04:涙と叫び


「君……気づいてたんだ」
 言葉が分かるわけではないだろうに、白猫はにゃあと口を大きく開いた。

「でも古谷君はどうしたの? もうとっくに学校出ちゃったと思うよ」
 今度は返事を返すようなことをせず、優雅な動作で地面へと降り立った。そのまま僅かに開いている扉へ身を滑り込ませる。

「あ……」
 気づくと、無意識のうちに由紀はその姿を追っていた。これが猫好きの悲しき性なのか、その猫がたとえ飼い猫であっても野良猫であってもすでにこの世の者でもなくなっていてもとりあえず追いかけたくなってしまうのである。

 白猫は滅多に振り向かなかった。由紀は彼女のすらっとした肢体とお尻しか拝めなかった。綺麗な青い瞳だって見たいのに。

「ねえ、どこに行くの?」
 猫は振り向かない。返事をしない。それは分かっていた。でも手持無沙汰だったのだから仕方がない。

「もしかして古谷君の所? でもどうして私の所に来たの? ついて来てほしかったの?」
 幾度も質問を繰り返したが、白猫はうんともすんとも言わなかったので、やがて由紀は押し黙った。これを続けていても、どうせ自分はすれ違う人から妙な目で見られるだけだから。

 由紀の家とは反対方向へ歩くこと十数分。やがて白猫は小さな河原に辿り着いた。整備されていないせいか、草も伸び放題で所々にゴミが落ちている。一目で人がやって来なさそう――つまり、古谷君が好みそうだと気づいた。

 その想像は当たったようで、更に河原に近づくと、伸び切った草に埋もれるようにして古谷君の背中が見えた。寝ているのではない。四つん這いになって何かを探しているようだった。
 先ほどまではのんびり歩いていた白猫は、飼い主の姿を見つけると、途端に俊敏に動き出し、彼の肩の上に乗っかった。と同時に、何かの気配を感じたのか、古谷君が振り向いた。バッチリ目が合う。

「お前……」
「どうも」
「何でここに――」

 言いかけて、すぐにハッとしたような表情になった。再び作業に戻る。由紀の存在は無視するつもりらしい。

「探してるの?」
 言いながら由紀は近づく。彼女の腰近くまで草は伸び切っているようだ。

「私も探そうか?」
「いらない。向こう行けよ」
 素っ気なく古谷君は言い捨てる。こちらを見向きもしない。

 しばらく由紀は彼の近くでボーっとしていたが、やがて踵を返して歩き出した。第三者の出る幕ではないらしい。何となくそんな雰囲気を感じ取った。

 土手を昇り切ろうとする手前で、乱雑に置かれたスクールバッグが目に入った。言わずもがな、古谷君のものだ。何気なくその隣に腰を下ろした。そのままボーッと古谷君を眺める。視線を感じたのか、彼は振り向く。目が合った。

 聞こえたわけではないが、彼の様子から、チッと舌打ちしたのが分かった。思わず由紀は噴き出す。
しかしそれからは本格的に由紀の存在を無いものとするつもりらしく、彼がこちらを振り向くことは全く無かった。
由紀の方もそれを気にすることなく、土手に寝っ転がる。丁度良いくらいの斜面なので気持ちが良い。ゴミだらけなので、衛生面は良くないと思うが。週末になったらクリーニングに出そうと思った。

 そのまま和やかな空気に引き込まれていたらしい。気づくと、隣でガサゴソと音がした。目を開けると、隣で古谷君がスクールバッグをごそごそやっていた。
 目に入る空は、薄らと夕焼けに染まっている。ハッとして腕時計を見やったが、まだセーフ。五時前だった。

「何でまだここにいるんだ」
「うん、何となくね」

 自分でもよく分からないのだから、答えようがない。由紀がさらっと躱すと、古谷君はふっと小さく笑った。

「ストーカーみたいだ」
「失礼な」

 今回は彼の猫に連れられてきただけだ。……まあ、あの猫はついて来てほしいとも、その場に留まれとも言ってなかったのだから、結局は由紀自身の意思なのだが。

「俺のこと……怖くないのか?」
 スクールバッグを間に挟むようにして古谷君は座り込んだ。その視線はじーっと前を向いている。由紀はきょとんとして、特に何を思うでもなく口を開いた。

「やることがちっちゃいからね」
 ひゅーと二人の間を生暖かい風が吹きつけた。古谷君が微妙な顔をしているのを見てようやく由紀は自分の発言に気付く。

「あ、別に変な意味じゃなくて……ほら、不良って言ったら所構わずに喧嘩したりとか、誰かからお金巻きあげたりとか、煙草吸ったりとかいろいろ悪いことするでしょ? 古谷君はせいぜい言葉が汚かったりがさつだったりするだけだから、怖くはないって意味だよ」
「…………」

「でもこの学校のみんなに怖がられてるのは仕方ないと思うよ。羊の中に見た目狼が放り込まれたんだから」
「…………」

「ほら、この学校って意外と進学校でしょ? その中でも古谷君のだらしない恰好とか茶髪は目立つんだよ。だからみんな古谷君のこと怖がってるんじゃないかな。不良だって決めつけて」
「…………」

「でも大丈夫。きっと時間が経つにつれ、その誤解も晴れるよ。鋭いその目付きと貧乏揺すりだけでも何とかしたら、きっと皆も寄ってきてくれる」

 何だろう。慰められているのか、貶されているのか。
 何故だろう。虚しい気分になるのは。

 古谷君は複雑な面持ちでとりあえず頷いた。

 場が奇妙な沈黙に包まれる。しかし、不思議と嫌な気持ちはわかなかった。何だか、隣に座る古谷君が、古くからの友人のような、そんな不思議な心地だった。

「お前……俺のこと見かけたことあるのか?」
 唐突に古谷君が口火を切った。微睡の中にいた由紀はすぐに目を開く。

「え、何で?」
「俺のこと……見ただけで猫好きだって」
「……ああ、今朝のことか」

 言われてみれば確かに自分は、猫好きなのと古谷君に問いかけてしまった。当人にしてみれば不思議でならないだろう。あの時はすっかり同志と思いこんで話しかけてしまったのだが、とんだ誤算だった。

「え……っと、どう言えばいいのかな……」
 少しだけ言いよどむ。その際に由紀も身を起こした。何から話そうか考えあぐねた。

「私ね、ちょっとだけ霊感あるんだ」
 ふっと笑う。そう言えば、誰かにこんなことを話すのは初めてだった気がする。

「だから古谷君の猫のことも見える」
 ハッと息を呑む音がした。

「丁度一か月くらい前かな。首に赤い首輪してる真っ白い猫。その子が古谷君の肩の上に乗ってることに気付いた」
 古屋君は静かに宙を見つめていた。その表情からは何も窺えない。

「すごく綺麗な猫なのに、やっぱり欠伸はすごいよね。顔の原型が分からなくなるくらい大きな欠伸をして、その後――癖なのかな、古谷君を見てゆっくり瞬きするんだ」
 ゆっくりと古谷君の方を向く。彼の猫は、不思議そうな顔でこちらを見やっていた。

「知り合いに聞いたことある。ゆっくり瞬きするのはリラックスしてたり、あなたを信頼してるよって証だって」
 由紀がにっこりほほ笑むと、白猫も微笑んだ。どこからか、僅かに暖かい風が流れる。

「ゆ……」
「……?」
 それまで微動だにしなかった古谷君が口を開き、そして。
「ユキぃーーー!!」

 大声で叫び始めた。ビクッと由紀は肩を揺らす。思わず自分が呼ばれたのかと驚いてしまった。そして始まる押し殺したような嗚咽。

 呆気にとられた。信じてもらえるとはもちろん思っていなかったが、まさかその上を通り越して泣き始めるとは思わなかった。

「古谷君……?」
「俺の……俺の肩に、ユキがいるんだな……?」

 声が涙に塗れている。さすがに恥ずかしいのか、顔は右腕で覆われている。戸惑いながら由紀は頷いた。

「……うん」
「俺の方を向いて、ゆっくり瞬きするんだな……?」
「うん。そうだよ」
「ご……ごめんな。もう……もう俺、応えてやれねえや……」

 誰に言うでもなく、古谷君は呟いた。それにユキが反応し、飼い主の頬を舐めようとするが、当然その感触は届かない。

「でも」
 ぽつりと由紀は言葉を紡ぐ。
「でもユキちゃん、すごく嬉しそうだよ」

たとえ触ってくれなくても、反応してくれなくても、肩の上のユキは常に寄り添っていた。

「傍にいるだけで嬉しいんじゃないかな」
 返事はなかった、二人とも。

 ただ古谷君が両腕に顔を埋め、その頭に白猫が寄り添うだけだった。
 穏やかな時間。そんな中で、何気なく由紀は左腕に目をやる。途端に思考が現実に引き戻された。

「もうこんな時間?」
 思いのほか話し込んでいたようだ。時刻はすっかり五時半を回っていた。こんなこと小学生以来だ。

「ごめんね、古谷君。私門限だからもう行かなきゃ」
「あ、ああ……」
「じゃ、また明日」

 振り返ることなく由紀は一気に土手を上った。先ほどまでゆったりとしていた時間が流れていたはずなのに、急展開だ。土手を昇り切ったところで、由紀はようやく振り返った。二人はまだこちらを見ていた。古谷君とユキ、二人ともきょとんとした顔で同時に瞬きをする。

「やっぱり飼い主とペットって似るもんなんだね」
 二人に大きく手を振ると、ユキは河原を後にした。