06:魔女見習い、雨を降らせる

「ここ……ですか?」
「ああ、そうだな」

 目的とする街道にたどり着くと、メアリとアベル、二人は同時にため息をついた。メアリのスカート事件のせいで、途中から何とも気まずい空気が流れ、ただでさえ少なかった会話が、更に少なくなり、ほぼ無言で残りの道中をこなした。やっと目的地に着いたことで、余計な心配も気苦労も気づかいも無用となった。

 始めにアベルが颯爽と下馬し、行きと同じようにメアリに手を貸して下りさせた。

「あの、これありがとうございました」

 メアリはできるだけアベルと目を合わせないようにして外套を差し出した。

「別にいい。帰りも使うだろうから、背に掛けておけ」

 そう言ってアベルは馬を指さす。確かにそうだ、と大人しくメアリは外套を手早く畳み、鞍の上に乗せた。

「俺たちはいつ姫がここを通るのか知らない。とりあえず今は茂みにでも身を隠すか」

 すたすたとアベルはすぐ側の茂みに隠れるようにしてしゃがみこんだ。それに向かってメアリは盛大にため息をつく。

「また座るんですか? 馬に長時間乗っていたせいでお尻が痛くて痛くて……。わたし、ちょっと立っててもいいですかね?」
「止めろ、目立つ。ただでさえお前のそのローブは人目を引くのに、立ってたら一発でバレるだろ」
「きっとまだ来ませんから大丈夫ですって〜。それにわたし、喉乾いちゃったんですけど」
「……餓鬼か」

 ボソッと呟いた後で、アベルはすぐに思い至る。そうだ、こいつは餓鬼だった。

「じゃあもういい。立っててもいいから後ろの方で待機してろ。喉の渇きは我慢だ」
「あ〜もう仕方ないですね」

 ぶつぶつと文句を言いながらも後ろへ下がるメアリ。こっちの台詞だ、とアベルは心の中で叫んだ。

 そうしてしばらくして、ついに車体に隣国の紋章が刻まれた馬車の姿を確認したとき、アベルは心からの安どのため息を漏らした。いい加減メアリの相手で疲れていたので、その一行が神々しく見えた。

「ほらこっち来い。やっと王女様のお出ましだ」

 のんびりとした足取りでやってくる一行を眺めながら、アベルは後ろのメアリに声をかけた。彼女も大人しくアベルの隣に荷を隠した。

「豪華そうな馬車ですね〜」
「そりゃそうだろ。仮にも一国の姫だし」
「でも賊とかに襲われないんでしょうかね。あんな……いかにも高貴な人がいらっしゃいますよ! って宣伝してる馬車で」

 見たところ、護衛の兵は前の二頭の馬に乗っている人くらいだ。どうも少ないように感じた。
 そうメアリは思っていたが、馬車がカーブに差し掛かったところで真実を知った。

「前言撤回です。やっぱり王族の警護ってすごいですね」

 馬車の大きな車体に隠れるようにして、その後ろには武装した騎兵が列になって警護していた。その物々しい警備を見て、メアリは無意識のうちに息をつめた。見つかったらどうなるんだろう、という思いからである。隣の王子を見上げると、彼は相も変わらず平然としている。メアリ達がここにきているのは、王女の足止めをするためだ。もしそれがあの武装兵士たちにバレでもしたら……と、考えるだけ冷や汗が流れてくる。ここまできてやっと自分の危険な立場に気づいてきたメアリだった。

「そういえば殿下、あなたの警護はどうなってるんですか? 仮にも王子でしょうに」
「どうなってるんだろうな。まあここはそんなに物騒でもないし大丈夫だろ」
「そんないい加減な……」

 一国の王子がこんな適当でいいのか、そしてその警護事情も心配になってきた。メアリにとっては知ったことではないのだが、アベルといるときにでも何者かに襲われたら堪ったものではない。つくづくきちんと警護を付けてほしいと当の本人以上に憤った。

「よし、この辺りでいいだろ。雨を降らせてくれ」

 アベルは隣のメアリに目くばせした。

「はいはい」

 メアリはぶつぶつと呪文を呟いた。次第に雨雲が集まり、辺りがムワッとした湿気に包まれたと思ったら、次の瞬間には雨がしとしと降り始めていた。

「成功です! 成功しました! あんまりこの魔術は使ったことなかったんですけど、上手くいったようですね!」

 鼻歌でも歌いたい気分でメアリは隣のアベルを見上げた。しかし彼は予想に反して浮かない顔だ。

「どうかしたんですか?」
「いや……どうもなにも……これのどこが雨なんだよ」
「なっ、失礼な!」

 雨雲も何もないところで雨を降らせるという技術がどれほど難しいのかアベルには分からないようだ。それがたとえ、半径一メートルの範囲の雨でも。

「これが雨って……どんだけ局所的だよ」
「いや、立派な雨でしょう!」
「俺の目の前しか雨降ってねえよ」
「いや、それは」
「目をちょっと逸らせば他はみんな晴れ渡ってるし」
「だって」
「不自然にもほどがあるだろ」
「…………」
「肝心な馬車にさえ何の影響もねえよ」

 メアリとアベル、二人して項垂れた。メアリは折角の魔術成功をアベルに貶され、一方のアベルはメアリの奇術に頼り切った自分が馬鹿だったと落ち込み。

 両者のうち、先に立ち直ったのはメアリだった。アベルを励ましたいのか、はたまた自分の技術を馬鹿にされたのにただ腹が立っただけなのか、明るい声を出した。

「だ、大丈夫です! この雨のおかげで道ぬかるんでますし! きっとこのぬかるみに車輪が嵌まって時間稼ぎ――」

 メアリが言い終わらぬうちに、一行が通りかかった。まず初めに、先陣を切って走っていた護衛の馬二頭がぬかるみを通ったのだが。

「あの……、かかったんですけど」
 アベルが静かに呟いた。

「泥がかかったんですけど」

 歩みを止めるどころか、むしろ不幸をこうむった。

 そして次の不幸、馬車である。案の定メアリの目論む通りには事は運ばない。泥に車輪が嵌まるどころか、元気よくこちらに跳ね飛ばしてくるほどである。避難を考えるより早く、後続の護衛の騎兵がそのあとに続く。延々、嫌になるほど。

 仰々しい一行が過ぎ去るころには、すでに二人はどろっどろの泥まみれである。馬車が過ぎ去った後も、放心しすぎていてしばらく動くことができなかった。

「……馬車、行っちゃいましたね」
「ああ」

 喪失感と共に、次第に絶望が押し寄せてきた。
 すっかり無駄になってしまったこの一連の行動。

「とりあえず、戻るか」

 アベルがぽつりと呟き、立ち上がった。メアリもそれに同意し、続いて立ち上がりながら上を向くと――。

「ぷっ、殿下、顔泥まみれですよ!」

 アベルの間抜けな顔に笑ってしまった。整った顔立ちも台無しである。アベルはその顔を更に歪ませた。

「誰のせいだと思ってるんだ誰の!」
「誰って……殿下のせいじゃないですか! わたしは王宮で休憩しとこうって言ったんです。それを殿下が!」
「〜〜っ、だがお前もこんな中途半端な雨だとなぜもっと早く言わなかった! なんだこれ、つーかこれ雨っていうのか!? 雨というにもおこがましい!」
「ひどい、これでも結構重宝してるんですよ? 畑の水まきとか」
「お前の雨は畑の水やり程度か! もっとマシなことに使え!」
「マシって……! 十分すぎるほどマシな用途ですよ! この雨のおかげで何回も井戸から水を引かなくても済みますし、みんな喜んでくれますよ」
「知るか! そんなことより急いで戻るぞ! 王女よりも先にな」

 アベルは言い捨て、さっさと馬のところへ戻る。殿下から言い出したのに、とメアリは納得がいかずにグチグチと呟いた。

「ほらさっさと乗れ」

 差し出された手に渋々捕まった。未だお尻が痛い気がするが、我慢しなければならないようだ。メアリが固い鞍に腰を落ち着けると、アベルはその背中を覆う様にして手綱を握った。刹那、べちゃっと後ろで不吉な音がする。ギギギ、と音が鳴りそうなほどぎこちない動作でメアリは後ろを振り返った。アベルと目が合ったが、彼もギギギ、と目を逸らした。

「あの……今、べちゃって……」
「……気のせいだ」
「でもわたしの背中からべちゃって」
「空耳だ」

 そんな文句で惑わされるメアリではない。肩部分のローブを引っ張り、背中を見下ろすと……惨状が広がっていた。

「ど、どうしてくれるんですか! 前だけならまだしも後ろまで! 全身泥まみれじゃないですか!」
「しょうがないだろ。くっつかないと馬には乗れない。そもそもはお前の雨のせいだ」
「くっ……殿下のせいなのに、殿下が言い出したことなのにそんな言い草……。こうなったら!」

 メアリは大きな声で叫ぶと、膝に掛けていたアベルの外套に顔を擦りつけた、何度も。見ようによっては変態的なその行為は、外套の持ち主、アベルをドン引きさせるには十分だった。

「な……何やってんだよ」
「ふ……ふふふ、殿下にわたしと同じ悲しみを与えてみました」

 不敵に笑ってメアリは外套を差し出した。べったりと泥が付いたまま。その惨状にアベルは言葉を失い、そしてすぐに怒鳴り散らした。

「おまっ、お前! 何てことしてんだ! 餓鬼か!」
「殿下が素直に謝ってくれればいいものを……。見苦しくもわたしのせいにするからですよ!」
「人の恩を仇で返しやがって……! それいくらすると思ってんだ!」
「知りませんよ〜。そんなこと言うならわたしのローブだってどれだけ大切なものだと思ってるんですか!」
「それこそ知らねえよ! そんなぼろぼろのローブ!」
「物は値段じゃないんです! そんなことも分からないなんて殿下はまだまだ未熟者ですね〜」
「っ、なんだと!」
「なんですか!」

 グルル……と今にも唸り声が聞こえてきそうな睨み合いは、しばらく続いた。意外にも先に折れたのはアベルの方だった。ここは俺が大人になってやろう、とかなり上から目線でその結論に至ったのだ。

「これからは気を付けるから。王宮に帰ったらすぐに洗ってやる」
「でも……わたしの大切なローブ……」
「王宮までの辛抱だ。洗ったらすぐ綺麗になる」
「これ、わたしの一張羅なんですよ? 責任取れますか?」
「一張羅って大袈裟な……。ん? まさかお前、本当にそれしか持ってない……わけないよな?」
「え、ローブはこれだけですよ?」
「まさかとは思うが……。同じローブを毎日着てるのか?」
「はい」
「洗わずに?」
「――時々は洗いますよ、そりゃまあ、時々は」

 二度も言うメアリに、アベルはいぶかしげな視線を向けた。それに些かメアリはムッとする。

「何ですか、その目は。汚いとでも思ってるんですか」
「いや……まあ」
「否定しないんかい!」

 メアリは呆れたように突っ込みを入れた。常識知らずなこの男を畳みかけるために、続いて大きく深呼吸をする。

「あのですね、貴族方と違ってわたしたちはそんなに気軽に水なんて使えないんです。井戸は家から遠いですし、それに毎日洗濯する時間なんてありません。庶民はみんなこうですよ。それがどうしたんですか、汚いっていうんですか?」
「いや……別に汚いって言っているわけじゃ。その、驚いただけで」
「ほお〜、へえ〜、びっくりなさったんですか、そのくらいで。さすがお坊ちゃんは違いますなあ」

 嫌味の様にメアリは大袈裟に頷いて見せた。この女は人を腹立たせる天才だな、とどこか冷静なアベルがため息を漏らした。

「それにわたしから見れば今の殿下の方がよっぽど汚いですよ。ほら、そんなにくっつかないで!」

 犬でも追い払うかのようにメアリはシッシと手でアベルを制した。その行為にアベルはもちろん眉をひそめる。

「どうせもう汚いんだ、さらに汚くなっても変わらないだろ。さっさと手綱をよこせ」
「わたしよりも殿下の方が馬車に近かったので、余計汚れがひどいんですよ。近づかないでください。なんか匂いますし」

 メアリのあんまりな言い様に、アベルはひくっと口元を引き攣らせた。最後の一文は、父親が娘に加齢臭がすると言われたぐらいの攻撃力があった。多感な少年の心にひびが入る。

「その言葉、そっくりそのまま自分に帰ってくることを忘れるなよ。お前も俺と似たような状態なんだから」
「殿下ほどじゃありません。ほら手綱あげますけど、くれぐれも必要以上にわたしにくっつかないでください」

 冗談ではない。抑揚も何もないメアリのその物言いに、少しばかりアベルは打ちひしがれる。

「……くっつかないと落馬する。少しぐらい汚れが加算しても我慢しろ」
「うえ……殿下、汚い」
「俺が汚いみたいに言うな! 正確には泥だろ!」
「殿下の泥……。略して殿下が汚い」
「略すな!」

 下らない口喧嘩をしながら、二人は帰りの道中をこなす。そのせいか、行きよりも帰りは体感時間が短く感じた。王宮に着くと、ちょうど姫の馬車も似たような時間についたらしく、城の入り口で門番と何やら話しているのが目に入った。様子から察するに、どうやら泥に塗れた馬の脚や馬車の車輪を拭くよう言われているようだ。

「ほら殿下、わたしの雨のおかげで王女様が足止めされてますよ」

 メアリは得意げにアベルを見上げた。

「確かにあんな泥まみれで城内に入られたら堪りませんもんね」
「いや、そんなわけがない。相手は隣国の王女だぞ。門兵が気づいてないだけだろ」

 メアリが再び一行の方を見ると、御者が馬車の刻印を指さし、一言二言述べる。すると、門番たちは慌てて敬礼し、立ち退いた。そして姫の一行は泥を拭かないまま城内へ入っていく。その泥まみれの車輪が茶色の帯をそこらじゅうに残して。

「うわ、汚い。あれ、誰が掃除するんですかね」
「俺たちも行くぞ」

 王宮への道のりがどんどん泥に塗れていく様子を、絶望したような眼差しで見送る門番。そんな彼らを尻目にアベルたちも歩を進めた。しかしすぐに巨大な影が立ちはだかった。

「アベル様、どこへ行っておられたのですか」

 こんな巨体はそう見かけない。アベルはため息とともにジェイルを見た。彼にしては無表情を尖らせている。

「ちょっと城下まで。見学していただけだ」
「王女様が来られるこの日に限って、ですか」
「たまたまだろ。もう行くぞ」
「城下町まで行くにしろ遠駆けするにしろ、護衛はつけていただかないと」
「――今度から気を付ける」

 一瞬の後、アベルはそれだけ返した。誤魔化しきれるとは思っていなかった。

「近ごろ、アベル様は王子としての自覚をお持ちでないように思われます」

 ジェイルは後ろ姿にそう声をかけた。アベルは振り返らなかった。