第八話 高飛車の功名
45:開幕
劇場の舞台裏はてんてこ舞いだった。メイクをしたり、髪を整えたり、ドレスを着たり、発声練習をしたりと大忙しだ。
アイリーンはというと、ドレスもメイクもバッチリだったが、何しろ心の準備が大変だ。
今まで高飛車な態度で注目されることは多々あったものの、そのほとんどは本人が意図してそうなったわけではない。しかし今回は、自ら注目の舞台に飛び込んでいくようなもの。いくらアイリーンとはいえ、緊張しないわけがなかった。
「くれぐれもあたしたちの足を引っ張らないでほしいわね」
いつもより幾分か固い表情のアイリーンを目にしたせいか、セルフィはそう言い放った。が、逆にアイリーンはしてやったりと満足げな表情になる。一人静かに緊張しているよりも、真っ向から喧嘩を買う方が気がまぎれるというもの。
「あら、その白いドレスでは絶対に演技しないと宣言してたのはどこの誰でしたっけ? 一生舞台に上がらない……とか何とか言っていたような」
「き、気が変わったのよ! 何よ、あなたに関係ないでしょう!?」
「まあ確かにそうなんですけれど。くれぐれもそのドレス、雑に扱わないでくださいね? 結構時間がかかったので」
「何よ、たかが針子のくせに……!」
先ほどとはすっかり立場が逆転している。ギラリと光る瞳で周囲を見回してみたが、皆それぞれ自身の準備で忙しく、自分の味方になってくれそうな者はいない。く、っと歯を食いしばったが、そんな彼女の目に、控室の隅で静かに台本を読んでいる者が目に入った。ニィッとセルフィの口角が上がる。
「ねえ、サラ。あんたも何か言ってやりなさいよ。この針子のせいで役盗られたんだよ? 腹立たないわけがないわ」
呼びかけられた彼女、サラは、こちらに冷たい視線を寄越すだけで何も言わない。セルフィは歯ぎしりし、視線をアイリーンに戻した。
「ね、あんた貴族なんだよね?」
相手の出方が分からず、アイリーンは黙り込む。意に介さずに、セルフィはへらへら笑った。
「なら頷けるわー。あんたが役とれたのも。何で針子やってんのか知らないけど、貴族のコネか何か持ってんでしょ? そうだよねえ、ご令嬢を一人舞台にあげるだけで大きな後ろ盾だってもらえるんだし、団長もあんたを舞台にあげない理由は無いってわけだ」
セルフィの物言いに、アイリーンはただ静かに眉を上げた。貧乏子爵家に後ろ盾も何もある訳がない。何を勘違いして一人ぺらぺら話しているのだろうか、この女性は。
「ね、サラもそう思うでしょ? この子貴族だから役取れたんだよ。あんたもも災難だったわね」
控室のざわめきの中、セルフィの甲高い笑い声が通った。が、それにも負けず、パタンと本を閉じる音が、やけに耳に響く。
「別に……ただ私の実力が足りなかっただけでしょ。弱肉強食。この世界はいつもそうだったじゃない」
いつの間にか、サラはすぐ側まで来ていた。セルフィは唖然と彼女を見上げる。
「セルフィも気を付けることね。あなたの顔立ちは確かに主役を張るには丁度いい。でも性格がそんなんじゃ、いつか舞台に上がってもそれに邪魔される。役になりきれない時がいつか来るよ」
カッとセルフィの顔に熱が集まる。彼女のその表情は、以前にも見たことがあった。アイリーンは慌てて二人の間に身を滑り込ませた。
「ま……まあまあセルフィさん。ちょっと落ち着いて」
「何であんたに慰められないといけないのよ!」
「いえ、別に慰めているつもりはないんですけれど。ここで叫ばれたら面倒なので」
「〜〜っ、どいつもこいつも!」
アイリーンも随分大人になったと言えるだろう。本来ならば、彼女はとうの昔に言い返して一人だけすっきりしていた立場なのだから。しかし今は立場が違う。
サラは、アイリーンたちのやり取りを冷めた目で見つめた後、さっと踵を返した。途端にセルフィの眉が吊り上がる。
「サラ! まだ話は終わってないんだけど!」
「まあまあ」
「あんたは邪魔よ!」
ぎゃーぎゃー叫ぶ声を、分厚い扉が遮る。それだけで喧騒から離れることができ、サラはふっと息を吐き出した。
あの娘が、貴族。
初めて耳にした情報だった。
先ほど自分がセルフィに対して言い放った言葉を、そっくりそのまま自分にも言い聞かせる。
そうだ、この世界は弱肉強食。相手が貴族だからって、後ろ盾があるからって、簡単に役が手に入るなんてこと、そんなことはない。
分かっている。分かっていても、サラは、どうしても自身の中に燻る陰鬱とした感情を持て余していた。
足は自然と、団長の部屋へと向かう。モリスは、控室で茶を飲んでいた。ノックの音に顔を上げ、扉から顔を出した来訪者に目を丸くする。
「サラさん、どうかしたんですか?」
「あの、少し団長に話があって……」
「どうぞおかけください」
「いえ、このままでいいです」
モリスの前まで歩み寄ると、その場に仁王立ちする。目は宙を漂っていた。彼を見る勇気はなかった。
「アイリーンさんがあの役に選ばれた理由を聞かせてください」
「え……?」
「わ……たし、ずっと悩んでたんです」
サラは震える手でスカートの裾を握った。
「どうして……どうして私じゃ駄目なんですか。私……一生懸命やって来て、そうしてようやくこの役を取れたのに、なのにあの人に役盗られて……悔しく、ないわけありません!」
一体どの口が弱肉強食などと言ったのだろうか。これではあのセルフィと同じだ。むしろもっと悪い。直接文句を言わず、陰でこそこそ団長に文句をつけるのだから。
「私に、何が足りなかったんでしょうか」
知らない訳じゃない。あのお針子の娘が毎日モリスにしごかれていたことを。陰ながら努力していたことを。でも、それでも悔しかった。努力しているのはあの娘だけではない。この劇に人生をかけ、命を懸けている人だっている。努力を惜しんでいる人なんているわけない。モリスだってそれは承知のはず。
なぜあの娘が選ばれたのか。その理由が知りたかった。
「何が足りない、か。言うなれば、自信」
モリスは立ち上がる。サラに目を向けたが、彼女はこちらに視線を寄越さない。
「ステイシーは、確かにそれほど目立つ役ではない。しかしですね、彼女は誰にも決して屈しない役なんです。自身が処刑される時になっても」
「それは……分かっています」
「自分が悪くても悪くなくても、決して己を曲げず、前だけを見ている。彼女の自己中心的な思いすら貫き通す自信、それをステイシー役に求めたかったのです」
「意味が、分かりません」
サラは顔を俯かせる。モリスは困ったような笑みを浮かべる。
「決してあなたの技量が足りなかったとか、そういう訳ではありません。ただ……今回は、アイリーンさんの方が向いていると思っただけなんです」
最後まで、彼女と視線が交じることは無かった。
「……もう、舞台裏へ向かいましょうか。そろそろ舞台の幕が上がりますよ」
*****
物語は、一国の王が崩御したことから始まる。
今は亡き妾の娘、アステリアは、その出自から、王妃やその娘に、日々下女扱いされる毎日。いずれ訪れるであろう己の幸せな日々を夢見て、アステリアは今日も健気に掃除をする――。
「まあ、可愛らしい小鳥さん。おはようございます」
舞台には、純白のドレスを纏った可憐な少女が立っていた。名をアステリア。彼女は王女に命じられて、今日も掃除させられているのである。しかしアステリアは嘆くばかりではなかった。何しろ、この時間が彼女にとって唯一の癒しの時間。アステリアは、王宮のジメジメとした隅に住居を追いやられてからというものの、滅多に日の光を浴びることは無かった。しかし王女ステイシーの部屋の掃除をするこの時間だけが、その部屋の窓から広々とした景色を眺められる唯一の癒しだと言っても過言ではなかったのだから。
ふんふんと可愛らしくアステリアは鼻歌を歌う。同時に足取りも軽く、ステップを踏んだ。まるでその様は踊っているようで、とても義母や義姉から冷たい仕打ちを受けている少女の心境とは思えなかった。
しかしそれもそのはず、アステリアの心には、亡き母の言葉がずっと秘められていた。
いつも笑顔でいなさい。いつも楽しく過ごしなさい。
そうすれば、いつかきっとあなたを見初めてくれる心優しい男性が、あなたの運命の人が現れるのだから――。
だから今日もアステリアは笑顔だ。いつか現れる、素敵な運命の人と出会う日まで――。
「おーっほっほ!!」
どこからか甲高い声が響き渡った。瞬時にアステリアの美しい眉根が寄せられる。苦手な相手らしい。
「アステリア? 下手な鼻歌を歌わないでちょうだい。わたくしの耳が穢れるわ」
真紅のドレスを翻しながら登場したのはもう一人の王女、ステイシー。豪華な刺繍が施された扇子をこれ見よがしに構えながら、つかつかと舞台の中央に上がった。
「ごめんなさい、お姉さま。わたし、つい浮かれちゃって……」
「アステリア? あなた、自分の立場を分かっているのかしら。ほら、そこ。まだ窓枠が汚れていてよ」
ビシッと扇子で示される。慌ててアステリアは窓枠へ向かった。
「ごっ、ごめんなさい……!」
「全く、これだから愚図な女は嫌いなのよねえ?」
青い瞳が意地悪く輝く。アステリアは縮こまって掃除をしていたので、その瞳を目に入れることは無かった。面白くなさそうにステイシーはゆったりとしたソファに腰を下ろす。感慨深げにため息をついた。
「あーあ、お母様ったら早く舞踏会開催してくれないかしら。最近退屈で退屈で堪らないのよ。どこかに良い殿方でもいないものかしら……」
物憂げな顔が光で照らされる。その光が消えた時、幕も静かに下がっていった。場面転換だった。
さて、所変わって観客席。客の入りは上々だった。年齢層は若者から年寄りまで様々だったが、全体的に女性が多く見られた。夫婦で来ている者や恋人同士で来ている者、中には男性一人で来ている猛者もいるようだが、周りの女性客の多さに、居心地悪そうに身を縮こまらせていた。
そしてそんな中に、家族で来ている者たちもいた。平均的に年齢層は低く、年長者と見られる者でもせいぜい齢十四ほど。
彼らは、序幕の幕が下がってからしばらく、どうしてか一様に顔を俯かせていた。
その中の一人、年長者のステファンが口火を切る。
「あれ……僕の聞き間違いだっけ……。確か姉上は王女様役だったような……」
「間違いないわ。わたしも確かにそう聞いたもの」
「私の溢れ出る気品が、ようやく日の目を見るのねって嬉しそうに言ってたもんな」
再び黙り込む。先ほどの姉を思い出してみる。
「確かに王女役だけど……」
頬に手を当てて嬉しそうに高笑いをしているアイリーン。その傍らには、可哀想にびくびく怯えている主人公アステリア――。
「なんか違う」
見事に揃った。しかしそれに感動する間もなく、誰からともなくため息が漏れ出た。
「この劇のおかげで、更に姉上の評判が下がること間違いなしだね」
「主人公を苛める役か。ある意味ぴったりだな」
「姉御は何でやることなすこといつも空回りするのかしら」
「それが母様だよ」
「まあ……本人が楽しいのならいいんだけど、ね」
アイリーンのあの性格のことだ、役が嫌ならバッサリ断っているはずである。
「もう母様出ないのかな?」
「どうだろうなー。台詞は少ないって言ってたから、今ので最後なんじゃね?」
「なんだ、ちょっと残念。もう少し目に焼き付けておけばよかった」
「ほら、第二幕が始まるみたい」
子供たちは一斉に口を閉じ、視線を前に向けた。
姉の出番はもう無いにしろ、純粋に初めての演劇に興味津々だった。