02:湯けむり温泉地
すっかり日も落ちた中、リゼットは今宵の野営地に帰還した。
食器の入った重たいバスケットを抱えながらも、彼女がずぶ濡れで、かつ男物のマントを羽織っていたことが、メイドたちの間でかなりの物議をかもした。やれ男と密会していただの、やれ頭がおかしくなって川に飛び込んだだの。ただ真面目に仕事をしていただけのリゼットととしては、憤慨ものの内容である。
「ご苦労様」
穏やかに微笑んで、メイド長はリゼットからバスケットを受け取った。
「あら、どうしたの、その格好? ずぶ濡れじゃない」
「ちょっと足を滑らせてしまって、川に落ちちゃったんです」
ここへ来る途中、同僚のメイドたちに幾度となく聞かれた質問に、リゼットはややうんざりしながらも丁寧に答える。同僚たちはただの好奇心だが、メイド長は心の底から心配しているだけというのは、今までの経験上分かりきっていた。
「そう。でもそれじゃ風邪を引くわね。あっ、そうだわ。ちょっとこっちに来て」
メイド長は、リゼットを隅まで連れてくると、自分の身分証を差し出した。
「これ持って、湯浴みをしてきなさい。ほら、この近くに温泉が湧いてるって話をしたでしょう? 上級使用人は、その温泉を利用してもいいっていう許可を頂いているのよ。とはいえ、他の方が入らない夜中か朝方だけれど。今もまだギリギリ入れるはずよ。見張りにこれを渡して、温泉に浸かってきなさい」
「で、ですが、一介の使用人に温泉なんて……。それに、皆まだ働いているのに」
「風邪を引いたら大変だもの。良い機会だから行ってきなさい。でも、皆には内緒よ? 皆に気づかれちゃったら、私も私も! ってなりそうだもの」
メイド長は明るい笑い声を上げた。リゼットも釣られて笑う。ここの同僚達は、良くも悪くも素直な人たちが多い。メイド長の言葉通りの光景になることは、想像に容易かった。
「では、お言葉に甘えて」
「ええ。こっちはまだ大丈夫だから、ゆっくり浸かってきなさい」
「はい。お心遣いありがとうございます」
リゼットは深く頭を下げ、邪魔にならないよう、いそいそとキッチンとして利用しているテントを後にした。
外に出れば、再び冷たい風がリゼットを襲う。テント内では、常時火をたいているので、それほど寒さは感じられなかったが、外は大違いだ。リゼットは寝泊まりをしているテントから着替えを持って出ると、すぐに温泉へ向かった。
山地なので、緩やかな坂道が続いた。岩場の道は慣れなかったが、しかし、リゼットは街育ちなので、辺りの自然溢れる景色が物珍しくて仕方がなかった。岩場なので、あまり草花は咲いていないようだったが、木々はまだ青々と茂っていて、冬の訪れをそれほど感じさせなかった。
だが、水に濡れた分、冷たい風が身に染み、リゼットはぶるりと身体を震わせた。早く温かいお湯に浸からなければ、本当に風邪を引いてしまうかもしれない。
坂道を登っている途中に、ようやく看板を見つけた。近くにある村がたてたようで、温泉への道を示してくれるらしい。リゼットは、その指示に従って、人に踏み固められた山道を進んだ。
そう歩かないうちに、開けた場所に出た。周囲の木々は伐採され、目の前にポッカリと空いた空間。そこに、白い湯気をもくもくとたて、温泉が湧き出ていた。あちこちにできている岩場の窪みに乳白色の湯が溜まり、そのおがげで、この辺り一帯は仄かに温かかった。
中央の、一番大きい湯のたまり場には、目隠し用のテントが張ってあった。その隣には、それよりは少し小さいが、同じようにテントが張ってある。見るからに即席のテントで、近隣住民によるものではなく、おそらく自分たちの一行がここに滞在している間だけ張ったものだろう。何しろ、自分たちの中には、この国で二番目に地位の高い第一王子がいるのだ。やすやすと命を狙われるような場所で休憩はできないし、肌も見せられない。
その影響もあってか、普段ならば、近隣の村人達から絶大な人気を誇るのだろうこの温泉地も、今は人っ子一人いなかった。殿下が滞在する数日の間だけ、ここを使用するのを自粛するようお触れがあったのかも知れない。
なんとなく申し訳ない思いで、リゼットはそそくさとテントに移動した。近くに行けばますます温かい――いや、熱いくらいの蒸気が肌をさし、リゼットは今にも生ぬるい服を脱ぎたくて仕方がなくなった。
テントの前には、誰もいなかった。小さい方のテントの前で、しばらく人を待ってみるが、誰もやってこない。
「あのー……すみません。誰かいませんか?」
リゼットは恐る恐るテントの中にも声をかけてみる。が、中から返事はない。仕方なしに、リゼットはゆっくり垂れ幕を覗いてみた。幸いなことに――今の状況でこう言っても良いものか――中には誰もいなかった。もくもくと白い湯気がテントの中を一面覆い、温かそうな乳白色の温泉が、リゼットを悠然と待っている。
どうしたものか、とリゼットは困り果てた。おそらく、まだ湯浴みの時間ではないから、見張りも何も立っていないのだろう。
だが、見張りがいなければ、温泉に入ることもできない。誰に断るでもなく、勝手に湯浴みをすることも気が引けるし、見張りが立っていないこの状況で無防備に肌を出すのも嫌だ。リゼットはしばらくその場に立ち尽くしていた。――が、誰も来ない。見張りも、それ以外も。
くしゅん、とリゼットは小さくくしゃみをした。始めは熱く感じたこの一帯の蒸気も、慣れれば一気に濡れた服が体温を奪う。このまま、何も考えずに温泉に肩まで浸かりたいという欲がムクムクと沸き起こった。
いいじゃない、どうせ誰も来ないんだから。
そう、見張りどころか、人っ子一人見当たらないのだから、素早く温泉に浸かって、素早く服を着れば、誰にも見つからず湯浴みを終えることなど簡単だ。もし途中で誰かが来たのなら、許可はもらっていると声をかけて、そのまま見張りをお願いすれば良い。
一度そう考えてしまえば、後はもうそのことしか考えられなくなってしまった。リゼットは、コソコソと垂れ幕の中に入っていくと、思い切って仕着せを脱いだ。温泉の熱気により、それほど寒さは感じられなかったが、早く湯に浸かろうと手を早める。リゼットは、手早く髪をまとめ、ゆっくりと湯に浸かった。
痛いほどの熱さだったが、むしろそれが心地よく、リゼットは肩まで湯に沈ませた。思わず口から感慨深いため息が漏れる。
「ああー……」
湯に浸かったのは、生まれて初めてだった。
リゼットはしがない商人の家に生まれた。家に浴槽はあったが、そこまで湯を運ぶ手間を惜しみ、誰も使ったことがなかった。
いつか湯に浸かってみたいと思ってはいたが、まさかこんなに早く、しかもこんなに豪華な自然の温泉に浸かることができるなんて、自分はなんて幸せ者だろうとばかりリゼットは考えていた。
岩場の縁に両腕を置き、そこに頭を乗せる。
この場に誰もいないことが、リゼットをよりご機嫌にしていた。城で働くようになってからは、周りにはいつも人がいて、気が休まる暇がなかった。その環境が嫌なわけではないが、たまには一人になりたいときもあるというもの。その機会が、このような贅沢となって返ってくるとは。
今まで頑張ってきて良かったなあ、とリゼットがそう吐息を漏らしたその時。
目の前で、入り口の垂れ幕がゆっくり上がった。何が起こったのか考える暇もなく、そこから一人の青年が現れる。
「――失礼っ!」
あっと思ったときには、もうその青年は消えていた。小さく揺れている垂れ幕が、唯一彼の訪れの証拠だった。
「…………」
考えることを放棄していた頭を、ゆっくり回転させていく。チラッとしか見えなかったが、先ほどの青年には見覚えがあった。均整の取れた身体に、ダークブロンドの髪と、切れ長のグレーの瞳――つい先ほどあったばかりのアルである。
リゼットはすぐに湯から上がると、手早く身体を拭き、新しい仕着せに着替えた。濡れた服を籠にまとめ、テントを出る。
アルは、テントのすぐ横に立っていた。こちらに背を向ける形で、何やらうんうん唸っている。
「アルさん?」
「はっ!」
面白いくらいに、アルはピンと背筋を伸ばした。こちらを振り向くことはなかったが、彼が冷や汗を流している様は、なんとなく想像ついた。
「あの、さっきはすみませんでした。気まずい思いをさせてしまって。見張りの方がいなかったものですから、勢いで入ってしまって」
「い、いえ! こちらこそ失礼しました! まさか今の時間に誰かが入っていることなど予想もせず、迂闊に押し入ってしまって――」
すっかり口調が固くなっている。それに相変わらずこちらを見ようともしない。
申し訳ないとは思いながらも、リゼットは笑い声を漏らした。
「もうこっちを向いて大丈夫ですよ。私、ちゃんと服着てますから」
「ああ! いえ、そういうつもりでは!」
頭をかきながら、アルはゆっくりと振り向いた。高い背なのだが、今は居場所がないとでも言いたげに、小さく縮こまっている。
「先ほどは本当に失礼しました」
「別に身体を見られたわけではないので、気にしないでください」
リゼットは微笑んで首を振る。
たった一瞬の出来事だったし、湯に浸かっていたわけだから、鎖骨くらいしか見えなかったはずだ。恥ずかしくないわけではなかったが、自分以上に慌てふためいているアルを前にすると、些細なことのように思えてくるから不思議だ。
だが、冷静になってみると、アルの様相に慌てた。彼も、リゼット同様ずぶ濡れなのだ。風邪を引かないよう、温泉に浸かりに来たことは考えなくても分かる。
「アルさんもどうぞお湯に浸かってください。温かくて気持ちよかったですよ」
「あ……」
「良ければ、私が見張りをしましょうか? じゃないと、またさっきみたいに誰かと鉢合わせするかもしれませんし」
「いや、大丈夫だ」
調子を取り戻したのか、アルはきっぱり首を振った。
「折角温泉に浸かったのに、こんな所にいたのでは、湯冷めしてしまう。早く帰った方が良い」
「でも、この辺りは野営地よりも暖かいですし。大丈夫ですよ」
「申し出は嬉しいが、早く帰らないと暗くなってくる。夜道は危ないからな」
「本当に気にしないのに……」
渋々リゼットは引くことにした。ここで言い合っていても、アルの身体がどんどん冷えていくだけである。
「分かりました。じゃあごゆっくり」
「ああ、ありがとう」
ぺこっと頭を下げ、数歩歩き出したところで、リゼットは振り返った。
「そうだ、さっき貸してもらったマント、洗ってお返ししますね」
「え? いや、あれば安物だから、返さなくても大丈夫だ」
「いえ、そんなわけには。お返しします。どちらに行けば? アルさん、騎士隊の方ですよね? 何番隊ですか?」
「いや、本当に結構! 捨ててくれて構わない!」
慌てたような素振りで、アルはテントの中に入っていった。リゼットはきょとんと首を傾げる。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか?
だが、そんなことをつらつらと考えていてもしようがない。
リゼットはそう思い直すと、再び歩き出した。