17:魔女見習い、風邪をひく

 やはりというか、当然というか、アベルのせいというか、メアリは風邪をひいた。
 しかし、むしろよくここまで耐えたものだと褒め称えたいくらいである。アベルと出会ってからやたら水難事故に遭遇し、今日とて雨に降られたばかりである。風邪をひかない方がおかしいというもの。

 メアリはそう結論付けて、見慣れない部屋のベッドに身を横たえていた。

 今メアリがいる場所は、初めて見る部屋だった。アベルの部屋でもないし、エリスの部屋でもない。しかしそれなりに豪華な調度品で溢れているので、客室かもしれない。自分のような身分でこの部屋を使うことに少々気後れしながらも、しかし迷惑をかけたのだからこれくらいしてもらわなければという相反した思いが頭の中を駆け巡る。

「メアリ……大丈夫?」
「ひぃあっ!」

 ぬっと隣から顔が浮かんだので、思わずメアリは情けない声を上げた。心配そうな表情は変わらないが、エリスの口元には笑みが浮かんだ。

「大丈夫そうね」
「すみません……私もまさか倒れるとは思ってなくて。でも晩餐会の方は?」
「大丈夫よ。陛下は大変驚かれていたけど、王妃様が客室を使えって言われて」
「それは……なんとも贅沢な……」
 やはりここは客室か。
「王妃様は気にすることはないって仰ってたわ。風邪が治るまで好きに使えと」
「そうですか……あの、エリス様の方からお伝え願えますか? 大変感謝していたと」

 本当ならば直接お会いして感謝の意を述べたいところだが、一介の娘が王妃にお目通りなど、到底無理だろう。メアリは申し訳なさそうにエリスに言った。

「ええ、もちろんよ。しっかりお伝えしておくわ」
「ありがとうございます」
「それとね、さっきはごめんなさい。取り乱してしまって」

 先ほどとは大違いな殊勝な様子に、メアリは思わず笑みをこぼす。

「いいんですよ、あれくらい。むしろエリス様の方が殿下に迷惑を被ってたじゃないですか」
「そ……そうよね! 女の子に向かって足が臭いだなんて!」
「なぜあの場面であの台詞が出てくるのか謎ですよね」
「そうよね、そうよね! 私は理論立てて攻めていたのに、急に身体的な特徴を言及するなんて! しかも内容は大嘘」

 エリスは呆れたように首を振り、メアリはそれを見ながらゆっくりと目を閉じた。

「あの……それでね、メアリ」
 しかし、エリスは何やら言いたいことがあるらしいく、尻すぼみに口ごもっている。不思議そうにメアリは見上げた。

「……昨日と今日、ごめんなさいね。大変な迷惑をかけて」
「何だ、そんなことですか」

 てっきり何を言われるのかと思っていたが、夜のお茶会のことのようだ。昨夜の記憶をすっかり忘れ、果てはメアリを変態嗜好があると勘違いしていたアベルとは大違いだ。

「いえ、いいんです。エリス様、ずいぶん素直になられて。わたし、嬉しかったんです」
「……そうかしら?」
「ええ。だって、何だかエリス様、いつも息苦しそうで」

 普通にエリスと出会って、普通に会話しただけではきっと分からなかっただろう。それほど、彼女の守りは強固だった。

「最初にエリス様にお会いした時、なんてお淑やかな人なんだろうって思ってました。紅茶を飲む仕草も、髪をかき上げる仕草も、一つ一つが洗練していて、ああ、これが王女様なんだなって思いました」
「な、何よ……照れるわね」
 エリスは頬を赤くし、そっぽを向いた。メアリはにこっとと笑んで続ける。

「その後、殿下がわたしともつれて倒れこんだ所にエリス様が現れて……発狂なさいましたね」
「――何が言いたいのよ。私だってあれはやりすぎたと思ってるわ。思い出しても恥ずかしい」
「あの時はどうしてこんなに取り乱してるんだろうって思いました。あんなになるほど、殿下に執心していたように見えなかったので」
「別に……アベルが好きだからってわけじゃ――」
「そうですよね、今ならわかります」

 メアリは顔を真上に向けた。自然とエリスも口を噤む。

「今ならわかるんです。どうしてエリス様があそこまで取り乱したのか」
「…………」
「自分にも好きな人がいて、でも国のためにその想いを封じ込めてまで婚約しようと思っていた。にもかかわらず、お相手は侍女とイチャイチャしていて……」

 エリスは、きゅっと更に口を引き締めた。

「きっと覚悟の違いでしょうね。生まれは同じでも、エリス様は国のことを第一に考えていて、一方で殿下は自分に素直で」

 晩餐会の前、エリスの部屋で考え抜いたはず
だった。部外者の私が、二国間の婚約に口を出すべきじゃないと。しかし、なぜだろうか。エリスの素の部分を見れば見るほど、このままではいけないという思いが身をもたげる。

「もっと、自分に素直になっていいと思います。みんなの上に立っているエリス様が幸せじゃないと、きっとみんなも幸せにならない」
「そう……かしら」
「わたし、エリス様と恋話した時楽しかったですよ」
「え……?」
「エリス様はどうでした?」
「わ、私は……」

 戸惑ったようにエリスは顔を下げる。メアリは表情を和らげた。

「エリス様、すごく女の子らしくて、表情が生き生きとしてましたよ」
「…………」
「わたし、そんなエリス様の方が好きです」

 依然としてエリスの表情は浮かないままだ。それを見、メアリはやってしまったという感情が沸き起こってくる。しかし、もう後戻りはできない。こうなったら、全力でエリスとウィリスの仲を応援するのみだ。

「わたし、エリス様の味方ですから」
 もはやアベルとか借金だとかは関係ない。純粋に、目の前の女性を応援したい。

「一緒に、頑張りませんか?」
 返事はない。しかし、彼女からは以前のような気の強さは見当たらず、ただ戸惑ったかのように瞳を揺らすだけだった。

「メアリ殿、起きていらっしゃいますか」
 その時、トントンと軽いノック音が聞こえた。メアリは心配そうにエリスを見やったが、すぐにドアの方に向き直る。

「はい、どうぞ」
「では失礼します」

 静かに入って来たのはジェイルだった。その後ろには、そっぽを向いたアベルもいる。

「お体の調子はどうですか?」
「あ、はい。もう随分気分も楽になりました」
「それは良かった。いや、私も話を聞いた時は驚きましたよ。この前までぴんぴんしていらしたのに風邪だなんて」
「馬鹿は風邪ひかないっていうのにな」
「…………」

 無言でジェイルは隣のアベルに拳骨を下ろした。痛っと情けない叫び声を上げながらアベルは、しゃがみ込んだ。メアリとしてはもうアベルの憎まれ口には慣れっこなので、どうとも思わなかったが、彼が痛がっている様子を見るのは胸がスッとした。

「そういえばメアリ殿、先日は申し訳なかった!」
「え……? な、何がですか?」

 先ほどまでにこやかにしていたジェイルが、突然思い出したように頭を深く下げるので、メアリも慌てる。

「いやはやお恥ずかしい! 酒に呑まれて年下の少女に介抱されてしまうとは!」
「あ……酒場のことですか」
「いつもはきちんと自分の飲める量を計算しているのですが、どうも殿下のお酌に気分が高揚し過ぎていたようです。本当に申し訳ない」
「いえいえ、全然いいんです! 何事もなく無事に帰って来れましたし……」
「いえいえいえ! 何かお詫びさせてください! 多感な時期の少女に半裸男の世話をさせてしまった罪は重い……!」
「そんな言い方されるとこっちが恥ずかしくなってきます! 止めてください!」

 メアリが何を言ってもいやしかし……と諦める様子がない。もういっそのことこっちが折れるか、と考えている中、コンコンと再びノックの音が聞こえた。

「メアリさん、入ってもよろしいですか?」
「え……っと、ウィリスさんですか?」
「はい。メアリさんが倒れたというので、お見舞いをと思いまして」

 メアリは慌ててエリスの方を振り返った。先ほどまで静かだったエリスは頬を赤くして俯いていた。メアリの視線を感じたのか、顔を上げると、睨み付けられる。おそらく、変な気は回すな、とでも言いたいのだろう。

「どうぞ入ってください」
「では、失礼します。あ、にぎやかだと思ったらやっぱり皆さんもいらっしゃったんですね」
 ウィリスはにこやかにベッドに近づく。

「メアリさん、お体は大丈夫ですか? それと、先日は大変失礼いたしました!」
「もういいですって。終わったことですから」

 訪れる人が皆口々に誤ってくるので、何だかおかしくなってくる。昨日は……というか、主にアベルの緊縛趣味発言により、腹は立っていたが、酒場でのことは別に怒ってはいなかった。呆れはしていたが。

「エリス様、メアリさんの所へ行くのなら一言言ってほしかったですね。部屋にいらっしゃらないことに気付いた時、すごく焦ったんですよ」
「そ、れは……ごめんなさい。次から気を付けるわ」

 ぎこちない。普段と比べると確かにぎこちない。が、普段と比べると遥かにその表情が女の子らしい気がする。
 この様子だと、お節介メアリが口を挟む間もないかもしれない。

 穏やかに微笑むと、長い間起き上っていた身をベッドにゆっくりと横たえた。少し、自分の体調を過信し過ぎたのかもしれない。先ほど目を開けた頃よりも熱が上がっているような気がして、そっと目も閉じる。そんなメアリの耳に聞こえてくるものがあった。

「そういえば、アベルは謝ったの?」
 エリスの声だった。

「はあ? 何がだよ」
「メアリによ。何だかあなた、自分から謝りそうなタイプに見えなかったものだから」
「……っ」
「図星……のようですね」
「アベルが一番迷惑をかけてたのに、ね」
「そ……そんなことないだろ。ジェイルだって……裸になってたりしなかったか?」

 アベルは薄ら靄がかかる記憶を必死に思い出した。そうしてあろうことか、師であるジェイルに矛先を変えようとする。

「いえ……私は、まあ、そうですね」
 否定しようとジェイルは言葉を模索するが、残念、事実を曲げることはできない。

「ジェイルさんはいいのよ、謝ったし。問題はあなた。迷惑をかけておきながら謝らないとは何様よ」
「うっ……!」

 アベルは言葉に詰まる。その様子を、エリスは居丈高に見下ろす。

「はい土・下・座っ、土・下・座っ!」
「なんで土下座!?」
「いいじゃない。間近で見てみたいのよ」
「どんな理由!?」
「はい土・下・座っ――!」
「あのおぉぉぉ!!」

 盛り上がる傍らで、低い声がした。一行は恐る恐るそちらへと視線を向ける。

「とりあえずー」
 間延びした口調。しかし有無を言わせない気配があった。

「もう一眠りしたいので、皆さん出て行ってくれませんか?」

 病人の部屋で騒ぐなよ。
 メアリの瞳はそう語っていた。

 一行はしずしずと退散した。