第七話 兄弟喧嘩は犬も食わない

38:情報収集


 さて、エミリアがウィルドの聞き込みに失敗している頃、フィリップはステファンの学校を訪れていた。彼はそっと兄の教室を覗き込むと、エミリアの時とは違い、彼の姿はすぐに見つかった。友人と談笑しているらしく、家にいる時とはまた違った印象を受ける。

「あ……の、兄様」
 小さな声で呼ぶ。しかし教室の喧騒にかき消され、彼の声は兄まで届かない。

「何だー、この小さいの」
 びくっと身を震わせて振り返ると、一人の少年がフィリップを覗き込んでいた。彼はフィリップと目が合うと、ニカッと笑った。

「なに、誰かの弟? 兄ちゃんに会いに来たのか?」
「あ……うん。兄様……あ、ステファン、兄様に」
「何だステファンの弟か! びっくりした、あんまり似てないんだな」

 フィリップの頭に手を乗せ、くしゃくしゃっと撫でた。

「俺はジェイ。ジェイ兄ちゃんって呼んでな! じゃ、今からあいつ呼んでくるから」
 騒がしくジェイはそのまま教室へ入っていこうとする。しかしフィリップは慌ててその裾を掴んだ。

「ま、待って!」
「ん、どうした?」
「あの、ちょっと話したいことが……」
「俺に? ステファンは?」
「ううん、お兄ちゃんに。兄様は抜きで」

 ジェイは少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。

「じゃ、ちょっと廊下に出ようか」
「うん」

 フィリップも大人しくついてくる。ジェイと小さな少年の組み合わせが珍しいのか、廊下はよく視線が集まった。

「何か相談でも?」
「うん……。兄様、今日何か様子おかしかった?」
「ステファン?」
「うん。何か怒ってるみたいとか、ため息をついたとか」
「うーん……。特にはなかったかなあ。いつも通りに見えたけど」
「そっか……」

 フィリップは落胆して肩を落とした。
 家では兄として堂々としている彼が、学校では無邪気に笑っていた。ならば学校の友達ならば、兄も何かこぼしたりするのではないかと思ったのだが、そうは上手くいかないようだ。

「なに、何かあったの?」
「ううん、何でもない」

 フィリップはすぐに首を横に振る。これは子爵家の問題だ。迷惑はかけられない。それに、二人が喧嘩しているのも、何か込み入った事情かもしれない。

「あいつはよく自分の中に溜めこむからなあ。俺、あんまりあいつから泣き言聞いたことも、相談受けたことも無いからさ」
 ジェイはふっと顔を横に向け、窓の外を見た。その横顔は、どこか寂しそうに見えた。

「ごめんな、あんまり力になれなくて」
「ううん、ありがとう」
「ステファン呼んでくるよ」

 ジェイはさっと教室に入り、ステファンを呼びに行った。帰る支度をしていた彼はすぐにやって来た。

「フィリップ? どうしたの?」
「ううん、一緒に帰りたくなっただけ」
「今日は帰りに買い物するつもりだったんだけど、大丈夫?」
「うん!」

 二人は歩き出す。市場へ向けて。
 最初こそフィリップの足取りは軽かったが、次第に今朝のことが思い出され、それも重くなる。ステファンもそれに気づき、足を止めた。

「どうかした?」
「うん……」

 自信無げに頷いたが、それ以上言葉が続かない。思い切って顔を上げた時、思いのほか言葉は勢いよく飛び出た。

「ウィルドとのこと、気になって……。二人、喧嘩してるでしょ?」
「あ、そのことか……」

 ステファンは小さく呟き、再び歩き始める。フィリップも小さな足で追いついた。

「気にしなくて大丈夫だよ。大したことじゃないから」
「でも――」
「喧嘩っていうほどのことじゃないし、ちょっと二人とも虫の居所が悪いだけだから」

 誤魔化されたような気がした。

 それは、自分を信用していないからか。
 それは、自分じゃ頼りないからだろうか。

「――僕、用事を思い出した」
「え?」
「兄様は先に行ってて!」
「フィリップ!」

 堪らず駆けだした。こんな時、いつも自然と足が向かうのはアイリーンの所だった。しかし今彼女はいない。居場所のないフィリップが辿り着いたのは一軒の花屋だった。彼女は相変わらず鼻歌を歌いながら花に水をやっている。何時ものその光景にフィリップはホッと胸を撫で下ろし、アマリスに近づいた。

「フィリップ? どうしたのさ」
 先に声をかけたのはアマリスだ。彼女はいつも人の機微に敏感だ。

「何か悩み事?」
「うん……」

 アマリスはさっと中へ入ってフィリップに椅子を勧める。遠慮がちに彼は腰を下ろし、口火を切った。

「その、兄様とウィルドが喧嘩してて」
「喧嘩? 珍しいね。アイリーンは?」
「お仕事でこのところ家に帰って来ない」
「そっか……」

 唸りながらアマリスは腕を組む。

「仲直りの仕方が分からないのかもね」
 ぽつりと呟かれた言葉は、優しく耳に響いた。

「大丈夫だよ、あの子たちならまたいつの間にか仲直りしてるから。こっちが拍子抜けするくらいね」
「そう、なのかな」
「あ、なんならさ、お花、持って行くかい? 喧嘩で荒れに荒れきった二人の心も、お花を見れば穏やかになるかも!」

 アマリスは店に入ると、ちゃっちゃと手早く花束を作り、フィリップに押し付けた。気持ちは有り難いが、このくらいで二人の関係が良くなるとは、どうにも思えなかった。

「…………」
「なんだい、その目は。さてはあたしの言うこと信用してないんだね?」

 沈黙に徹しているフィリップを見、アマリスは腰に手をやった。

「見た目もさることながら、花はまずね、その香りが癒されるんだ。こう、心を落ち着かせてくれるって言うかね――」
「…………」

 また長々とした説教が始まりそうだった。こういう時は逃げるに限る。フィリップはすぐさまぺこっと頭を下げて、身を翻した。アマリスは自分に酔いしれるよう、目を瞑ったまま話しているので、フィリップがいなくなったことには気づいていない。彼女の店の前を通る人々も、まーたアマリスの奴、花相手に世間話をしているよ、ぐらいにしか考えていなかった。

*****

 その後、フィリップはとくに何の収穫もなく帰宅した。
 居間に入ってみても、いつもならとっくの昔に帰っているはずのステファン、エミリアがいない。心細くなってテーブルの周りをうろうろしてみたが、家人の誰も姿を見せない。

 疲れ切ってソファに寝転がると、うとうとと眠気が襲ってきた。穏やかな時間に抗うのも面倒で、彼はそのまま身を任せた。

 フィリップが眠りの世界へ旅立ったころ、ステファンもようやく帰宅した。疲れたような顔で居間へ入って来たが、小さな弟がソファで寝ているのを見ると、静かに荷物をテーブルに置いた。どこからか花の香りがする、と思ってきょろきょろ見回した後、フィリップに視線が落ち着いた。彼の手に、大事そうに花束が抱えられている。アマリスの店にでも行ったのかもしれないと憶測を立てた。

 椅子に腰を下ろし、何気なく弟の安らかな寝顔を見つめる。

 随分、心配をかけたとは思う。
 子爵家の面々は喧嘩はあまりしたことがないし、したとしても誰かが仲裁して大事になることはほとんどない。

 やはり、姉上がいないことで何かがおかしくなっている。

 しかしそれに気づいたとして、何をどうすればいいのだろうか。自分から仲直りを申し出るのは矜持が邪魔をするし、向こうからはもっと考えられない。

「ただいま」
「あ、お帰り……」

 そうこうしないうちにウィルドとエミリアは帰ってきた。一瞬、ステファンとウィルドの視線が交じる。場に緊張が走った。が、どちらからともなくそれはすぐに外された。エミリアはふーっと息を吐き出した。

「すぐご飯作るから」
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。ゆっくりしていて」

 エミリアはキッチンで、フィリップはソファ。
 気まずい沈黙の中、ステファンとウィルドはそれぞれ違う所を見ながら椅子に座ることとなった。誰も何も言わない。視線すら交じることは無い。ただひたすらに、エミリアの料理が早く完成することを祈っていた。

「はいお待たせしましたー。兄様、フィリップを起こして」
「よし」

 思わず即答し、ステファンは立ち上がった。心中で安堵のため息を漏らし、フィリップの肩を揺らす。

「フィリップ、夕食だよ」
「……うん」
「よく寝てたみたいだね」
「うん」

 言葉少なに頷き、フィリップはステファンとウィルドとを交互に見やる。まだ仲直りはしていないようで、しょんぼりと肩を落とした。自分が寝ている間に、またいつもの子爵家が戻ってくればと思っていたのだが、事はそう簡単に運ばないようだ。

 皆がテーブルにつき、各々食事を開始する。カチャカチャとカップやらフォークやらがぶつかる音だけが居間に響く。

「…………」
「…………」

 いつも以上にその日の食卓は沈黙に塗れていた。誰も口を開かない。互いが互いの顔色を窺うばかり。
 今朝ほど剣呑としているわけではない。しかし、気まずい。その一言に尽きた。

「もう! 一体二人ともどうしたのよ!」
 我慢できずに声を張り上げたのはエミリアだった。