第八話 高飛車の功名

46:終演後


 劇が終わった後、観客たちは気もそぞろに口々に感想を言い合いながら席を立っていった。子爵家の面々も、それに倣いながら出口へと向かう。
 さすがに舞台裏にまでは入れないようなので、出口付近の広場で待った。劇が終わり、観客のほとんどはすでに帰った後だというのに、まだその場には多くの人でごった返していた。おそらく、ステファンたちのように、初公演を祝うための出演者の顔見知りだと思われる。

 エミリアもすっと背を伸ばし、花束を抱え直す。アマリスの花屋で用意してもらったものだ。彼女も今夜劇を見るためにここへ来ていたのだが、長い間店を開けておくわけにもいかず、それをエミリアに託した後帰って行った。

 何となく誇らしい気持ちだった。花屋自ら張り切って用意してもらったせいか、この花束は、周囲にあるそれらよりも負けず劣らず大きくて良い香りを放っている。

「姉上、喜んでくれるといいね」
「もちろん!」

 笑みを交し合うと、隅で欠伸をかましていたウィルドが走り寄って来た。

「あ、師匠来たみたい」
「本当!? 姉御!」

 こちらに気付いたアイリーンは、パッと顔を明るくした。声をかけたエミリアも途端に嬉しくなり、彼女に走り寄った。

「お疲れ様です。あの、これ……」
「あら、花束? ありがとう」

 舞台の上でもそうだったが、間近で見て見ると、より一層アイリーンは別人に見えた。さすがに衣装は脱いでいたが、普段はしていないメイクと凝った髪形で、より一層不思議な感覚になる。

「母様、すごく頑張ってたね」
 フィリップの言葉にステファンは頷いた。

「……ステイシー役、すごく成りきってましたよ」
「成りきってたっていうか、もうステイシーそのままっていうか」
「でしょう? 練習の時ね、その点――演技についてはあまり駄目だしされなかったのよ。……まあその代わり、発声の仕方とか舞台の歩き方についてはすごく叱られたんだけど」

 ふふんと得意げに笑う。こんな所はいつもと変わらないようだとステファンたちが呆れた時、アイリーンの肩を叩く者があった。

「アイリーン! 良かったわよ、さっきの舞台!!」
「始めは素人なのにどうなるんだろうって思ってたんだけどね」
「そうそう、すっかり見直したよ!」
「あたしなんか、思わず殺意湧いちゃったもん!」

 わいわいとアイリーンの周りに人が集まる。共に舞台に上がった役者たちだろう。ステファンたちはその様に思わず気圧され、それ以上足が動かなかった。

「……帰ろうか」
「で、でも」
「終わったばかりで姉上もいろいろやることがあるかもしれない。家で待っていよう」
「……うん」

 消え去りそうな声で返事をする。誰からともなく踵を返し、歩き出した。何だか地に足付かない心地だった。姉が姉でないような、そんな不思議な感覚。

「アイリーン?」
「え?」
「何、聞いてなかったの?」
「えっと……何だったかしら?」
「だからこの後打ち上げ行くかってこと。行くでしょ? 珍しく団長の奢りらしいしさ」
「――ちょっと待ってね」

 アイリーンはそう言って後ろを振り返る。つい先ほどまで嬉しそうに近寄って来た弟妹達。しかしそこには彼らの姿はなかった。

*****

 打ち上げが行われたのは、劇場からそう離れていない酒場だった。と言っても、日中から男が入り浸っているような場所ではなく、れっきとした中流階級御用達の酒場である。店内も明るく、人々もほろ酔い気分で酒を酌み交わす。

 酒場など初めて入ったアイリーンだったが、その朗らかな雰囲気にのまれ、まあ少しくらいならいいかと考え、足を踏み入れた。
 男性陣は男性陣で、女性陣は女性陣でテーブルに固まりながら座った。団長であるモリスがテーブルの中央に立ち、グラスを手に持つ。

「えー、皆さん。お陰様で、今宵も観客の入りは上々で、多くの拍手と笑顔で見送られ、幕を引くことができました。それはもちろん、立派に劇をこなしてくださった役者の皆さんだけでなく、音響、小道具、照明の方々など、数々の裏方の皆さんの支えあってのことです。今回も無事終演を迎えることができましたのも、全て、この劇に関わる――」
「団長、長い」

 誰が言ったのかは定かではないが、途端にあちこちで笑いが上がる。モリスも、少々顔を赤くしながらコホンとわざとらしい咳ばらいをした。

「えー、とにかく、今日はお疲れ様でした! 今夜は私の奢りです。どうか今宵も楽しい夜を。乾杯!」
「かんぱーい!」

 カチンとあちこちでグラスやらジョッキの音が響く。アイリーンも、目の前に支給されたジョッキを掲げ、少しだけ口にして見た。普段から飲みなれないせいか、その味はとても苦く感じ、すぐにテーブルに置いた。皆はおいしそうに酒を呑んでいるようなので、何だか自分だけ置いてけぼりな気分だ。しかし口に合わないものはしょうがない。途中からさり気なく水に変えた。

 アイリーンとしては、お酒などよりも、もっぱら料理の方がおいしく感じられ、せっせと摘まむに至っていた。
 両手と口が食べ物で塞がれている中、唯一自由な耳が周囲の声を拾う。

「モリスさんの言動って、どこか芝居くさいよね」
「ゴホッ」

 それはアイリーン自身も長らく思っていたことなので、思わずむせてしまった。

「こら! 失礼なこと言わないの」
「だって皆だってそう思うでしょ!? 私が勧誘された時なんか、溢れ出る色香で皆を酔わせてほしいって言われたもの!」
「ああ、それならあたしの時も。芝居がかった感じで両手を空に広げられたの、あなたなら大歓迎です!って。路上でいきなりやられるもんだから、すごく恥ずかしかったのを覚えてるわ」

 少女は頭を抱える。慰めるように、隣の女性が肩を叩いた。

「大人しそうな顔してるのに、言動は意外と大胆なのよねえ。びっくりよ」
「ま、長いこと演劇に関わってるから、言動もそれに影響されちゃうのは仕方ないことなのかもしれないけど」

 アイリーンもうんうんと頷いた。そう言えば、自分が勧誘された時も気品やらスパイスがどうたらこうたらと言っていた。地に足付いていなかったので、ほとんど覚えていないが。

「何だアイリーン。お酒飲んでないじゃない。もう酔ったの?」
 そんな彼女を、一人の女性が目に留める。彼女の視線は隅に避けられたジョッキに向いていた。

「いえ、料理がおいしくてつい」
「じゃあこれ飲む?」

 彼女がワイングラスを差し出した。
「あ、私お酒は……」
「何だなんだ、釣れないなー。おいしいからグッといっちゃいなよ、グッと!」
「ええ……」

 普段なら断固として断っていただろう。お酒なんて普段あまり口にしないもの、慣れない場で呑むものだとは到底思っていなかった。しかし、このような場だからこそ、その濃厚そうななワインレッドに、心惹かれた。
 こくっと喉を鳴らし、グラスを受け取る。そのままゆっくり口を付けた。

「あ……意外に美味しい」
「でしょ!?」
「もう一杯頂ける?」
「もちろんよ!」

 酒の臭いをぷんぷんさせながら女性陣は笑った。
 夜はまだまだ長そうだった。

*****

 ラヴィール通りの大きな劇場。
 今夜そこで演劇が催されたせいか、その付近は、すっかり夜が更けても賑わいは静まりそうになかった。オズウェルも、本来ならば休日だったこの日、劇が終わってから通常の見回りに参加していた。浮足立つのはいいが、それと共によく犯罪も横行する傾向があるので、人手は多いに越した方がいいのである。

「隊長……俺もう疲れましたよ。そろそろ帰りません?」
 オズウェルと組んでいた騎士はそう言って根を上げる。確かにそうだ。途中から見回りを始めたオズウェルなんかはまだいい方で、騎士団の中では下手したら何時間もここをただ周回するだけの者もいる。まだ店の明かりがついていた頃ならまだしも、今はもう既に深夜をとうに過ぎ、人の出入りも少ない。正直なところ、オズウェル自身も疲労を感じていた。時間外労働にも程がある。

「……そうだな、帰るか」
 見渡してみると、騎士の姿もめっきり減っていた。同じように考えた騎士たちは、隠れてこそこそ帰宅したのかもしれない。本当にそうだったとしても、怒るに怒れない。自分も同じことを考えているのだから。

 連れだって帰り路を歩いた。二人の間はもはや無言だ。早く詰所に帰って報告し、温かいベッドに潜り込みたいという一心だった。しかしそんな彼らの目に、ふらふら、ふらふらと歩く一人の若い女性の姿が目に入った。瞬時に若い騎士は目を逸らした。自分には関係ない、自分は今すぐ帰りたいんだ!という思いと共に。しかし隊長であるオズウェルはそうもいかない。

 自然、彼の顔は渋くなる。若い女がこんな夜更けに飲み歩くとは!と、思わず駆け足で駆け寄った。後ろの騎士は、へにゃっと眉を下げた。ああ、これでまた帰りが遅くなると。
 しかし近寄れば近寄るほど、オズウェルは更に苦渋を濃くした。その女人が知り合いであることに、思わず気が遠くなった。

「お前……こんなところで何してる」
「へ?」

 女人が顔を上げる。その顔は真っ赤だったが、見紛うことはなかった。子爵令嬢アイリーンである。

「舞台ももう終わったんだろう。なぜ飲み歩いている」
「え……ええ、うん、終わった」
「隊長、お知り合いですか?」
「ああ、まあな」

 立ち止まっている今ですら彼女の足取りは覚束ない。オズウェルは頭を抱えた。

「……俺は彼女を送っていくから、先に帰っていてくれ。報告書は俺が書いておく」
「え、でも隊長、折角のお休みなのに……。俺が送って行きましょうか?」
「有り難い申し出だが……この様子じゃ、自分の家の場所さえ言えなさそうだ。俺が送っていく」
「はあ……じゃあお先に失礼します」

 女性をほったらかしに、俺が俺がと主張するわけにもいかない。それに、オズウェルの提案は、もうすっかり疲れ切っている若い騎士にとっても有り難いものだった。

 深く一礼し、彼は踵を返す。これでようやく帰れるのだと思うと、帰り道もうきうきである。しかし、それ以上に、胸をドキドキと違う意味で高鳴らせるものがあった。先ほどの、オズウェルの言葉。

 ……あの女性の家を知っている、だと!? あの隊長が?
 普段から女っ気が無く、終いには周囲の者たちから副隊長とできているのではないかと失礼な噂が流れ出す始末。その節には、すごく気の毒に思っていたのだが、いざ恋人の存在を目の前に突き付けられると、何だかむず痒い気持ちにもなる。

 あの隊長に恋人……帰ったら誰に言おう!
 騎士はるんるんと帰り路を行く。こうして更なる噂が広がっていくのである。

 さて、そんな事とはつゆ知らず、オズウェルはアイリーンに肩を貸していた。

「動けるか」
「……うん」

 頷いたはいいものの、彼女の千鳥足では進むものも進まない。と言っても、立派な成人女性を抱えて歩くのも変な誤解を招かないとも限らないので、我慢して歩みを合わせるしかないのだが。

「劇……驚いた。お前、出てたんだな」
「え、あなた見たの?」

 アイリーンは驚いた声ような声を上げた。てっきり知り合いか何かにあげるだろうと思っていたのである。

「ああ……知り合いが皆その日は都合が悪いらしく、な。居心地が悪かった。ほとんど女性か恋人の客しかいなかったからな」
「ふ……ふふ、それはご愁傷様」

 体の大きい彼が、周囲の女性客に紛れ、身を縮こまらせている姿が目に浮かび、思わずアイリーンは噴き出した。

「ねえ……じゃあどうだったの? 劇」
「ああ……まあ、全体的には良かったんじゃないか。女性がよく好みそうだ」
「だよねえ……」
「お前も、結構堂々と演技してたな。ある意味似合っていた」
「ふふふ……」

 アイリーンは不気味な笑い声を上げる。

「そうよね、そうよね! さすがはアステリア! わたくしの魅力が分かる妹よ〜!」
「はあ?」

 突然アイリーンが元気になって叫び出すので、オズウェルは呆れてしまった。これは完全に酔っ払っている。

「アステリア〜、ねえ、もう疲れた。おんぶして」
「嫌だ。こんな所でそんな目立つことしてなるものか」

 そう決心して、オズウェルはずるずるとアイリーンを引きずり始めた。一夜にして二センチも彼女の靴が磨り減ったのは、決してオズウェルのせいではない。

 ようやく彼女の家に辿り着いときには、もう彼の疲労は頂点に達していた。成人女性を引きずって歩くなど、なかなかの訓練に相当する。

「おい、起きろ」
 静かだと思ったらいつの間にか彼女は眠り込んでいたらしい。寝言なのか、小さな声でアステリア、アステリアと呟いている。うるさい王女だとぶつぶつ言いながらも、オズウェルはぺちぺちとアイリーンの頬を叩いた。意外な柔らかさに、一瞬戸惑った。

「うん……?」
「家に着いたぞ。あんまり手を焼かせるな」
「うーん……」

 緩慢とした動作でアイリーンは伸びをする。いつにも増してのんびりしている。

「扉が閉まってるな。中に弟たちはいるのか?」
「うん……。もう寝ているのかも」
「でもこうしていても中に入れないだろ。忍びないが――」
「……向こう、向こうに、入り口があるから……」
「向こう?」

 言われるがままオズウェルは彼女を抱えて向かってみる。畑を通り過ぎ、丁度屋敷のキッチンだと思われる場所についた。

「鍵、そこの錠前の鍵……」
 意識がはっきりしないまま、アイリーンは石段のすぐ横に膝をつく。そのままスコップを手に取って花壇の脇の地面を掘り返した。帰りが遅くなりそうな時だけこの出入口を使うのだが、鍵は誰でも使えるようにこの場所に埋めてあった。何度も使用しているらしい彼女は手慣れていた。

 そのまま鍵を掘り返し、フラフラと立ち上がる。鍵を錠前に差し込もうとするのだが、視線も手元も定まらない状態ではうまく鍵が差し込めない。

「あ……」
「ああ、もういい、俺がとる」

 ポトッと落とした鍵を、オズウェルは屈んで拾った。まるで子供の世話をしている父親のようだ。
 扉に括りつけてある錠前に鍵を差し込みながら、彼は後ろに声をかける。

「寝る時は一応うつ伏せになって寝るんだ。ああ、その前に水を飲んでおくんだ」
「うん……」
「後は家に入って寝るだけだからな。一人でできるな?」
「できるー」
「よし、行け」
「はーい」

 いつもなら考えられないほどの従順さ、上機嫌ぶりだ。しかしオズウェルは心配そうにその後ろ姿を見つめる。酔っ払ったままどこかに頭をぶつけないか、そのままキッチンの中で眠りこけてしまわないかと彼の心配は尽きない。しかしかといってこんな夜更けに女性の家に上がり込むわけにもいかず、しばらくの間、中から何かが転ぶ音がしないのを確認すると、その場を去った。