01:冷たい出会い


 冷たい清流に手を浸し、食器を洗う。
 もう何度目か分からないその作業に、リゼットの手は真っ赤になっていた。短く吐き出される吐息は白く、冷たい。
 それでも手を止めることなく、リゼットはすぐ後ろのバスケットに、洗い終わった皿を置いていく。最後の皿をようやく洗い終えた頃には、もう立ち上がる元気もなく、彼女はそのまま川べりに倒れこんだ。冷たい草が頬に触れたが、気にもとめない。ずっと同じ姿勢でいたせいか、首にも足にも疲労が溜まっていた。本来ならば早く帰らなければならないはずではあるが、これだけの作業を一人でこなしたのだ、少しくらい大目に見てくれるだろう。
 目を閉じ、しばらく耳に心地よい清流の流れを聞いていた。
 真冬の、しかもこんな川縁では、寒いことこの上なかったが、疲労の方が圧倒的に上回った。

 しかし、いつしかもう少しで意識が落ちる――という所で、リゼットの耳はかすかな物音を捉えた。茂みを分け入るような音だ。静寂の中の突然の侵入者に、リゼットは身を固くする。反射的に身を起しかけて、すんでの所で思いとどまった。
 夜盗の類かもしれない。ここは静かに様子を見なければ――。
 そう思って、リゼットはバスケットを抱え、素早く後ろの茂みに身を隠した。

 この川へ来るとき、辺りに人の気配はなかった。ならば、もし何者かに襲われたとき、助けを呼べる可能性は低い。
 やはり、ここは隠れている方が得策か。
 リゼットは静かに時を待った。もしかしたら、手伝いに来てくれた同僚のメイドかもしれないとの思いが頭をよぎるが、すぐにその考えを振り払う。皆忙しいのだ、わざわざここまで来て手伝ってくれるお人好しはいないだろう。

 そう考えている間に、その者は川に到着したらしい。足音が止まる。リゼットは茂みの隙間からこっそり顔を出した。そして再び身構える。突然の来訪者は、男性のようだった。簡素な服、そして長いマントに身を包み、腰には大きな剣を差していた。リゼットに対して背中を向けていて、更に深くフードを被っていたために、年齢の見当はつかない。だが、彼が腰に差している剣の柄――そこには、に自国の紋章が刻まれていた。リゼットは思わず胸を撫で下ろした。
 彼は自国の騎士だ。それも、おそらく自分と同じように視察に同行している騎士団の一人。
 そうと分かれば、そう警戒する必要もない。今回の野営地からこの川は近い距離にあり、おそらく息抜きにここへやってきたのだろう。

「…………」

 だが、たとえそうだとしても、リゼットはなかなか足を踏み出すことは出来なかった。急に声かけたら驚かないだろうかとか、なぜ隠れてたんだと逆に警戒されないかとか、余計な悩みが頭の中を駆け巡ったのだ。

 ――ここは、やはり静かにしていよう。

 結局当初の予定通りになり、リゼットは再び息を殺した。別に人の行動を覗き見しようなんて趣味はさらさらないが、しかし今回に限っては仕方がないことだと言えよう。
 早くどこかに行ってくれないだろうか。
 失礼ながらもそうやって彼を見つめるリゼットではあるが、当の本人に、そんな気配は欠片もない。むしろ、長居をしそうな気配すらある。
 男は、一言も発することなく、ただただ目の前の川を眺めていた。川――というよりは、川の向こうに広がる景色か。
 リゼットも興味を駆られて覗いてみるが、そこには特に変わった様子もない夕焼けが広がるばかり。

 何がそんなに面白いんだろうか。

 ふとリゼットがそう思ったとき、彼が動いた。
 男は、まるで雑念を振り払うかのように強く首を振ると、そのまま躊躇することなくざぶざぶと川の中へ入っていった。ついで、自分が靴を履いたままなことに気づくと、慌てたように靴を脱いで草むらに放り投げた。ずぶ濡れになってしまった靴を少し眺めると、彼はまた前を向いた。が、先ほどとは別の意味で、彼の背中はどことなく落ち込んでいるようにも見える。
 先ほどまで哀愁を漂わせながら夕焼けを見ていたくせに、この一連の間の抜けた行動がツボに入り、リゼットは堪えきれず笑い声を漏らしてしまった。その瞬間、パッと再び振り返る男。

「誰だ!」

 あまりに緊迫感溢れる声に、リゼットは瞬時に口をつぐんだ。すっかり緩んでいた気を引き締める。いくら自国の者同士とはいえ、相手は男だ。気を悪くされたら、何をされるか分からない。ただでさえ、相手は騎士に、こちらは一介のメイド。たとえ非人道的なことをされたとしても、こちら側からそれを糾弾することは出来ないのだ。

「出てこい。何者だ?」

 相変わらず、男の声は厳しい。リゼットはなかなか迷いに迷い、足が動かない。しびれを切らしたのか、男はついに剣の柄に手を置いた。いよいよ取り返しのつかないことになってきた。早く誤解を解かなければ。
 そうは思うのに、いきなり切りつけられたらどうしようと、リゼットは恐怖で固まっていた。
 だが、それも杞憂だった。

「姿をあらわ――」

 唐突に声が途切れた。と思ったら、次の瞬間、バッシャーンと盛大に水しぶきの音が鳴り響いた。リゼットは目を白黒させてひょっこり顔を覗かせる。そこには、リゼット同様、目を白黒させて混乱している男がいた。――川にひっくり返ったまま。
 おそらく、岸に上がろうとしたとき、今朝盛大に降った雨でぬかるんでいた川縁で足を滑らしたのだろう。靴を履いていたのならまだしも、彼は先ほど裸足になったばかりだったから余計に。

「あ……」

 リゼットと彼の目が合う。考えていた以上に若い男性のようだ。リゼットよりも少し年上か。

「め、メイドだったのか……」

 安心したような、落ち込んだような、そんな声色だった。リゼットはそんな彼に、無性に申し訳なくなる。

「だ、大丈夫ですか……?」

 恐る恐るリゼットは声をかけた。このまま見て見ぬふりなどできなかった。だが、青年の方は、むしろ声はかけてほしくなかったようで、頬を赤くして俯いていた。

「いや……」

 しかし、リゼットも非常に彼の気持ちは分かった。誰だって、あんな間抜けな転び方を人に見られたくはない!

「あ、あの、地面、ぬかるんでますからね」

 とりあえず彼に助け船をと、リゼットはよく分からない慰め方をしてみる。青年の方は、むしろそんなリゼットの気持ちが気恥ずかしいのか、一層顔を下に向ける。

「仕方ないですよ。誰だって油断してたら転んじゃいますし」

 リゼットは茂みから出た。なかなか青年が川から上がってこないので、助け起こそうとしてのことだ。こんな寒い時期に、いつまでも川に浸かっていたら風邪を引く。
 リゼットは川の方へ近づいた。

「そういえば、私もさっき洗い物をしていた時――」

 声が途切れ、バッシャーンと再び盛大な水しぶきが上がる。リゼットは何が何だか分からなかった。気がついたときには、なんとも言えない表情をしている青年と目が合った。――前のめりに転んだまま。
 今なら、彼の気持ちが痛いほどよく分かった。こんな間抜けな転び方をしたときには、やっぱり誰にも声をかけて欲しくない!

「あ……や」

 だが、青年はその辺りの機微を察することなく、不器用に口を開いた。

「仕方ない、な。転びやすい場所だし」
「そそ、そうですね……」

 いくら転びやすいとはいえ、先に身をもってそれを示してくれた人がいたのだから、それに続いて自分も同じ手に引っかかるなんて間抜けにもほどがある。
 リゼットはカーッと頬を赤くした。それを見て慌てるのは青年の方だ。

「……俺の方が情けない。仮にも訓練している身なのに」

 リゼットの失態のおかげで、多少先ほどの羞恥は吹っ飛んだのか、青年は、至極真面目な顔になった。

「俺が転ばなければ、君もそんなことにはならなかったのにな」

 そう言って自嘲気味に笑みを浮かべる青年。彼の言葉に、表情に、そして今もひっくり返ったままの彼の姿に、リゼットはもう我慢ならなかった。
 ぷっと一度笑いを零すと、後はもう決壊が壊れたかのように大きな笑い声を立てる。リゼットの頭の中に、理性という言葉はもはやない。こんな状況で、おかしくならない方がおかしい!
 遠慮なく笑い続けるリゼット。だが、それに感化されたのか、始めは呆気にとられていた青年も、次第に笑い声を漏らすようになった。

 なぜだか分からないが、無性におかしい。

 それが、今この場を表す最もふさわしい一言だっただろう。
 しばらくして、ようやく気が済むと、リゼットは目尻に堪った涙を拭った。あまりにも笑いすぎて、いつの間にか涙が浮かんでいたらしい。

「こんなに笑ったの、久しぶりです」

 思わずリゼットはそんなことを言う。青年もわずかに顔を上げた。

「ああ……。俺も初めてこんなに笑った」

 一瞬二人の視線が交錯するが、すぐに青年の視線は逸らされた。
 川に落ちた衝撃のせいか、青年が被っていたフードは今は外されていた。柔らかそうなダークブロンドと、切れ長のグレーの瞳。顔立ちは整っているというのに、恥ずかしがり屋なのかと、リゼットはそう結論づけた。
 しかしすぐにハッとすると、リゼットは真面目な顔になって頭を下げる。

「あの、すみませんでした。私、ここで洗い物をしていたんですけど、あなたの足音を聞いて思わず隠れてしまったんです。どんな人か分からなかったから……」
「いや、俺も軽率だった。驚かせてすまなかったな」
「いえ、大丈夫です」

 にっこり笑って、リゼットはそのまま自然な形で続ける。

「私、リゼットって言うんです。今回は、料理の方の人手が足りなくって、いろいろ雑用のために同行することに」
「俺は……」

 一旦は口を開けたものの、青年は言いよどむ。

「俺は、えっと、騎士……そう、騎士だ。王子の従者の一人だ。名前は……あ、アルと、言う」

 視線をあちこちに這わせての拙い自己紹介に、リゼットは申し訳ないと思いながらも、再度噴き出した。一度ツボにはまってしまうと、その後幾度となく再発してしまうのがなかなか辛いところだ。

「……っと、すみません。失礼しました」
「いえ」

 また盛大に笑ってしまったことで、気を悪くされていないか、とリゼットは恐る恐るアルの方を窺った。だが、それは杞憂だったようで、彼はただ落ち込んだようにそっぽを向くのみだ。
 立派な男性であるのに、なんだか可愛く思えてきて、リゼットがからかおうと口を開いたとき、パシャンと側で水が音を立てた。川魚が跳ねたようだ。

「――上がろう」

 アルも我に返ったように、すぐに立ち上がった。夢中に笑うあまり失念していたが、二人とも川の中に座り込んだままだったのだ。

「あっ、そうですね。すっかり忘れてました」

 リゼットも急いで立ち上がって川から上がるが、同時に身震いもする。水の中ももちろんではあるが、冷えた空気に触れるともっと寒い。真冬なのだからそれも当然だが、それにしたって寒い。もう大分日も落ちているせいもあるのだろう。

「その格好では寒いだろう」

 震えるリゼットを見かねてか、アルは着ていたマントを絞ると、リゼットに差し出した。

「濡れているから、大して変わらないかもしれないが、これを」
「え、あ……大丈夫です、そんな」

 マントを脱いだアルはずいぶんな軽装だったため、リゼットは首を振って遠慮したが、それでも彼は手を引っ込めない。リゼットはおずおずとマントを受け取った。

「ありがとうございます」

 軽く羽織ると、男物のマントはひどく丈が長く、上から下まですっぼりと覆われることとなった。

「帰ったらすぐに着替えた方がいい」
「そうですね」

 気遣うようにアルは言うが、彼の方がよっぽど寒そうだ。リゼットは申し訳なくなって、ふと己のポケットをまさぐってみた。今朝、丁度手巾を入れていたのを思い出したのだ。

「では、これを」

 躊躇いがちに笑ってリゼットは手巾を差し出した。川には前のめりになって倒れたため、奇跡的に腰の手巾は無事だったらしい。

「髪、濡れてますから、早く拭かないと風邪引きます。どうぞ」
「あ……いや、たいしたことはない」
「使ってください」

 今度のリゼットは退くつもりはない。しまいにアルも根負けして手巾を受け取った。おずおずとした手つきで髪をふいていく。――と、突如その動作が止まる。パッと左手で顔を覆うと、ぐるりと後ろを振り向く。リゼットは突然のことに疑問しか浮かばなかった。

「ど、どうしたんですか?」
「……大変失礼なことを承知の上で聞くが」

 後ろを向いたまま、アルは重々しく切り出す。

「この手巾、頂いてもよろしいだろうか」
「……ど、どうぞ。安物ですし、気になさらずに」
「すまない」

 言葉少なに礼を言うと、アルは手巾をバッと広げ、そのまま顔の下半分を覆うようにして頭の後ろでくくる。そうしてゆっくりとまたリゼットの方を向いた。

「…………」
「…………」

 これは、私を笑わそうとしての所業だろうか。
 それとも、本当に真面目にこんなことをしているのか。
 アルのなんとも間の抜けた格好に、リゼットはかける言葉も浮かばなかった。
 何のためにこんなことをしているのか。その目的が全く分からない。
 リゼットが戸惑っているのを見て取り、アルの方も若干耳を赤くする。

「変だろうか」
「変ですね」

 リゼットは即答した。変すぎて、もう笑いすらこみ上げてこない。ただただ、意味が分からない。
 だが、気まずさからか、またもや後ろを向いたアルに、リゼットはハッと思い至った。今のこの奇妙な所業だけではなく、会ってから今まで、ほとんど目が合わなかった謎の答えに。

「もしかして、顔を見られたくないんですか?」
「――っ」

 わかりやすすぎるくらい、アルの肩は跳ねた。返答はなかったものの、それだけで全ての謎が解けた。一人のときでさえフードを外していなかったということは、よっぽど顔を見られたくないらしい。
 リゼットはおずおずとマントを脱ぎだした。

「これ、お返しした方が……」
「いや、大丈夫だ!」

 衣擦れの音で察したのか、アルは腕だけで待ったをかける。

「このままで大丈夫だ」
「いえ、でも」

 目立つ。明らかにフードを被るよりも目立っている。むしろ、何もしないでいる方がよっぽどマシだと思うくらいには。
 だが、当の本人はそれほど気にしていないようで、しばらくすると、またちょっとリゼットの方に向き直った。

「すまない、時間がないのでもう行く。お身体にお気をつけて」
「え、そのままで……?」
「帰ったらすぐに着替えるから大丈夫だ」
「はあ……」

 その帰るまでが心配なんだ、とはリゼットは口に出来なかった。盛大にこけるのは恥ずかしくても、女物の手巾で顔を覆うのは恥ずかしくないのか。
 その差が分からず、結局リゼットは愛想笑いを浮かべるしかない。

「お、お大事に」
「ああ。あなたも」

 早口に言うと、アルはそのまま早足で歩いて行った。リゼットの方はというと、なんとも言いがたい表情で彼を見送っていた。