第十七話 一難去ってまた一労
114:過去との決別
……フィリップは大人だな。
今回の事件で、ウィルドは常々そう思っていた。父親ときちんと向き直り、自分の気持ちを一生懸命伝えていた彼。
そんな彼を見ていると、ウィルドは次第に自分のことが恥ずかしくなっていった。と同時に、そのことが、彼の決心を固めることとなった。
いつまでもいつまでも胸に渦巻いていた不安が、その決心で晴れたといっても過言ではない。もう答えは出ていた。もうずっと前から心は決めていたのに。
ベイリアル通りの宿屋。
その前で、ウィルドは一人で立ち尽くしていた。勢いでここまで来たはいいが、もう一歩が踏み出せない。
「邪魔だよ。退いてくんな」
「……っ」
商人らしい太った男にウィルドは背中を押される。その勢いで、彼は宿に一歩を踏み出す。
宿の中はごった返していた。この辺りで一番宿賃がお手頃なため、人気なのだろう。人気であることと、宿自体が綺麗であることは全くの別だが。
「あの……この宿屋にブレットって人が泊まってると思うんですけど」
「はい?」
主人はウィルドを胡散臭そうな目で見やる。しかしすぐに帳簿に目を落とした。
「まあ……泊まってますがね。階段上がって右奥真っ直ぐ、突き当たりを左」
「ありがとうございます」
少々ウィルドは拍子抜けした。こんなに簡単に教えてくれるなんて、この宿屋は大丈夫なんだろうか、などとぼんやり考えながら、彼はぺこっと頭を下げた。騎士見習いに課せられる厳しい修行やマナー講習の賜物だった。
ウィルドは言われたとおり階段を上り、ブレットの部屋に向かった。そもそも彼が今宿にいるかどうかさえも分からないが、ここまで来た以上のこのこと帰ることだけはできない。
意を決して扉を叩くと、返事はすぐに返ってきた。緊張した面持ちでウィルドは部屋に入る。
「――ウィルド」
ブレットは穏やかな表情で迎えてくれた。
「ありがとう。来てくれて」
「うん」
言葉短く返事すると、ウィルドは黙りこくる。ブレットは一つしかない椅子をウィルドに進めると、自分はベッドに腰掛けた。
「もう……昼は食べたか?」
「いや。家に帰ってから食べるつもり」
「そうか……」
それ以上言葉が見つからなかったのか、しばしブレッドは押し黙る。そうして居住まいを正すと、改めてウィルドに向き直った。
「ウィルド」
「うん」
「……俺、な。ウィルドがいなくなった後、母さんに頼まれて、お前の様子を見に行こうとしたんだ。父さんからウィルドが商家に弟子入りしたって聞いて。なかなかお金が溜まらなかったから、随分遅くなったんだけど」
「うん」
「でもその商家にはウィルドはいなかった。主人には不思議そうな顔をされたよ。ウィルドなんて弟子はここにはいない。そもそも、弟子入りを希望すらされていないって」
「…………」
「街で話を聞いてみたんだ。……衝撃のことが分かったよ。父さんがウィルドに身売りさせようとしていたところは、性質の悪い人身売買組織だったんだ」
ウィルドは唇を噛んだ。もう既に知っていることだった。それでも、他人の口から聞くにはまだ傷が癒えていなかった。
「……運が悪ければ、男は鉱山で奴隷の様に働かせられるって聞いた。俺は絶望した。何でもっと早く父さんの考えに気が付かなかったんだって。何でもっと早くにウィルドを見つけ出すことができなかったんだって」
「……母ちゃんには」
「母さんには言えなかったよ。ただ、商家で元気そうに暮らしてるって、頑張ってるって伝えておいた。……涙を流して喜んでたよ」
「そっか……。ありがとう。母ちゃんには、あんまり心配かけたくなかったんだ」
病気がちな母。
病床に臥せっていない時は、いつも遅くまで畑仕事をしていた。
「ウィルド……ごめん。俺の力が足りなかったから、こんな辛い目に遭わせて……!」
ブレットは目を潤ませて弟を見つめる。涙を流す資格は自分にはないと思っていた。少なくとも、ウィルドの前では泣けない。しかしこの弟は、涙を流す気配は微塵も見せなかった。
「別に、辛くはないよ」
そう言葉を零した。
「辛かったのは……始めの頃だけ。父ちゃんに売られたんだって気づいた時だけ」
「そうだ……! ウィルド、どうやってあいつらの元から逃げ出したんだ? 今度はお前の話を聞かせてくれ。何がどうしたんだ。リーヴィスっていう人は――」
「――俺は」
静かな声だった。しかし力があった。ブレットは気圧されたように黙った。
「ある日、父ちゃんに呼び出された。真昼間、兄ちゃんたちも母ちゃんも働きに行った後だった」
「…………」
「働きに行けって。商家に弟子入りするんだって、その時は言われた」
「――っ!」
「俺、皆に挨拶したいって言った。友達にも、兄ちゃんたちにも、母ちゃんにも。でも、時間が無いって。今から行かないと船には間に合わないって言われた」
「……俺、そんなこと知らなかった」
ぽつりとブレットは言う。
「多分、母さんも知らなかったと思う。帰った時、ウィルドがいなくなってて、皆で父さんに詰め寄ったんだ。……そうしたら、ウィルドを奉公にやったって言われて……」
「俺、道中聞いちゃったんだ。男の人たちの話。俺が、鉱山で働く奴隷になるって話。もしその島へ行ったら、きっともう二度と出られないだろうって話」
ブレットが辛そうに眉根を寄せた。
「俺……怖くなって逃げ出しちゃったんだ。その後自分がどうなるかなんて、全然考えてなかった。逃げ出した俺のせいで兄ちゃんたちがどうなるかなんて全然考えてなかった」
ウィルドの表情が歪んでいく。
「俺が帰ったら、また売られるんじゃないかって、帰れなかった。俺が逃げ出したせいで、みんなが酷い目に合ってたらって思うと、素直に帰れなかった」
「ウィルド……」
「本当は、すぐにでも帰りたかったんだ。でも……でも、怖くて」
「大丈夫、大丈夫だから」
ブレットはベッドから立ち上がり、ぎこちなくウィルドの肩を抱いた。
「……ウィルドを連れてった人達、俺たちの所には来なかったよ。推測にすぎないけど、たぶんその人たち、ウィルドに話を聞かれたこと焦ったんじゃないかな。人身売買は国の法では認められてないし、それを俺たちが知って騎士団に訴えることを危惧したんだと思う」
「…………」
「ウィルドは何も悪くない。俺たち、ずっとお前の帰りを待ってたんだから」
落ち着いてきたウィルドはゆっくりと顔を上げた。ブレットと視線が交じり合う。ようやく顔が見れた。
「俺、今幸せだよ」
ブレットの顔を真っ直ぐ見て言う。ブレッドの瞳は揺れていた。
「う、ウィルド――」
「騎士になるために頑張って訓練してるし、友達だっているし、それに何より――」
「もういい、大丈夫……」
弱弱しくブレットは弟の声を遮った。
「ウィルド、このままここに暮らしたいんだよね?」
「う……うん」
ぎこちなく返事をするウィルドに、ブレットはくしゃりと笑みを浮かべた。
「何となく分かってたんだ。ウィルドはきっとこのままここに居るんだろうって。だって、ここに来た時のウィルド、すごく思い詰めた顔してるんだもんね。そりゃ、嫌な想像もするよ……」
意味もなく片手で顔を覆うと、ブレットは努めて明るい声を出そうとした。
「ウィルド、これからどうするの?」
「え?」
「騎士になりたいんだよね?」
「……うん」
小さくだが、しっかりとウィルドは頷いた。
「そっか。そうだよね。ウィルドにはウィルドの生活があるよね」
「ごめん」
「何でウィルドが謝るのさ」
顔を俯けるウィルドに、ブレットは笑う。
「母さんたちにも伝えておく。ウィルドは騎士になるために必死に訓練してるって」
「ありがとう。俺……元気でやってるって伝えて。身体も大きくなったし、身長も伸びたって」
「はいはい」
ブレットは目を細めると、改めて弟の姿を目に映した。
「俺……ちょっと安心したよ。正直な、お前はあんまり頭を使う商人には向いてないんじゃないかって思ってたから」
「……酷い言い草だな」
ウィルドは唇を尖らせた。
この素直な弟は、きっと誰かの足元を見るなんてことはできないだろう。馬鹿正直に、きっと騎士として国を、人々を守ってくれる。
「騎士……。ウィルドにすごく向いてると思う。頑張れ」
「うん。ありがとう」
ようやくウィルドは笑顔を見せた。そのことに嬉しくなり、ブレットも笑みを返す。
「いつでも会いに来いよ。俺たち待ってるから」
「うん。それはもちろん。休暇に入ったら行くよ」
「待ってる。母さんたちもきっと喜ぶな。手料理用意して待ってるから、その時には手紙、出してくれ。あ、ウィルド、字習ったか?」
「うん。師匠に教えてもらった」
「そうか、良かった。俺も、ウィルドと文通ができたらって字を習い始めたんだ。だから……もし良かったら」
「うん、絶対に書くよ」
「それと」
ブレットはまだ言葉を紡ぐ。弟の時間をまだ終わらせたくなかった。
「迷惑じゃ、なかったらなんだけど」
「なに?」
「挨拶に、行っていいかな。リーヴィスって人に会いに」
「今は駄目!」
ウィルドは思わず大声を出した。その剣幕に、ブレットは見るからにしゅんとした。
「ご……ごめん。いきなり過ぎたよな。忘れて――」
「い、いや、そうじゃなくて!」
しどろもどろになってウィルドは言う。
「会わせたくないとか、そんなんじゃなくて……。ただ今は、ちょっといろいろあってゴタゴタしてて……。もう少し後で会わせたいんだ。師匠とか、多分今兄ちゃんに会ったら混乱すると思うし……」
「師匠? 師匠って、リーヴィスさんのことだよな?」
ブレットは尋ねた。その問いに、ウィルドはこくりと首を縦に振る。
「……俺の、姉」
「姉?」
「うん。他にも家族がいるんだ。ステファンにエミリア、そしてフィリップ」
一度口を開いてしまえば、声はもう淀みなく出てきた。その顔は、どこか晴れ晴れとしていて。
「……俺は」
「え?」
「俺は、ウィルドの何なのかな」
ブレットは不安になった。聞きたくなかった。しかし聞かずにはいられない。
この少年は言う。自分にはもう兄がいると言う。新たな家族がいると言う。では、俺は彼の何なのか。
「俺の兄ちゃんだよ」
その声が、闇を切り裂いた。
「今までも、これからもずっと」
「……そっか」
ブレットはそれだけ言う。それだけで十分だった。
「ありがとう。ごめん……」
「俺も。心配かけてごめん」
窓の外はもう真っ暗だった。しかし二人の兄弟は、いつまでも固く抱き合っていた。