないだろうが、ウィルドはバッと彼女を振り向くと、抗議の声を上げた。
「あっ、師匠なんだよその顔! 俺別に遊んでたわけじゃないからね! エミリアに言われて、あの人たちの話聞いてただけだから!」
「……話?」
それは興味深い。もしかして緊急招集の内容だろうか。
アイリーンは瞬時に真剣な表情へと変え、ウィルドを見やった。彼は視線を上に向けながら、うーんと思い出していた。
「確か……確か、ちゃ……服……とか」
「着服、ね」
「お……お料理、とか」
「横領ね」
エミリアの援護によって、辛うじてウィルドの盗み聞きは功を奏した。次々に院長、職員たちの顔色が悪くなってくる。アイリーンは何が何だか、置いてけぼりな気分だが、エミリアの方はそうではないようで、一歩前へ出た。
「あなたを筆頭に、この孤児院の職員方が、国からの支援及び寄付金を懐に入れていたこと、調べればすぐにわかることですわ」
というより、もうその事実は、ウィルドの盗み聞きを聞くまでもなく知っていた。子供たちに行き当たらない物資、妙に羽振りのいい院長や職員たち、そして休憩時間に行われる、豪勢なティータイム。澄まし顔で部屋の前を通る時、彼女たちの声は良く響いた。お腹いっぱい、楽だわ、国ももっといっぱい支援金送らないのかしら、ここは普通の孤児院よりも大分孤児が密集しているって言うのに――。
「騎士団には報告させていただきます」
エミリアはきっぱりと宣言した。ここまで来た以上、見ない振りはできない。
「国からの支援金の着服……。もしかしたらあなた方は、誘拐のでっち上げよりも、こちらを暴露される方が、恐ろしいのかもしれませんね」
おほほ、と澄ました顔で笑うエミリア。その表情に戦慄したのは、何もアイリーンだけではないはず。
……何だか、私の出る幕が無いみたい。
アイリーンは少々もの寂しい気持ちで肩身を狭くしていた。意気揚々とここまできたものの、蓋を開けてみれば、エミリアや弟たちの大活躍。……私、何のためにここにいるのかしら。
「くっ……!」
力を込めて噛みしめているせいで、院長の唇はもはや血の気を失っている。ウィルドにのしかかられた後、立ち上がる機会もなくそのままでいたのだが、もうそこから立ち上がる気力もない様だった。
「一つ、聞きたいことがあります」
項垂れる彼女の傍に、エミリアがしゃがみこんだ。
「わたし……少し、見覚えがあったんです。ここの孤児院の玩具に。……これ、もしかしてどなかたらの寄付ですか?」
ふいっと顔を背け、彼女は答えようともしなかった。エミリアは更に院長の顔を覗き込む。
「黙秘するようなら……あることないこと、付け加えてもよろしいんですけどね。わたし達、少しばかり騎士の方と知り合いなので」
エミリアは悪魔の微笑みでにっこり笑う。こんな時にオズウェルのコネを出してくるとは恐ろしや。
院長も震え上がった。彼女の……この少女にかかれば、どんなことを言いふらされるか、分かったものじゃない。彼女はしぶしぶ口を開いた。
「……寄付を、受けたのよ。あの人の――彼女の、叔父に」
拙く紡ぎ出される言葉に、エミリアは納得がいったように頷いた。院長が指さしたのは、アイリーンだった。
「やっぱりそうだったんですね……。おじ様がわたし達に作ってくれた玩具、どこかで見たことがあると思ってたんです。姉御たちもこの孤児院に関わりがあるって聞いて、もしかしたら――って思って」
エミリアがにこやかに笑う。その顔が腹立たしくて、院長は鼻で笑った。この雰囲気に、水を差したい気分だった。
「あなた達もお気楽ねえ……。あの人、本当に馬鹿な人だったわ。間抜けとも言う。あなたたち子供二人をこの孤児院に入れるからって、お金もないのに寄付しようとしてさ。結局借金までこしらえて、自分でがんじがらめになって……本当、ただの馬鹿ね」
言いながらも、沸々怒りが沸き起こっているのだろうか。彼女の肩は小刻みに震えている。
「その上腹立たしいのが!」
堪え切れない思いを込め、院長は地面をバンッとたたいた。
「あの人、お金じゃなくて物資なんか送ってきて……。どっかのお貴族様みたいにさ、金だけポンと渡してくれればいいものを――」
「あの人は、たぶんそういう人だよ」
不意にフィリップが口を開いた。複雑な家庭環境に生まれ、だからこそ、人の機微に敏感な子――。
「お金よりもご飯や玩具、服や勉強道具の方が、ずっと心がこもった贈り物になる。きっと、そう思ったんじゃないかな」
「変わらない、人ですね。叔父上は」
気づけば、ステファンはそう口にしていた。
昔からあの人はそうだった。きちんとした職にも就かずに放蕩三昧なくせに、ある日ひょっこりと顔を出して、手作りの玩具を手渡したりする。
ステファンはあまり幼い頃の記憶はないが、しかし断片的には覚えていた。その時の叔父の、照れたような笑みを――。
「……行きましょうか」
いつまでも、こんな所にいる訳にはいかない。
「もう用は済んだわ。家に帰りましょう。後は騎士団の人に任せて」
アイリーンのその声には、信頼が詰まっていた。