第十四話 会うは離散の始め

91:フィリップの思い


 暗い一室に、フィリップは縮こまるようにして座っていた。
 しばらく前からもうほとんど口にしていなかった。食事は一応用意されている。しかし、どうしても喉を通らなかった。

 誰が作ったかもわからない、豪勢すぎる冷めた料理。
 エミリアの、小さな姉の作ってくれた温かい料理が食べたいと、フィリップはぼんやり考えていた。

 しばらくして、豪華な扉が重苦しい音を立てて開かれた。カーテンは閉じられているので、今が昼なのか夜なのかもわからない。ただ、その扉の向こう側から差し込む窓の光で、昼くらいだろうか、と思い当たった。

「お坊ちゃま」
 執事の声だ。彼の声は嫌いではない。小さい頃は、病気がちな自分の母に代わって、時々本を読んでくれた。

「きちんと食べなければ、お体の調子が悪くなりますよ」
「うん……。でも、食欲が無くて……」

 その執事の声をもってしても、フィリップがベッドの隅から動くことは無かった。悲しそうに眉を下げたまま、執事は静かに言い放つ。

「もうすぐ、ご主人様がお帰りになられます」
 フィリップはびくりと肩を揺らせた。ようやく二人の視線が交差する。しかしその瞳は、どちらも不安げに揺れている。

「……その後、王宮から使いの者が来られるので、その準備を致しましょう」
「……一人でできるよ」

 フィリップは首を振る。

「しかし――」
「大丈夫。一人にして欲しいんだ」
「……畏まりました」

 ゆっくり扉が閉じられる。再び部屋は暗闇に閉ざされた。徐にフィリップは動き出すと、箪笥を両手で開いた。中には、長い間誰にも着られることのなかった服が整頓されていた。フィリップがいない間にも、メイドが綺麗にしていてくれたのかもしれない。

 それは、この部屋に入った時にも思ったことだった。あの頃のように、綺麗に豪勢に、そして無機質に並べられている調度品の数々。

 料理が豪華だからって、服が高価だからって、ものがたくさんあるからって、一体何だろう。結局はその人自身がそれをどう思うかなのに。

 少なくとも、フィリップはそれらに心を動かされることは無かった。もしも、もしもこの生家が、温かい幸福に包まれていたのなら、何かが違っていたのかもしれないのに。

「フィリップ」
 後ろから声がかかり、フィリップはハッとした。物思いに沈むあまり、扉があく音に気が付かなかった。恐る恐る、ゆっくりと振り返った。振り返らずとも、その声の主は知れていた。

「お……」
 口を開こうにも、その声は言葉にはならなかった。フィリップは彼を真っ直ぐ見据える。懐かしくて、苦しくて、痛い思いしかない父が、そこに立っていた。

「お前、どうしてここから逃げ出したんだ」
 彼の声は低く、それでいて鋭かった。温かくて優しい声に慣れきっていたフィリップにとって、その声は恐怖以外の何物でもなかった。

「お前……お前のせいで俺はなあ……!」
 男は一気にフィリップに詰め寄ると、何の躊躇もなく髪を掴んだ。フィリップの顔が痛みに歪む。

「憎たらしい……その髪も、その目も」
 ぎりり、と男は唇を噛む。

「憎らしい……!」
「ご主人様」

 後ろからハラハラと見守っていた執事が声をかけた。

「お気をお鎮めになってくださいませ。またすぐに王宮から使いの者が参ります。このようなところを見られたら――」
「〜〜っ、分かっている! 俺に命令するな!」
「……申し訳ございません」

 最後にもう一度フィリップを一瞥すると、もう用はないとばかり、その手を乱暴に話した。軽い音を立てて彼の身体は地面に転がった。

「昼餉を摂る。用意をしろ」
「畏まりました」

 衣服を整えながら、男はフィリップに背を向けた。

 どうして、父はこんなにも僕のことを……。
 フィリップには、全く理解できないことであった。それでも、それでも家族として、息子として、いつまでもこんなのは嫌経った。

「お、とう様……僕――」

 駆け寄りは、しない。まだ恐怖があるから。
 でも、必死にそう声をかけた。しかし父は振り返りもしなかった。

「俺をそんな風に呼ぶなっ!」
 執事だけが、彼の激しく怒りが宿る瞳を見た。

*****

 馬車の窓から見える景色が、見慣れたものになってきた。詰所につくのも時間の問題かもしれない。

 アイリーンは、先ほどからしばらく黙ったままだった。

 牢に入れられて満足に睡眠もとれなかっただろうに、その上長い間話し続けたせいで疲れているのかもしれない。オズウェルは話の先を促すことはせず、ただ馬車の揺れに身を任せていた。

 しばらくして、もしかして寝ているのだろうか、とオズウェルが顔を上げた時、ようやくアイリーンは口を開いた。その目は、遠いどこかを見ているように見えた。

「エミリアが家にやって来てから、まだそんなに経っていない頃よ、フィリップと出会ったのは。……ある冬の日だった、身体が凍えそうなくらい。でもあの子、肌着一枚だった」
「――っ」
「細い四肢は痣だらけだった。私が駆け寄ると、ごめんなさいってうわ言のように繰り返すの。宥めようとしても、ただごめんなさいって」
「そうか……」
「届け出は……出したわ。でも誰も引き取りには来なかった」
「フィリップも孤児だったのか?」
「父親はいる……とは思う。でも母親はもう亡くなっているらしいのよ。フィリップから聞いたわ」
「母親が……そうか」

 彼女のことを母様と呼んでいるから、何となくその予想はついていた。
 アイリーンを、どこか母の様に――母性のようなものを感じているのではないか、と。

「フィリップは大人しい子だけれげ、その分思慮深くて、よく周りのことを見ている。私はそんなに……ね、頭がいい訳ではないし、ステファンも時々周りが見えなくなることがある。そんな時、よくフィリップは的確な助言をしてくれるのよ。すごく有り難いの。掃除も上手だしね」

 オズウェルもこれにはうんうん頷いた。もともと調度品の数は少ない子爵家ではあるが、どこも綺麗に掃除されていた。あんなに大きい邸宅を掃除するのはなかなか苦労するだろうに。

「でもその分……あの子、繊細で、すぐに中に溜めこむ。夜中にね、よくうなされてるの。あれから……私たちと一緒に暮らし始めて、もうずいぶん経つのに、未だに……」

 物憂げにため息をつくと、再びアイリーンは黙り込んだ。
 オズウェルももう何も言わなかった。子爵家には、第三者が簡単にどうのこうの言えるような繋がりではないことは明白だった。だからこそ、これまで何かと子爵家に関わりのあったオズウェルは、余計に自分たちが介入していくことの後ろめたさを感じていた。

 このまま何も起こることなく、奔放に、のんびりと暮らしていけたら良かったのだが――。

「私、フィリップの父親だけは絶対に許せない」
「……何だ、急に」

 唐突にアイリーンの瞳に怒りが煮えたぎったので、オズウェルは当惑した。

「だって……だって、息子に暴力を振るったのよ!? 信じられる? まだフィリップはあんなに小さいのに――」
「……は?」
「信じられないでしょう? 私だってそうよ。フィリップ、父親の酷い暴力のせいで、引き取ってしばらくも、ずっとうなされてたんだから――」
「ちょ……っと待て。え、父親、から暴力を受けていたと? なぜ?」
「そんなの知らないわよ! 私が聞きたいくらい……! 一体どんな理由があって、息子に暴力を振るう親がいるのか――」
「ちょっと待て!」
「もう! いったい何なのよ、さっきから!」

 アイリーンは爆発した。先ほどから待てとしか言わないオズウェルに苛立ちもしていた。フィリップのことで、怒りが再熱したせいもある。

 しかしオズウェルはそんな彼女の心境など知る由もない。それどころか、信じられないその情報に、顔が引きつった。

「フィリップは……本当に父親から暴力を受けていた、と?」
「さっきからそう言ってるじゃない! うわ言で、お父様ごめんなさいって泣いてたんだから!」
「…………」

 頭を整理するまでもなかった。信じられないといった表情で、オズウェルはぽつりと言った。

「フィリップは……父親の代理人という人が、引き取って行った」
「――っ!?」

 アイリーンは目を見開く。てっきり、フィリップはエミリアと共に孤児院にいるとばかり思っていた。

「それって……じゃ、じゃあ――」
 声が震えた。

「ああ、フィリップが危ないかもしれない」
「何で――!」

 言葉が続かず、アイリーンは両手で頭を抱えた。

 どうして父親の所になんて送ったの。
 どうして私達を引き離そうとするの。

 答えのない疑問ばかりがぐるぐる頭を駆け巡るが、そんなこと口に出しても仕方がないことは分かりきっていた。

「――っ」
 アイリーンは声もなく崩れ落ちた。嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。

「お願い、私をここから出して……」
 気づくと、そう口にしていた。無意識だったが、今はそれが最善の手に思えた。オズウェルの膝に手を乗せる。

「お願い……」

 絞り出したようなその声は、思いのほか弱弱しかった。思わずオズウェルは彼女の腕を握り返していた。