01:かつての記憶


 真っ白い病院の中で、また一つの産声が上がった。部屋中に響き渡るそれは、力強い生命力に溢れていて、自然、理恵子の口角も上がる。もう三度目の経験ではあるが、いつだって出産は喚きたくなるほどの痛みを伴うし、また同時に、声にならないほどの感激をもたらした。

「理恵子! 大丈夫か!」

 生まれたばかりの赤ん坊と共にのんびりしていたら、病室に理恵子の夫、慶史が慌ただしく入って来た。いつもは眉間に皺をよせ、小言ばかり言う理恵子だが、この時ばかりはにっこり微笑んだ。

「ええ、大丈夫。赤ちゃんもほら、この通り元気よ」
「可愛い……可愛いなあ、お前たち!」

 慶史は限界まで頬を緩ませながら、一緒に連れてきた息子、娘の頭に手を乗せた。と同時に、彼らからブーイングが上がる。

「この高さじゃ見えない!」
「赤ちゃん赤ちゃん!」
「はいはい、そう言えばお前たちはまだちっさかったもんなあ。ほら、これでどうだ」

 幼い子供達を両腕に抱え、慶史は立ち上がった。今度は逆に高すぎて赤ん坊が小さくなってしまったが、見えないこともない。子供達はきゃっきゃと笑い声を上げた。

「名前……どうしましょう?」

 理恵子が慶史に顔を向ける。その間、二人の子供達はいそいそと理恵子のベッドに上がり、小さな赤ん坊をマジマジと眺めた。

「私が候補をいくつか考えていたのに、あなたが全然一緒に考えてくれないから」
「……そんなこと言っても、仕事が忙しかったんだから仕方がないだろう」
「あなたはいつもそう。仕事仕事で、私達のことなんか全然――」
「ほっぺー、ふくふくしてるー」
「……皺くちゃ。お猿さんみたい」

 子供達の間の抜けた感想に、夫と妻は顔を見合わせた。そして同時に思う、折角の晴れの日なのだから、今日くらいは喧嘩は止めよう、と。

「ふっ……うえええ」

 やんちゃ盛りの子供達が、遠慮なく赤ん坊をつつくので、ついには泣き出してしまった。慌てて理恵子が赤ん坊を胸に抱く。

「あたしのせいじゃないもん! 一也のせいだもん!」
「おれは何もしてない! 二葉が触ったんだ!」

 火がついたように泣き出す赤ん坊に、罪悪感を抱いたのか、子供達は互いに罪をなすりつけようとする。理恵子は困ったように首を傾げた。

「この子たち、一向に仲良くならないのねえ」
「本当、困ったもんだ」

 二人の子供――二葉と一也は、一歳しか離れていない。そのせいか、互いをライバル視し、日頃から喧嘩が絶えないのだ。一方は女、もう一方は男なのに、二葉の方の負けん気が強いせいか、いつも些細なことから喧嘩が勃発し、しまいにはは手や足が出ることもしばしばである。

「二葉がちょっと生意気なの、もしかしてお前に似たのかもな」

 だが、脳天気な父親慶史は、理恵子の悩みなどさておき、そんな言葉を放った。スッと理恵子の目が細められる。

「……そういうデリカシーのない所、私嫌いよ」
「な、なんだよ急に」
「あなたの気が利かない所とか、すぐに騙されやすい所とか、きっと一也が受け継いだんでしょうね!」
「お前だってデリカシーないじゃないか! 現に今悪口言った!」

 慶史は鬼の首を取ったように息巻いた。自分は場を和ませようと冗談を言っただけなのに、まさかそれが二倍になって返ってくるとは。

「赤ちゃん、大丈夫?」
「もう泣き止んだ?」
「――っ」

 さあ、これから戦いの火蓋が切られるかというところで、理恵子と慶史は我に返った。純粋に赤ん坊のことを心配する二つの声が、冷水のように二人に降りかかってきたからだ。
 理恵子は深くため息をつき、片手で顔を押さえた。

「子供を通して悪口言うなんて最低だわ……。もう止めましょう」
「……そうだな。俺が悪かったよ。産後なのに、酷いことを言った」
「それはお互い様よ。私もごめんなさい」

 二人揃って頭を下げ、しばらく。
 理恵子は顔を上げた。

「話は戻るけど。私、まだ諦めたわけではないのよ。仲の良い家族団らん。今は二葉も一也もやんちゃ盛りだけど、いつかきっと仲良くなってくれればと思っているわ」

 言いながら、視線を赤ん坊に戻す。まだ名もない小さな女の子に。

「この子は……一体誰に似るんでしょうね」

 気の強い理恵子か、押しの弱い慶史か。はたまた、そのどちらにも似ないのか――。

「そうだわ!」

 ふと思いついたことがあって、理恵子はポンと手を打った。

「子供達に、この子の名付け親になってもらいましょうよ!」
「はあ?」
「いいでしょう? ね、そうしましょうよ!」

 満面の笑みで、理恵子は子供達を振り返った。

「ねえ、二葉、一也。この子の名前、何が良いと思う?」
「名前?」
「ええ。この子にピッタリな名前を考えてあげて」

 考える素振りを見せたのは一瞬だった。すぐに一也が手を挙げる。

「虎! ライオン!」
「女の子だって言ったでしょう……。それにそれは名前じゃないわ」
「間抜け! 馬鹿!」
「あなたは一体どこでそんな悪口を覚えてきたの……!」

 二ヒヒと笑う二葉に、悪びれた様子はない。理恵子はため息をついた。

「少し……この子たちには難しすぎるんじゃないか? まだ七歳かそこらだろう」
「でも……もし名付け親になったら、この子達ももうちょっと落ち着きが出てくると思わない? もしかしたら、自分が姉と兄だっていう自覚も出てくるかもしれないわ」

 理恵子はベッドから身を乗り出すと、子供達に言い聞かせるよう、ゆっくりと説明した。

「私がつけて欲しい名前にはね、語尾に……子とか、美とかがつくのよ。例えば……そう、春子とか、亜由美とか、そんな風に。それでね、私としては、この子にも名前に数字を付けたいなって思うのよ。ほら、一也にも二葉にも数字が入ってるでしょう? なら、この子にも三って言う数字を入れたいのよ」

 理恵子は赤ん坊をチラリと見た。泣きつかれたのか、彼女はすやすやと眠っている。
 もともと、二葉の名前は、双葉から来ていた。だが、そっくりそのまま同じ漢字はややこしいということで、『二葉』。一也も、『かずや』という名前は決まっていたものの、折角だから、二葉とあわせて数字を入れようということで、『一也』。その流れから、理恵子は、前々から新たに生まれてくる赤ん坊にも、三という数字を入れようと思っていたのだ。

「数字……」

 二人は眉間に皺を寄せ、考え始めた。だが、突然一也が喜色を露わにしたかと思えば、彼は地面に置いていたランドセルから、漢字ドリルを取り出した。それを見て、ピクリと理恵子の頬が動く。

「まあ……それでもいいとしましょう」

 大事な娘の名付けが、漢字ドリルから選ばれるかもしれないと。
 思うところはあったが、理恵子はとりあえず見守ることにした。
 『三』というページで止め、一也はうんうんうなり始めた。その横から、二葉もドリルを覗き込む。だが、当然なことだが、小学生の漢字ドリルに、名前が載っているわけもない。しまいには面倒くさくなったのか、一也はドリルを放り出してしまった。

「やっぱり、まだこの子達には難しいかしらね」
「そりゃそうだろう。まだ名前の区別もつかないくらいだ」

 慶史はくしゃっと一也の頭を撫でた。一也は嬉しそうに彼に抱きつく。その一方で、二葉は諦めが悪かった。丁度両開きになったページを指さし、大きく叫ぶ。

「さんこ! さんこはどう!?」
「さんこ……?」

 理恵子達は、首を傾げた。
 『さんこ』。
 悪くはないが、いささか単純すぎやしないだろうか?
「さんこ! いいね、さんこ!」

 だが、何故だか一也もこれに同調した。非常に珍しい事態である。あの二葉と一也が、声を揃えて訴えてくるなんて。

「そうね、それがいいかもしれないわ」
「理恵子?」

 理恵子は観念したように笑った。子供達の感性にかけてみようと思ったのだ。何より、初めて犬猿の仲の二葉と一也が、同調した瞬間なのだから。

「でも、さんこじゃあまりにも単純だから、三子みつこはどうかしら?」
「三つの子供とかいて三子か? うーん、悪くはないが……」
「何をそんなに渋ってるの? 三子。いい名前じゃない。二葉と一也の名前にも数字が入ってるって考えると、この名前以上にしっくりくるものなんてなかなかないと思わない?」
「……なかなかあると思うけどな。それこそ、三津江とか、三千代とか」
「それじゃちょっと古くさいわ! 三子の方が可愛いじゃない!」
「そうか……?」

 慶史は未だ腑に落ちず、首を傾げた。だが、子供達や、何より妻が嬉しそうなので、自分だけ否定する理由もなく、結局慶史は頷いた。

「うん、いいんじゃないか? 三子。この子の名前は三子に決定だ」

 慶史が拳を握って二葉達を見れば、それにあわせ、彼女たちも拳を作って振り上げた。

「さんこ〜!」
「…………」

 両親の間では、娘の名前は三子だと決定はしたのだが、しかし、子供達にはまだその意志疎通ができていなかったらしい。二葉と一也は、嬉しそうにさんこ、さんこと赤ん坊に呼びかけていた。
 慶史は二葉をベッドに乗せ、一也を腕に抱える。

「困った子達だなー、この子の名前はさんこじゃない。三子だ。三子。ほら、呼んでごらん」
「さんこ!」
「うんこ!」
「こら! 今聞き捨てならないことを言ったのは誰よ!」

 理恵子の叫び声に、きゃーっと嬉しそうに子供達が笑い声を上げる。慶史は空を仰いだ。

「おいおい……大丈夫か? この調子で」
「三子よ、三子。呼んでみなさい」
「さんこ、さんこ!」
「うんこ……?」
「三子って言ったでしょう!」

 病室に、言い合う声が響き渡る。

「さんこ!」
「うんこ!」
「三子!」
「大丈夫かな、この家族……」

 慶史は遠い目でそうぼやいた。