01:下女の聖女
日も差さない暗く湿った一室。そこで一人の少女と中年の女が掃除をしていた。といっても、真面目に掃除をしているのは少女だけで、女の方は使い古された椅子に腰を掛け、退屈そうに欠伸をしているだけだった。
「ちょっとぉ? 早くしてくれない?」
「はい!」
女の声に、少女は明るい返事をし、掃除の手を速めた。その様子に、女は深くため息をつく。
「ったく、なんであたしがこんな部屋を掃除しないといけないのよ。お偉いさんが来るんだか何だか知らないけど、本当面倒ったらありゃしないんだから」
「――そうですね」
少女は愛想笑いを浮かべながら控えめに頷いた。
「こんなところにいつまでもいたら、こっちまで陰気くさくなっちゃう」
「もうすぐ終わりますから」
宥めるように少女は言ったが、それももう遅かった。
階下から、何やら足音や話し声が聞こえてきたのだ。女の言う、『お偉いさん』の登場だった。
「あーもうどうするの! お偉いさんたち来ちゃったじゃないか!」
女は慌てたように立ち上がって金切り声をあげた。
「んもう! あたしはもう行くからね! くれぐれもその汚い恰好で下のえらーい人たちの前に姿を見せないこと! 分かった!?」
「はっ、はい!」
急に耳元で怒鳴られたので、少女は反射的に背筋を伸ばして返事をする。
「分かったらさっさと手を動かしな!! 全く、あんたみたいな愚図に付き合わされるこっちの身にもなってほしいよ」
なおもだらだらと文句を言いながら、女は階下へ消えた。少女はその姿が見えなくなると、思わず脱力した。
「あー疲れた……」
できることなら、先ほどまで女が座っていた椅子に自分も腰かけて休憩したい所なのだが、生憎そんな時間はない。ため息をつきながらちゃっちゃと仕事を再開するしかなかった。
よし、と声を上げると、少女は勢いよく顔を叩いた。辛い時の癖だった。
そうしてまた床拭きを再開しようと少女はくるりと回る。しかし、彼女は失念していた。先ほど、自分の足元近くに水の入った桶を置いていたことを。
「うわっ、わっ、っと!」
何とか平衡感覚を保ちながら惨事を免れようとしたが、無駄なあがきだった。ガンッと騒々しい音を立てながら、少女はついに桶に蹴躓いてしまった。バシャーッと見るも無残に水が広がる。
「あちゃー、やっちゃった」
綺麗な水ならまだしも、この水は先ほど床を拭いていた雑巾を洗った水。もう一度床を綺麗に拭きなおさなければならないことを思うと、憂鬱になってきてしまう。
本当……やんなっちゃう、私のおっちょこちょいぶりには。
少女はとある貧村に住む五人家族の娘だった。両親と兄が一人、そして弟がいる。本来ならその農家は兄が継ぐはずだったのだが、彼は商人に弟子入りしたいと姿をくらませてしまった。そのことに酷く落胆してしまった父は、それをきっかけに身体を壊し、仕事が出来なくなった。まだ小さい弟と母、そして父を養うためにも、少女は都会に出稼ぎに行くことにしたのだ。
しかし、現実はそんなに甘くはない。村娘ならだれもが憧れる貴族邸での使用人の仕事は、みな教養のある者や行儀見習いのための下層貴族令嬢たちで一杯だった。推薦状も何も持っていない少女がようやく取り付けた面接でさえも、学校に行ったことがないこと、それどころか字も読めないことが露見してしまうと、すぐさま貴族邸を追い出された。
教養もマナーもない一介の村娘には、残された仕事は少なかった。掃除婦やお針子、下働きなど賃金の少ない仕事を涙を呑んで続けるしかなかったのだ。それも、この少女の場合は運悪く不景気により住み込みの仕事すら得ることができず、仕方なく日雇いの仕事をぽつぽつとすることを余儀なくされた。その日暮らしは想像以上に厳しいもので、しかも賃金はほんの一握り。それを半分以上家族の元へと送る暮らし――たった齢一六の娘には、辛く厳しいものだった。
*****
しかしいつまでも悲嘆にくれているわけにもいかない。
よし、と再び意気込むと、少女は桶を持ってそろり、そろりと階段を降り始めた。階下には、よく分からないがたくさんのお偉いさん方が来ているらしい。彼らにこの小汚い恰好を見られてしまえば、何を言われるか分かったものではない。そう思って、こっそりと移動しようと思ってのことだった。幸い、お偉いさん方はこちらに背を向けていて、気づく様子もない。ホッとしながら少女は階段を降り切り、そして急いで新しい水を汲みに行った。少女が再び屋根裏に戻る頃には、お偉いさん方はそれぞれ目をつむり、何やら黙祷しているようだった。
少女の言う『お偉いさん方』とは、各国の使者たちのことだった。彼らはその日、儀式を執り行う予定であった。近ごろ魔物が頻繁に街や村を襲うようになり、人間達はひどく困っていたのである。言い伝えによると、この神殿に古くからある天女像が涙を流すとき、天から乙女の遣いが現れると。そうして悲嘆にくれる民を救ってくれるのだと。
その言い伝えがいつどんな時に起こるかは分からない。しかし、今現在この世界は一刻を争う状態。各国の使者たちが、藁をも掴む気持ちでここへ集まるのも無理はなかった。
厳かな雰囲気の中、長衣を羽織った老人たちが順々に祈りを捧げる。十数にも及ぶ国がある中、祈りの仕方は様々である。それどれが、天に届くか分からないので、おのおの十二分に時間を使って天女像をあがめ奉った。
しかし、いくら経っても、天女像に変化はない。
やはり無理なのか。
落胆の思いが込み上げ、使者たちは天女像を見上げた、その時。
「な、何だあれは!?」
像の瞳に、微かに光るものがあった。
「――涙だ! 天女様が涙を流しておられるぞ! 予言は本当だったのだ!」
一人の声を皮切りに、皆がワーッと歓声を上げた。感極まって涙を流す者もいる。それほどまでに、救世主は待ち焦がれていた存在だったのだ。
「うん?」
少女もまた、階下が騒がしいことに気付いた。汚い恰好でうろうろするなと言われたばかりが、好奇心に勝るものは無い。それに、端からちょっと覗くだけなら誰も気づきはしないだろう。
そう結論付けて、少女はそろりそろりと階段を降り、階下を覗き込んでみた。そして目の前の光景に唖然とする。
長衣を羽織った使者たちが、揃いも揃って礼拝をしている。――誰に?
スーッと視線を横に移動させた少女は、思わず固まった。使者たちが頭を下げる先には天女像があり、その瞳からは、水が滴っていたのだ。
少女はすぐに気づいた。その涙にも見える水は、ただ屋根裏から浸水しているだけで、神聖さの欠片もないことを。
「ど……どうしよう……」
少女も天女像の言い伝えは聞いたことがあった。天女像が涙を流すことは、大変有り難いことで、神聖なことなのだと。
ただの勘違いであったのならまだいい。だが、畏れ多くも、国宝ともいえる天女像に汚い水をかけてしまったのだ。死刑は免れないかもしれない。――いや、それだけならまだいい。もしかしたら、故郷や自分の家族までもが糾弾されるかもしれないのだ。そんなことになったら、死ぬに死にきれない。
少女は、さーっと血の気が引いていくのを感じた。どうしよう、どうしようと焦るばかりで、この事態を打破する妙案は何も思い浮かばない。
このまま素知らぬふりをすることは無理だろう。いずれ気づくはずだ。こことは違い、階下は荘厳な造りで、照明も多々設置されており、とても明るい。今は天女像の騒ぎで思考が麻痺しているかもしれないが、よくよく目を凝らせば見えるはずだ。天井から水が滴り、それがいかにも天女像が涙を流しているように見えるているだけだ、と。
というか、絶対に気付く。もはや天女像は涙を流しているなんて可愛らしい表現では済まされない。号泣だ。鼻からも水は流れているし、目どころではなく頭からも水は垂れている。おかしいと思わないはずがない。
そうしてる合間に、使者たちはそれぞれ立ち上がり、嬉しそうに話し始めた。天女像が涙を流されたのだから、もうすぐ乙女の使者が来てくださるはずだ、と。
その会話は、流れるように続く。
「乙女の遣いは、どこからやってこられるという話だっただろうか」
「忘れたのか? 天から、という話だったぞ」
「天から……空からやってこられる、ということだろうか? 急いで外を捜索しなければ!」
だが、少女にとって非常に幸運なことに、彼らは列をなして、ぞろぞろと外に出て行き始めた。こればかりは言い伝えに感謝するしかない。どうかそのまま、彼らが帰ってきませんように!
のんびり手をこまねいている訳にもいかず、少女は急いで屋根裏に戻ると、慌てて床を掃除し始めた。万が一、彼らが戻ってきたときに、あからさまに床がぬれていたら、不審に思われる。そこからたどっていって、いつから天女像の涙のからくりにも気づかれるかもしれないのだ。油断は出来ない。
目にもとまらない速さで掃除を終えると、少女は掃除道具を手に持ち、一目散に階下を目指した。彼らが戻ってくる前に、逃げ出さなければ!
しかし、天は非情だった。あまりにも早く、使者たちは戻ってきてしまったのだ。
「一体いつ乙女の遣いは来られるんだ」
「外にもそんな兆しはなかったぞ」
「本当に空からやって来られるのか?」
どうやら、猜疑心に陥り、またもや神殿に戻ってきたようだった。冷静になって考えてみれば、天女像のある場所に乙女の遣いは現れるのではないか、と。
少女は固唾をのんで、彼らを見守った。どうか、どうかもう諦めて、外に行ってくれますように!
しかし、ことごとく彼らは少女の期待を裏切った。
「ここ……二階があるのか?」
一人の使者が、暗がりに設けられている階段に気がついたのだ。
「そういえばあったな……。ただの物置になっていて、すっかり忘れていたが」
「よくよく考えてみれば、神殿で一番天に近いのは、あそこなんじゃないか?」
使者が、階段を指さす。その先に繋がるは――屋根裏。
「そうだ、そうに決まっている!」
使者たちは歓声を上げ、ぞろぞろと階段へ移動し始めていた。こっそり彼らの話を聞いていた少女は飛び上がる。見つかってしまう!
慌てて部屋の中を見渡してみるが、隠れられそうな場所はない。かろうじは窓は設けてあるが、ここは二階であって、飛び降りるには少々危険すぎる。それに、窓が開いていたら誰だって不審に思うはずだ。
「どうしよう……どうしよう!」
そのときの少女の頭は、少々麻痺していたと言っても過言ではない。危機的状況に見舞われ、頭には処刑という文字がちらつく、そんな状況。
少女は、とっさにカーテンに身を寄せた。ここ以外、隠れられそうな場所はないのだから、仕方がないというもの。
だからといって、最適な隠れ場所とも言えなかった。短いカーテンからは少女の足が丸見えだったし、窓からの日の光によって、むしろ今まで以上に彼女の存在が目立つことになっている。
身を寄せて初めてそのことに気づいた少女は、今度こそ絶望した。使者たちの足音も刻一刻と迫っている。
もう終わりだ。私の人生、ここで終わりなのだと。
少女は、その場にへたり込んだ。申し訳ありませんと、跪いて許しを請うつもりだった。だが、彼女は、カーテンをしっかりと掴んだままだった。
ビリッと布が裂ける音が響いた。何が起こったのか分からない少女は、呆気にとられる。
ゆっくり、ゆっくりと、カーテンが少女の顔、身体に舞い降りていく。それと共に、使者たちが姿を現した。
「…………」
「…………」
気難しそうな顔をした使者たちと、呆然と彼らを見ることしか出来ない少女とが、相まみえる。
少女の方は、焦っていた。カーテンを上から被っているこの状況、向こう側からしてみれば、馬鹿にしてるとしか思えないはずだ。今から土下座して謝ったって、許してもらえるとは到底思えない。
対して、使者たちの方は、思わず腕で目を覆っていた。別に、恐れ多くも『乙女の遣い』を直視することが出来ずに、なんていう理由などではなく、単に彼女の後ろの窓から差す日の光が眩しかっただけである。
しかし、時に賢人は、盛大にズレた判断をすることがある。彼らもまた、そうだった。ただの日の光を、『乙女の遣い』ゆえの後光だと勘違いしてしまったのだ。天女像が涙を流されたのだから、乙女の遣いが現れるに違いない! と、なかば早急にも思える判断を下したのだ。
一人の使者が、思わずその場にひれ伏す。金縛りが解けた他の使者たちも、次々に膝を突いていった。
「聖女様ー! 我らはこのときを待ち焦がれていましたぞ! よくぞこの地においでになりました!」
「……え」
少女はただただ呆然とするばかり。そんな彼女をひとりおいてけぼりに、話はどんどん進む。
「我ら地上の民は皆、疲弊してましたのじゃ」
この国の大司教とみられる老人がゆっくりと顔だけ上げる。
「近頃激化する魔物の襲来に加え、先日新たに魔王が着任したとのこと。手をこまねいていれば、いずれ訪れる脅威に世界が乱されることは周知の事実。どうか……どうか、今一度我らをお救いくださいませ!」
ははー! とまた使者たちがひれ伏す。
この頃になると、ようやく少女の方も立ちなおりつつあった。ただ、この状況をどうしようかという悩みだけを残して。
「聖女様……!」
大司教のつぶらな瞳が少女を射貫く。まるで示し合わせたかのように、使者たちもそっと顔を上げ、少女の方を見やる。
「聖女様……」
「…………」
度重なる連呼に、少女は未だ、曖昧に微笑むことしか出来なかった。