第九話 嵐の後の静けさ

50:一夜明けて


 ?燭の微かな明かりがゆらゆらと揺らめいている。しばらくそれを眺めていたが、誰かが身じろぎする音を聞いてようやく、オズウェルは自分が目覚めていることに気が付いた。ハッとして顔を上げると、先ほどまでこくりこくりとしていたアイリーンが眼を擦っていたところだった。

「あ……目が覚めた?」
 こちらの台詞だ、とオズウェルは微笑を浮かべたが、向こうの立場になって考えてみると、やはりこちらの方が長く眠っていたので当然だろうと思い直す。

「寝てないのか?」
「ううん、ウィルドと交代で寝たわ。今は私の番」

 立ち上がってアイリーンは伸びをする。長いこと椅子に座っていたので肩も腰も凝りまくりだ。

「殿下は……」
「大丈夫。無事王宮に戻れたみたい。レスリーさんが伝えてくれたわ」

 レスリーは今、客室で眠り込んでいる。始めこそ隊長の元で寝ずの番を!と宣言して聞かなかったが、強引に客室まで案内したところ、さすがに睡眠には抗えなかったのか、死んだようにベッドに倒れこんだ。夜通しこの屋敷と王宮とを往復したので、ずいぶん疲れていたようだった。

「そうか、良かった」
「ね、何か食べる? 飲み物とか」
「そうだな……。何か軽く食べるものが欲しい」
「分かったわ」

 すぐに頷くと、アイリーンはいそいそとキッチンへやって来た。張り切ってここまで来たはいいものの、何をどうすればいいのかさっぱりだ。こんなことなら、苦手だからと言って料理から逃げ続けなければ良かった。俯くアイリーンの瞳に、昨夜の残りの鍋が目に入った。そっと蓋を開くと、まだ少し残っている。おそらく朝に食べようとエミリアが置いておいたのかもしれない。少々申し訳ない思いを抱えながらもそれを火にかけ、お玉でグルグルかき回した。その合間にコップに水も用意した。しかしすぐにその途中で紅茶の方がいいかしらと考え直した。いつもなら何回かに分けて使っている紅茶のパックだが、今回はさすがに新しいのを入れることにする。さすがの彼女にだって、それくらいの常識は弁えている。

 盆を抱えて部屋に戻ると、オズウェルは目を瞑っていた。眠ってしまったのだろうかとそろそろベッドに近づくと、彼はすっと目を開けた。

「エミリアが作ってくれたのを温め直しただけなの。お口に合えばいいんだけど」
 アイリーンが傍らの小さなテーブルに盆を置くと、オズウェルは身を起こそうとした。さっとアイリーンの手が動く。

「あ、手伝うわ」
「ああ」

 微かに脂汗を滲ませながらオズウェルは身を起こした。盆をゆっくり膝の上に乗せる。始めはいつもの癖で右手でスプーンを持ったが、怪我のせいで痛みが走ることに気付き、左手に持ち替えた。その様を見ていたアイリーンが口を開く。

「食べさせましょうか?」
「――っ!?」

 思わず開眼し、オズウェルはまじまじとアイリーンを見つめた。彼女の瞳は至って純粋だった。オズウェルは視線を逸らしながら首を振る。

「いや……大丈夫だ」
「でも食べにくいんじゃない?」
「左手ならいける」

 半ば意固地になりながらも、スプーンですくい、口元へ運ぶ。多少ぎこちないが、支障は無かった。

 弟妹達が風邪をひいた時、アイリーンはよく彼らにねだられてスープを食べさせることが多々あった。その癖の延長で彼女もオズウェルにそう提案する形となったのだが、しかし妙なところで羞恥心のないアイリーンだ。

「おいしいな」
「あら、本当? エミリアが喜ぶわ」

 普段はアイリーンたちくらいしか料理の腕を振るえないエミリア。オズウェルにお褒めの言葉を頂いたと聞いたら喜色を露わにするだろう。

 食事し終わると、アイリーンはカチャカチャを食器を片付け始めた。武人は人の気配があると眠れないという。彼もその性質かもしれないと、さっさと部屋を出るつもりだった。しかしその後ろ姿にオズウェルは声をかける。

「迷惑をかけたな」
 一瞬アイリーンの手が止まり、しかしすぐに動き出した。

「はい? 迷惑? そんなものかけられたつもりは全くありませんが」
 声に棘があるのは仕方がない。先を越された、否、向こうに非があるような言い方が気に食わなかった。

 手を止め、アイリーンは振り返る。頭を深く下げた。

「ありがとう。ウィルドを助けてくれて」
 オズウェルは呆気にとられたような表情になった。

「ウィルドから聞いた。庇ってもらったって」
 オズウェルが治療にかかっている間、涙ながらにウィルドはぽつりぽつりと零した。自分に向かってきた剣を、隊長さんが庇ってくれたのだと。

「本当にありがとう。助けてくれて。ウィルドに何かあったら私――」
「い、いや、こちらこそ迷惑をかけて申し訳ないと思ってる。本当ならこんな目には――」
「はい? だから迷惑なんてかけられた覚えはないって言ったわよね? いい加減そんなこと言うの止めてくれる?」
「いや、だがこんな目にあったのは俺たちのせいであって――」
「何があなたたちのせいよ! あなたたちが暴漢たちを引き入れたとでも言いたいの?」
「誰もそんなことは言ってない!」

 相手に礼を述べたい。相手に感謝される様なことは何もしていない。ただそれぞれだけだった。怒っているわけではない。ただ相手の言い方が気に食わないだけだ。
 にもかかわらず、二人はいつの間にかいつもの様に口論に発展した。怒っているわけでもないのに。

 二人の争う声に、ベッドに半身を預けていたウィルドがぴくりと反応した。眠気眼でむくりと起き上がる。いつものように眉間にしわを寄せてアイリーンと口論するその姿――オズウェルの姿が目に入り、ゆっくりとウィルドの顔に喜色が広がる。しかし捲れている毛布の合間に見える痛々しい包帯が目に映り、途端にそれも萎む。表情が崩れた。

「ごめん、ごめん……!」
 気づくと再び涙に塗れた声が口から飛び出した。口論に熱中していた二人はハッとしてウィルドを見やる。すぐにばつの悪い表情になった。

「ごめんね、俺のせいで……」
「気に止むな。お前のせいじゃない」
「そうよ、誰のせいでもないわ。別にこの人たちが暴漢たちを引き入れたわけじゃないんだし」

 先ほどの口論のつもりなのか、アイリーンが横槍を入れる。オズウェルはそれを一睨みで黙らせた。

「むしろこちらが礼を言いたいくらいだ。殿下を守ってくれてありがとう」
「お、れは別に何も……」
「反射神経が良いようだな。矢が飛んできた時、咄嗟に殿下の身を伏せさせてくれた。それに襲われた時も。よく前からの攻撃に反応できたな」
「別に……俺は何にも。ただ、何かが来そうな気がしただけで……」
「その感覚は訓練して身に着けられるものではない。きっとこれからも役に立つ」

 オズウェルは小さく笑みを浮かべると、ウィルドの頭に手を乗せた。くしゃくしゃっと撫でる。

「少し、眠る……」
「後で水を置いておくから、飲みたくなったら飲んでね」
「ありがとう」

 呟くように言うと、オズウェルは静かに瞼を閉じた。やがて、穏やかな寝息が紡がれる。盆を持ってアイリーンは立ち上がった。

「ウィルドはもう寝たら? オズウェルさんの傍には私がいるから」
「ううん、俺もここにいる。傍にいる」
「そう。あんまり無理しないでね」

 扉を閉める時、ウィルドが目に入った。彼は心ここにあらずといった様に見えた。

*****

 夜が明け、次第に鳥のさえずりがあちこちで始まった。
 アイリーンは腕を捲って先ほど収穫したものを水で洗う。
 朝の食卓に並べられる食物を、畑から収穫するのがウィルドの朝一番の仕事なのだが、彼はオズウェルの傍を離れたくないようなので、アイリーンが代わりに行った。俺の領地を荒らすな!と言われないか終始びくびくしていた。

 やがてステファンやエミリアが欠伸を堪えながら居間へ入ってきた。アイリーンの姿を見つけると、すぐに寄ってきた。

「オズウェルさんの様子は大丈夫なんですか?」
「ええ、意識もしっかりしてる。夜に一度起きて昨日のスープも食べてくれたわ」
「ウィルドは……?」
「ずっと付きっきりで傍にいる。あんまり寝てないの」
「そうですか……」

 エミリアがアイリーンの隣に立ち、朝食の準備を始めた。料理が苦手な姉がキッチンに立つのは珍しいと、ステファンはじろじろとその姿を観察していた。

「今のうちにオズウェルさんの昼食も準備した方がいいですか?」
「そうね、その方がいいかしら。今日は私、家で仕事することにするわ」

 せめてエミリアの負担が少なくなるよう、アイリーンは張り切って彼女の指示を仰いだ。と言っても腕の立たない彼女に当てられる仕事はそんなに大したものではなく。皮むきや皿洗いなどごく簡単なものばかりしていた。自ずとため息も漏れる。

「私も料理ができたらエミリアに苦労をかけることもなかったんだけど」
「そうですよね。こういう時のために姉御もやっぱり練習しとかなきゃ」
「はいはい、いつかちゃんと練習するわよ」

 小言へと発展しそうだったので、アイリーンはさっさとそう言って切り上げた。エミリアは小さくため息をついた。

「あ、ウィルド」
 その声に二人は振り返った。目の下にクマを作っているウィルドが居間へと入って来ていた。

「大丈夫? 少し寝た方がいいんじゃない?」
「いや、大丈夫。朝食できたの?」
「うん、今作ってるところ」
「良かった。じゃあオズウェルさんの分、俺が上に持って行く」
「目が覚めたの?」
「うん、喉乾いたって」

 言いながら、ウィルドまでがキッチンに立つ。
 姉上だけに留まらずウィルドまでキッチンに立つ日が来るとは!

 こんな日は二度と来ないとステファンは目を凝らした。

「ウィルド、今日学校は……」
「うん、ちゃんと行くよ。オズウェルさんにも言われたし」
「でも今日くらいは休んでもいいんじゃない? 少し寝た方が良いと思うし」
「いや、行く。家に居ても俺ができることは無いし。もちろん、本当はずっと家にいて隊長さんの傍に居たいけど……」
「常にウィルドが傍にいたんなら、落ち着くものも落ち着かないわ。ちょっと顔を見るだけで十分よ」

 からかうようにエミリアは言った。いつもなら何だとー?と口論に発展しそうなものだが、ウィルドは静かに頷いた。

「…………」
 ウィルドがいつもの調子でないと、こっちが調子狂ってしまう。
 エミリアはさっさと口を噤んで、料理に専念した。