10:魔女見習い、盛り上がる 上

 うつ伏せに倒れている王子、へたり込んでいる少女、そして静かに立っている王女。ジェイルはこの状況に困惑しながらも、一番近くに立っているエリスに声をかける。

「王女殿下、いったいこの状況はどうなさったのですか?」
「え、ええ……、そうね」

 エリスが言いよどんだ。

 それはそうだ、つい先ほど婚約者の密会現場を目撃してしまったのだから。その相手の自分は怒られて当然だ、縛り首にされて当然だ……。メアリは絶望した表情で極端な思考をする。そんな彼女をチラッと一瞥し、エリスは顔を戻した。

「何でもないの。ちょっと虫が飛んできたから驚いただけ」

 その台詞に、えっとメアリは顔を上げた。そこにはいつもの様にこやかに微笑むエリスの姿があった。

「しかし……王子が倒れているようなのですが」

 困ったような顔でジェイルは尋ねた。アベルが幼少のころから剣の師を務める彼だが、昏倒する主など修練の時くらいしか見たことがない。それが、女性しかいないこの部屋で起こっている。少しばかり目を見張る光景だった。それと共に何か事件が絡んでいるかもしれないという推測も立てる。

 しかしそんな不穏な空気を、クラッシャー・メアリが文字通りぶち壊す。

「ああ、大丈夫です。顔に虫が飛んできたのに驚いて、椅子から転げ落ちただけですから」

 王子の威厳の欠片もない言い訳を、ここぞとばかりメアリは笑顔で言ってのけた。

「そう……ですか」

 いくらジェイルでもそうとしか言いようがない。後ろの兵たちも皆苦笑いを浮かべている。アベルが虫嫌いなどということは特に聞いていないが、あまり深く考えたくはない。それほど触れにくい話題だった。

「では、お二方とも、お怪我はないのですね?」
「は、はい、大丈夫です」

 本来ならば、念のため王子の方にも怪我がないのか傍に言って確かめたいものだが、目の前の二人の女性が醸し出す異様な空気にそれを言い出せずにいた。まああの王子なら大丈夫だろうとジェイルは大人しく引き下がる。――先ほどアベルに無視されたことを未だ根に持っているジェイルであった。

 一方で彼の隣にいたウィリスが、一歩前に出た。

「エリス様、お怪我がなくて何よりです。虫などは私が退治しますから、いつでもお呼びください」

 そして言い終わるとエリスに爽やかな笑みを向けた。王子にも見習ってほしいくらいだ、とメアリがエリスの方を見ると、彼女は心ここにあらずといった様子だった。その顔に、先ほどの穏やかな笑みはさっぱり窺い知れない。

「エリス様……?」
 ウィリスが心配そうにエリスの様子を窺った。

彼女はハッとしたように顔を上げた。

「え、ええ。……ありがとう」

 躊躇いがちにエリスが言葉を返すと、兵たちの一行は一礼して部屋を去って行った。小さくなっていくその足音を聞いて、やっとメアリは一息ついた。その拍子に力も抜け、ソファに倒れこんだ。同じ部屋に姫もいたことをすぐに思い出したが、もうどうでもよくなっていた。ふへぇ〜と長いため息をつく。

 そんなだらしないメアリに、エリスがつかつかと歩み寄ってきた。

「ちょっとあなた、裾が捲れてるわよ。マナーがなってないのね」

「ああ、すみません。なんせわたしは庶民ですから、生まれてこの方、マナーなんて習ったことないんです」

 どこぞの王子も姫も、マナーマナーとうるさいなとメアリは思う。庶民にマナーを習う機会、披露する機会があるわけない。

「庶民って……。あなた、ここの侍女じゃないの?」
「えー違いますよ。わたしは今日だけの臨時の侍女です」
「そう……なの。もしかして、私が来るって聞いていたから、侍女になったの?」
「んん? まあそうですね」

 若干の違和感を覚えながらメアリは答えた。どうしてかエリスの瞳が次第に生き生きとしてきたことに疑問を浮かべた。

「というか、先ほどはどうして庇ってくれたんですか?」

 あんなに発狂していたのに、という言葉はさすがに呑み込んだ。

「別に……いいじゃない。そんなことより」
 エリスのキラキラとした瞳がずいっと近寄った。

「彼とあなた、いつ出会ったの?」
「彼って……殿下のことですか?」
「そう、そこで呑気にくたばっている王子よ」

 エリスのいい加減な物言いと、その彼女に一瞥すらされないアベルに、メアリは少し同情を覚えた。

「えーっと、一週間くらい前ですかね」
「いっ……、一週間!?」
「え……そうですけど」
「し、信じられないわ……。そんなに短い期間で……」

 呆けた様にエリスは向かいのソファに座り込んだ。しかしすぐさまキラキラとした瞳を向ける。

「で、出会いを聞かせてもらってもいいかしら?」
 なぜか姫は顔を赤くして尋ねてきた。

「出会いって……。王女様、そんなこと聞いてどうするんですか?」

 まさか、話を聞いたうえで投獄!? 尋問はもうすでに始まっているのか!?

「堅苦しいわね! エリスでいいわ! 続きを話して!」
「あの……王女様」
「エリス! 続きを!」
「エリス様……。あの」
「続きを!」

 ――当然、根負けしたのはメアリだった。次第に近づいてくる般若の表情に、彼女は恐怖を覚えたのだ。

「出会い……なんて大それたものではないんですけど」

 メアリは諦めて、重々しく口火を切った。

「初めて出会ったのは殿下の生誕祭の時ですね」

 思い出すのは、意地悪気な顔と生意気な言葉の数々。初対面の時から良い印象は抱かなかった。

「せ、生誕祭!? ロマンチックね! でも主役の王子とどうやって出会ったの!?」
「え……っと、わたしが王宮に忍び込んで、そこを王子に見つかってしまったんです」
「し、忍び込んだ!? 王宮に? 兵もたくさんいたでしょう?」

 いちいち反応が大袈裟だな、とメアリは呆気にとられる。アベルと向かい合って談笑していた先ほどの姫と同一人物にはどうしても見えない。

「抜け道はもう把握済みだったんです。何しろ、もう十年近く王宮に忍び込んでますから」
「じゅ、十年? なんで、どうして!」
「そりゃあ好きだからに決まってますよ。わたし、お肉が――」
「なんて素敵なの!!」

 メアリの言葉に食いつくようにしてエリスが叫んだ。芝居がかった様子で立ち上がる。

「じゃあ恋焦がれて十年も王宮に通っていたというわけね!」
「ま、まあそうなりますかね……。せいぜい七、八年くらいですけど」
「そんなに小さい頃から……。ど、どんなところが好きなの?」
「そんな急に言われても……」

 メアリは好物のお肉を頭に浮かべる。どんな所、と言われても、おいしいからとしか言いようがない。

「言葉に言い尽くせませんね。初めて出会った時から私はもう虜だったんです」
「そう、そんなに……好きなの……」

 エリスとしてはアベルを中心に話を聞いているだけなのだが、

メアリの脳内にはお肉しかなかった。そう、十年近く忍び込んでいる、という下りから、すでにメアリの中ではお肉に話題が移り変わっていた。

「だからもう殿下の生誕祭のたびに王宮に忍び込むようになっちゃって〜」
「じゃあ一年に一回しか……?」
「そうですね。そういうの、わたしの師匠は許してくれないので、師匠の目も誤魔化さないといけないので」
「まあ、大変ね……」

 そういうの(魔女が肉を食べること)、わたしの師匠(草食)は許してくれないので、師匠の目も誤魔化さないといけないので(小遣いを貯めて外出する)。――いろいろと大切な所が説明不足なメアリだった。

「そうして何度も王宮に忍び込んでいたら、ついに今年、殿下に見つかっちゃったわけですよ」
「まあ、まあまあ! じゃあその時殿下はなんて?」
「殿下? 殿下は……何だったかな。とにかく意地悪なことばっかり言ってましたよ」
「なるほど……、噂の好きな子ほど苛めたいっていうアレね」

 エリスは納得したように呟いた。一方メアリは、過去アベルがどんな所業をしていたのか必死に思い出していた。目の前の隣国の王女様は、どうしてか自分のお肉の話に食いついてくれるので、アベルに対しての不満も聞いてくれるのではないか、という思いからだった。

 幸い、アベルとの衝撃の出会いは一週間も経っていない頃の出来事だったので、少々頭が残念なメアリでも容易に思い起こせた。

「あ、思い出しました! そう言えば不法侵入だとか盗人だとか散々な物言いをされたんでした!」
「一目で気に入っちゃったから束縛したかったのね!」
「本当迷惑なんですよ! 束縛どころか、牢獄に入れるぞとか脅してきましたし!」
「まあまあ! 噂のヤンデレ!?」
「しかも部屋に連れ込まれて、押し倒されて!」
「まあまあまあ! 噂の床ドン!!」
「挙句にその現場を殿下の師匠に見られてしまって!」
「きゃー! 保護者公認!?」

 もうどこを突っ込めばいいか分からない……。それほどまでに彼女たちの女子トークは盛り上がっていた。メアリとしてはアベルに対しての不平不満を吐露しているだけなのだが、脳内がお花畑なエリスは、その全てを恋愛に変換していた。それにより、肝心な内容が全く噛み合っていないことに二人とも気づいていなかった。

「俺が……俺が突っ込んでもいいのか?」

 実はずいぶん前から意識を取り戻していた王子、アベル。しかし何やら話がとんでもない所へ進んでいることに驚きそしてタイミングを失い、今の今まで突っ込むどころか、声をかけることすらできないでいた。

 しかしそろそろアベルも体の限界。いい加減うつ伏せに寝ころんでいるのはきつい。それにいつまでも気を失ったフリを続けていたら、心配に思った彼女たちに医者でも呼ばれてしまうかもしれない。よし、とアベルは起き上がる決意をする。

 一方でそんな王子の葛藤などどこ吹く風、医者を呼ぶどころか、心配もせずに談笑に浸る女子たち。アベルを心配した人への返答としては、虫に驚いて転んだ、大丈夫だ、という何とも簡単なもの。彼女たちの頭にはアベルのことなどすっかり消え失せていた。しかしそんなこととはつゆにも思わないアベルは、後に全てを知る。ジェイルに半笑いの表情で体の具合を聞かれたその時に――。

「う……うぅ〜ん……」

 どうもわざとらしいうめき声を上げながら、ゆっくりとアベルは体を起こした。それに気づいたのか、場の少女たちも彼の方を向いた。

「あれ、もう起きたんですか」
「もっとゆっくりしていれば良かったのに」

 彼女たちの心無い言葉に若干胸を痛めながらアベルは立ち上がった。

「……ああ、すまない。迷惑をかけたな」

 場を取り繕うようにアベルは咳払いをし、珍しく殊勝に謝りの言葉を述べた。

「ほんと、ほんと。殿下が倒れた後、わたし達、大変だったんですよ? 部屋に兵たちがなだれ込んでくるし」
「ジェイル様やウィリスに言い訳するのも面倒だったわ」

 女子達は互いに顔を見合わせ、ねえ〜と頷き合った。

「それに、あなたが気を失っている間、メアリから事情は聞いたわ」

 エリスは腕を組んだ。その瞳は真っ直ぐにアベルを見据えている。

「あなた、この子に様々な無体を働いたようね!」
「人聞きの悪いことを言うな!」

 アベルは思わず突っ込んだ。

「そうです、そうなんですエリス様! いくら不法侵入だからってひどいと思いませんか?」
「そうね! いくら気に入ったからって、いきなりヤンデレ発言とか床ドンとかはちょっと止めておいた方がいいと思うわ。ああいうのは物語の中だけのことであって、現実では初対面の人にそう言うことをされるのは……。ただしイケメンに限るならぬ、ただし物語に限るって感じじゃないと」

 ちょっと何言ってるかわかんないです。

 そんなアベルを置いてけぼりに、手を組んだ女子は行きつく暇もないうちにどんどん舌を回す。

「だいたい殿下は庶民の事情に疎すぎます! 毎日ローブを洗ってないくらいで汚いとか……失礼すぎます!」
「まあ、ひどいわ! 女の子に向かって汚いだなんて」
「ちがっ、別に俺は汚いだなんて言ってないだろ! 毎日洗わないことに驚いただけだ!」
「みんな毎日洗濯できるなんて思わないでくださいよ! 自分で服も洗ったこともないお坊ちゃんがっ!」
「そうよ、みんながみんな私達みたいに恵まれた環境にいるわけではないわ! 少しは自分の周りだけじゃなくてもっと遠くを見渡すことね!」
「ほんと、ほんと! エリス様! もっと言っちゃってください!」

 エリスの後ろでメアリが合の手を入れる。何だかそれに無性に腹が立つ。

「というか、私からも一言言ってもいいかしら!? 腹の虫がおさまらないのよ!」

 いや、先ほどから一言どころか集中砲火を浴びせられてるんですが……。アベルは思わず遠い目をした。

「仮にも婚約の顔合わせという名目で来ている女性を放って、他の女性ばかりちらちら見ているのは頂けなかったわ。いくら眼中にない女だからと言って会話もせずに無視するのはねぇ」

 アベルとメアリは一瞬きょとんとし、すぐに合点がいったアベルは反論をし始める。

「別にメアリを見ていたわけじゃ……!」
「えー? わたしの侍女姿に見とれてたんですか?」
「誰が! 手つきが危なっかしいから気になってただけだ!」
「気になる……。ふっ、全てにおいて、それが恋の始まりなのよ……!」

 エリスが何か言いだした。

「それに私、あの時気まずくってしょうがなかったわ〜。全っ然会話が生まれないんだもの。この沈黙どうしようかと思ったわ。眼前の殿方は他の女性に夢中だし? このまま消えちゃいたいって思ったくらいよ」
「あ、それわたしも思いました! いくらなんでもあの沈黙はひどいですよね! 同じ部屋にいるわたしまで気まずくって」
「そうそう、そうなの! 何だかメアリを見ている熱視線を私が遮るのも申し訳ない気がして? とうとう部屋を出ちゃったのよ!」
「あれは仕方ないですね〜。わたしでもそうしちゃいますよ」
「ねえ? で、庭園の方まで私を追いかけてきたと思ったら、ただじーっと黙って隣に座ってるし?」
「え、やっぱりあの時も会話なかったんですか!?」
「ええ、そうよ。――ただ一言だけ努力はしてくれたみたいだけど。趣味は何ですかって」
「あはは! やっぱり、やっぱりその質問したんですか!?」

 メアリはお腹を抱えて笑った。

「え、どういうことなの? やっぱりって」
「どうもこうも、殿下、女性と何を話せばいいかわからないって言うもんですから、わたしが趣味でも聞けばいいんじゃないですかって言ったんです。まさかそれを忠実に実行してくださるとは……!」
「じゃあもしかして、その後ずっと沈黙していたのは……?」
「わたしがそれしか助言してないからです!」

 きゃはは〜と明るい笑い声が響く。この図だけを見れば、何とも可愛らしい少女たちがにこやかに笑い合う微笑ましい図なのだが、しかしその内容が酷い。酷過ぎる。仮にも一国の王子の行動を晒して笑いものにするなど、未だかつてそんなひどい所業が行われただろうか――!?

 アベルはあまりにも非道な彼女たちの所業に、ボーッと現実逃避をし出した。そうしてそのぼんやりとした頭に、ふと浮かぶものがあった。彼の父である国王の言葉である。

「アベル……、女ほど怖いものは無いぞ。将来結婚する時、くれぐれも尻に敷かれないよう気を付けるんだぞ。お互い対等な関係を保ち続けるんだ。でないと……」

 そこで国王は一旦言葉を切った。幼いアベルは不思議に思い顔を上げると、その力強い瞳には、何か光るものが浮かんでいた。

「おっ、俺の様に形だけの国王になるぞぉ……!」

 アベルはそっと見なかった振りをしようと思ったが、そのすぐ後に聞こえてきた咽び泣きにより、台無しになった。そう、大の男――しかも一国の王――が男泣きしているのだ、息子の前で……。

 あの時のことは、幼いアベルにとって衝撃だった。そして心に留めた。自分の妃となる者は、自分自身の目で見て決めようと。決して尻に敷かれないよう大人しい女性を娶ろうと。

 眼前におわす二人の少女たちを見据え、幼き過去の決心がもう一度甦った。彼女らはアベルの理想には程遠い。付き合いは非常に短いが、それでもよくわかる。彼女らは大人しいとははるか遠くにある生き物だ。婚約を、何とか阻止せねば。

 しかも、だ。

 アベルは一旦自身を落ち着かせるために深呼吸をした。

 彼女たちはあろうことか、手を組もうとしている。明言していたわけではないが、女二人と男一人というこの状況、ターゲットをアベルに絞ろうというのも無理はない。女二人が協力しているこの状況、突破するのは至難の業だろう。ならば、もういっそのこと核心を突こうではないか。アベルは決心を固めた。