小話1:ジェイルは語る


 今宵は、御年六歳になられるアベル殿下の誕生祭である。
 ジェイル含む近衛隊は、慣れない正装に身を包み、広間の隅で誰か怪しい者がいないかと目を光らせていた。碌に夕餉も取らないままのこの仕事なので、最中はずっと腹が鳴りっぱなしだが、それも致し方ない。誕生祭の後は使用人たちの打ち上げが予定されているため、その時まで我慢しなければならない。
 ジェイルはふっと息を吐き、視線を広間の奥へと向ける。
 主役のアベル殿下はというと、国王陛下、王妃殿下の隣で客人たちに挨拶をしておられる。誕生祭前はあんなに駄々を捏ねられていたのに、今ではその影も形もない。最中に不機嫌そうにしていないだけ立派になられたと、ジェイルはそっと服の袖で涙を拭く。
 しばらくジェイルはりりしい顔つきで広間の警護に当たっていた。しかし、不意に視界の隅で何かが動いたのを感じ、そちらに鋭い視線を向ける。

「…………」

 王妃殿下ご自慢の庭へと続くテラスには、まだ幼い子供が立っていた。ハシバミ色のカーテンに身を寄せ、じっとテーブルを見つめている。
 いくら小さな子供とはいえ、立派な侵入者だ。
 ジェイルは、その子供をどうしようかとしばし悩んだ。別に何か悪さをするでもなく、ただ羨ましそうに料理を見つめるばかりである。

「…………」

 結局、ジェイルは見て見ぬふりをすることにした。武器を持っているようには見えないし、むしろ、ただお腹を空かせているだけに見えた。細い腕を精一杯伸ばし――結局は届いていないが、どうやら肉料理を狙っているようだった。テーブルの前から人がいなくなるたび、チャレンジしているようだが、しかし、身長も腕力も足りないその身体では、目的を達成することなど不可能に見える。
 ――可愛らしい子供ではないか。
 ジェイルには妻も子供もいないが、もし自分に子供がいたのなら、あれくらいの年頃に育っていたのだろう。
 半ば親にでもなった気分でその子供を見つめていると、それは起こった。
 不意に、肉料理が空を飛んだ。傍には誰もいない。肉料理だけが、皿ごと宙を飛んでいるのだ。やがて、その肉料理は、ふわふわと宙を漂ったまま、ゆっくりとカーテンのそばに移動した。子供は嬉しそうに両手を伸ばすと、肉料理を腕に抱き込んだ。その時になって、ようやく子供は辺りをキョロキョロと見渡し、警戒するようなそぶりを見せた。自分を見つめているジェイルには全く気づかずに、子供はそのままカーテンをはためかせ、夜の外に消えていった。

「ま、魔女……!?」

 驚きのあまり、思わずジェイルは口走る。
 人里離れた村に、不思議な魔術を使う一族がいるという噂は聞いたことがあった。しかし、実際自分の目で見たものしか信じないジェイルは、それを一蹴していた。もしもそんな者たちがいるのならば、目の前に連れて来い、と。
 だが、実際に現れてしまった。肉料理を、いとも簡単に空に飛ばすことのできる者が。
 呆気にとられたのは、何もジェイルだけではなかった。
 ご令嬢に囲まれ、退屈そうにおられたアベル殿下が、いつの間にかそこから抜け出されたのか、驚いた顔でカーテンに近づかれるのが見えたのだ。テーブルとカーテンとを見比べ、何のタネも仕掛けもないことを、御自らが何度も確認されていた。

「魔女だ……!」

 なんとも輝いた瞳で、アベル殿下がそう呟かれる。初めて見る出来事に、大分興奮してらっしゃるようだ。そうして、殿下はすぐに周りを見渡された。それにあわせ、慌ててジェイルも殿下から視線を逸らす。――おそらく、この重大な事実を知っている者が、自分以外にいるのか確認するためなのだろう。しばらくして、そっとジェイルが視線を戻せば、アベル殿下は盛大に口元を緩められていた。それはそれは嬉しそうに。

 それからというもの、魔女の子供は毎年やってきた。
 毎年毎年、子供はアベル殿下の誕生祭が開かれるたびにやってきて、肉料理を盗んでいくのである。
 そして、それを嬉しそうにアベル殿下が観察なされるのもまた通例のこととなっていた。遠目から観察されるくらいならまだしも、酷いときには、御自ら手を出されるときがある。
 ある年はテーブルの前に陣取り、魔女の子が料理を盗めないようにしたり――それでも最後には退くという情けはかけていたが――、またある年は、テーブルの肉料理を全て食べつくしたり――使用人がすぐに補充したが――、去年なんかは、テラスに陣取り、魔女の子を侵入すらさせなくしたり――最後には肉料理を置き忘れるという心遣いはあったようだが――、ずいぶんなご成長ぶりであった。

 しかし、殿下のお気持ちは分からないでもなかった。
 次期国王として、厳しい教育と剣の特訓がなされる日々。精神的にも疲れる毎日の中、ふと誰かに悪戯を仕掛けたくなるときもある……のかも、しれない。

 言葉すら一言も交わさないが、アベル殿下は常にその魔女の子を気にしておられた。それはもう、お誕生日のお祝いを言うために群がって来られるご令嬢よりも。
 笑顔でご令嬢たちに対応しながらも、心の中では魔女の子を思ってニヤニヤ笑っておられるのが目に浮かぶようだった。
 我々近衛隊たちの中では、あのお二方のことはもうとっくの昔に噂になっていた。いつ痺れを切らしてアベル殿下が魔女の子に接触を図るかと、それはもう、近衛隊の間で賭け事が始まるくらいには。

 ――そうして運命のあの日。

 我々が遠くから温かく見守っていた時、アベル殿下がようやく行動を起こされたのだ。はじめ、てっきり例年のようにテラスの前のテーブルの方へ行かれたので、今年はどのような悪戯をなさるのかとドキドキしていたのだが、大方の期待を裏切り、殿下はテラスへ近づいていった。そして喜々として宙に浮いた肉料理を奪い取ると、これみよがしに魔女の子供に見せびらかされたのだ。
 カーテンの隙間から覗くアベル殿下のお顔は、それはそれはもうお気に入りの玩具を手に入れた様に嬉しそうな表情をしておられて。

 長年殿下を見守ってきたジェイルにできることはたった一つ。殿下の至福の時を誰にも邪魔されないよう、そっとカーテンを引くことだけだった。そして同時に彼はこうも思った。

 もし、アベル殿下が魔女の子を紹介するような時が来ても、自分は知らないふりをしよう、と。素直でない殿下のことだ、きっと自分と魔女の子を巡る一連の行動を、ジェイル含む近衛隊の一同全員が知っていたと知ったら、それはそれは真っ赤な顔をして落ち込むことだろうから。